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経歴

1886年12月25日、東プロイセン、グムビネンにてドイツ福音主義教会の牧師の息子として生まれる。

1905年、中等教育学校を卒業後、3月8日に第95歩兵連隊の士官候補生として軍に入隊。

第一次世界大戦では第24予備軍団、第115師団、第7軍団、第8軍団参謀などを務め、ベルギー、東部戦線、フランスなどで戦い、終戦時は大尉であった。

戦後は軍に残り、第13歩兵連隊の第14中隊長、国防省、第3歩兵連隊の第3大隊長などを務め、第二次世界大戦勃発時には第16歩兵師団長の中将であった。

1940年4月9日に第12軍団長に就任し、フランス侵攻戦ではヴィルヘルム・フォン・レープ上級大将のC軍集団の第1軍に属し戦った。

1941年6月からのソ連侵攻作戦バルバロッサ作戦には第43軍団長としてギュンター・フォン・クルーゲ元帥の第4軍に属しミンスク、キエフ、モスクワと戦い戦功をたてる。

1942年1月に上級大将に昇進し、20日に第4軍司令官に就任。
6月7日から7月14日までハンス・フォン・ザルムート大将に職務を引き継ぎ休養をとる。

1943年、6月1日より7月30日まで再びザルムート上級大将に職務を引継ぎ休暇をとる。
8月7日、ソ連軍の攻勢が始まり、平穏だった第4軍の属する中央軍集団も後退を強いられるようになり、第4軍はオルシャでは多大な損害を与えてソ連軍を撃退するなど粘り強い後退戦を行う。
この後退戦ではハインリーチはその卓越した防禦手腕を評価され柏葉付騎士十字章を受勲するも、彼はソ連側に利用価値あるものを渡さない為の建物・施設破壊、食料を焼き払う焦土戦術の命令に否定的であり、スモレンスクの破壊を拒否した為にカールスバートの療養施設に療養を理由に押し込められ一時解任される。

1944年6月4日、突出した状態になっている中央軍集団の危険を指摘し、後退しての戦線の整理を幾度と無く主張したハインリーチは、ヒトラーの怒りを買い第4軍司令官を解任される。
8月15日、第1装甲軍司令官に就任。ハンガリー第1軍も指揮下におく。
粘り強い後退戦を演じ、さして損害を出さないまま第1装甲軍をスロヴァキアに後退させることに成功し、1945年3月3日には柏葉・剣付騎士十字章を受勲する。

3月20日、今やベルリン正面に位置するヴァイクセル軍集団司令官に就任。
4月16日、圧倒的に優勢なソ連軍のベルリンへの攻勢が開始され、配下の第9軍はゼーロフ高地でゲオルギー・ジューコフ元帥の第1白ロシア方面軍の攻撃を一時的に阻止するなど奮戦するも19日には突破される。
20日には軍集団のもう一つの配下である第3装甲軍へのソ連軍攻勢も開始され、25日にはこちらも戦線を突破された。
28日、死守命令を握りつぶし第9、第3装甲軍の撤退を許可していたハインリーチは、部隊が後退しているのに驚き、彼を探しに来た最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥と会談し、行ったとしても成果は全く期待できず徒に犠牲を増やすだけと元帥のベルリン救援要請や部隊を踏み止まらせよとの命令に反した彼はヴァイクセル軍集団司令官を解任された。
5月28日、イギリス軍の捕虜となる。
イギリスの南ウェールズのアイランドファームに1947年移送で短期間アメリカ軍キャンプで過ごした以外は1948年5月18日に釈放されるまで収容されていた。

釈放後はバーデン・ヴュルテンベルク州のエンダースバッハ・バイ・ヴァイブリンゲンの村に居を構え、1971年12月13日に亡くなった。

逸話

●防御戦のエキスパートとして知られ、敵の攻勢開始前に前線陣地から部隊を後方の陣地に後退させ、敵の準備射撃をもぬけの空の陣地に無駄撃ちさせ、その後、準備射撃で損失を受けないまま敵の攻撃を迎え撃つ肩すかし戦術の名人芸などでソ連軍を苦しめた。
またその粘り強い防御戦も有名で、ある者は「周りの空気が鉛になってから後退する」と評したという。

●父親が牧師であり、叔父にはプロテスタントの高名な神学者であったゲオルグ・ハインリーチがおり、ハインリーチ自身も敬虔なプロテスタント信者であり定期的に教会に通っていた。
また彼の妻ゲルトルートは親がユダヤ人の為に二人の息子共ども迫害される立場であったが、ハインリーチはヒトラーからドイツ血液証明書を受け取っており、それでアーリア人としての地位を確立し、妻と息子を差別から保護していた。
それらの環境からかハインリーチはナチスのやり方には懐疑的であり、ナチス党への入党も断っていた為にヒトラーやヘルマン・ゲーリング国家元帥との仲は良好ではなく、ゲーリングはスモレンスク破壊を拒否したハインリーチを病気療養の理由で療養施設に押し込めたり、「危険なまでに反抗的な人物」と評していた。

●ドイツ国防軍の長老であるゲルト・フォン・ルントシュテットとは従兄弟であった。


●身嗜みは意に介さず、第一次世界大戦の長靴・上衣を好み、ボロボロになっても着用したという。その為に気にした副官が軍服を新しく仕立てようとその話題をふり、ハインリーチが興味を示すか反応した為に安堵するも「なんの為に?」と返され閉口したという。

●ヴァイクセル軍集団を解任された折に、最高司令部への出頭命令を受けたが、エルヴィン・ロンメルの副官であったヘルムート・ラング大尉から、ロンメルのように自決を強要される事を心配され、「なるべくゆっくりと最高司令部に向かうように、その頃には戦争は終わっています」との内容の助言を受け実行したという。その頃にはヒトラーは自決しており、ハインリーチは危機を免れる事ができた。
ロンメルはかってハインリーチの副官を務めていた。

●第一次世界大戦で毒ガスの被害を受けており、肝炎など健康状態はすぐれておらず長期休暇をとったり、ヒトラーから解任の大義名分に使われている。

●小柄な体格をしていた。そんな彼を部下の将兵達は「我等のチビな頑固者」と親しみを込めて呼び、逆に嫌う者は「毒ある小人」と呼んだという。

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