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概要編集

ヘルマン・ホト(1885年4月12日~1971年1月26日)

ドイツの軍人。上級大将。

特に第二次世界大戦における装甲部隊を率いての采配で高く評価されている。


経歴編集

1885年4月12日、ブランデンブルク州ノイルペンで軍医将校の息子として誕生。

1896年、ポツダム幼年学校に入学し、1904年2月27日から第72歩兵連隊士官候補生として軍人生活を始める。1914年の第一次世界大戦勃発の折は陸軍参謀本部の中尉であった。


[[第一次世界大戦では中隊長、大隊長、第8軍、第10軍参謀、陸軍航空隊司令部参謀などを務め、終戦時は第30歩兵師団先任参謀の大尉であった。


戦後、[[ヴァイマル共和国軍となり、陸軍編成部、陸軍訓練部、第4歩兵連隊第1大隊長、第1集団司令部参謀、第17歩兵連隊長、リューベック地区防衛司令官、第3歩兵指導者司令部、第18歩兵師団長を歴任し、[[第二次世界大戦勃発時には大将として第15軍団長の任にあった。


ポーランド侵攻作戦ではゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将の第10軍の指揮下で自動車化された第15軍団を率いて活躍。


1940年5月からのフランス侵攻戦ではギュンター・フォン・クルーゲ上級大将の第4軍に属して参加。第15軍団はミューズ河一番乗り、ブレスト攻略など縦横無尽の活躍を見せ、7月19日に上級大将に昇進。


11月16日、第3装甲集団司令官に任命される。


1941年6月からのソ連侵攻戦バルバロッサ作戦フェードア・フォン・ボック元帥の中央軍集団に属して参加。6月のミンスク、7月のスモレンスク攻略に活躍。


10月5日、第17軍司令官に任命される。ドネツ河流域での攻防戦、1942年5月の第二次ハリコフ攻防戦に参加。


5月15日、第4装甲軍司令官に任命される。


6月からのドイツ軍攻勢である青作戦にはB軍集団に属して参加。

ヴォロネジ、スターリングラードと転戦し、12月にはエーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥のドン軍集団の指揮下として包囲されたスターリングラード解囲を目的とした冬の嵐作戦の主力として参加するも、ソ連軍のロストフ方面で始めた攻勢への対処せねばならなくなり作戦は失敗する。


1943年2月からの第三次ハリコフ攻防戦でマンシュタイン元帥の南方軍集団に属して第1装甲軍と共にハリコフを奪回し戦線を安定させる。


7月からの夏季攻勢クルスクの戦いに南方軍集団に属して参加。北方の第九軍の停滞とは対照的に強固なソ連軍陣を突破し、プロホロフカでは史上最大規模の戦車戦を制すも、シチリアへの連合軍の上陸を受け作戦は中止される。


クルスクの戦い後、ドイツ軍は後退を続け、11月にはキエフも占領される事となる。ヒトラーのキエフ奪回命令に現状では不可能と抗議したホトはその逆鱗に触れ解任され予備役となる。


1944年4月、閑職であるエルツ山区地区司令官に任命され、そのまま終戦を迎える。


1947年からの国防軍最高司令部裁判により第17軍司令官時代の罪状で懲役15年の判決を受け、1948年10月27日よりランツベルク刑務所にて服役。


1954年4月7日、釈放。


1971年1月26日、西ドイツニューザクセン州ゴスラーにて死去。


逸話編集

小柄で華奢な体格であった。

だが元気旺盛で活発で何時も陽気に振舞っていた為に人気があり、兵からも「ホト親爺」として親しまれたという。


元来は歩兵大将であったが、自動車化された第15軍団司令官への就任を転機に装甲部隊運用を学び、ドイツ軍の装甲戦術のエキスパートの一人となった。


性格は激情家であったと言われる。

だが、モスクワをめぐり第2装甲軍集団長のハインツ・グデーリアンと意見対立をしても遺恨として残るものとはせず、また年下で軍歴も劣るマンシュタインを上司に仰いでも不服とするでもなく最も忠実に命令に服していたとマンシュタインに感謝されている。


第17軍司令官時代にユダヤ人絶滅・共産党政治将校即時処刑を命じており、後日に戦犯として裁かれる事となった。

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