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経歴


オットー・モーリッツ・ヴァルター・モーデルは1891年1月24日にゲンティーンで音楽監督の父の長男として生まれた。


1909年、第52ブランデンブルク歩兵連隊「フォン・アルフェンスレーベン」に士官候補生として入営。ニサの士官学校で教育を受ける。


1901年、少尉となり、連隊の第一大隊に配属される。


第一次世界大戦では、第52連隊の大隊・連隊副官、中隊長、陸軍最高司令部作戦課、後備第36師団次席参謀を歴任し、終戦時は大尉であった。


終戦後も軍に残り、第17軍団参謀、東部国境警備隊、第14歩兵連隊第2大隊機関銃中隊長、戦術・戦史教官、兵務局教育部、第2歩兵連隊長、参謀本部技術長、第4軍団参謀長を務め、1939年の第二次世界大戦開戦時は第16軍参謀長である少将であり、ポーランドと翌年のフランス侵攻戦に参加し、4月には中将に昇進していた。

11月に第3装甲師団長に就任。


1941年6月より始まったソ連侵攻バルバロッサ作戦にはハインツ・グデーリアン上級大将の[[第2装甲集団に所属し活躍。

装甲兵大将に昇進し、11月1日には第41装甲軍団長に就任。ゲオルグ・ハンス・ラインハルト上級大将の第3装甲集団に所属しモスクワ攻略の[[タイフーン作戦に参加。12月5日には軍団最先鋒はモスクワから35㎞まで前進するも冬の到来とソ連軍の反撃により苛酷な後退戦を強いられるが、モーデルの冷酷なまでの断固としたリーダーシップで崩壊する事無く秩序だった後退を行う。


1942年1月15日、第9軍司令官に就任。

突出部となっていたルジェフを担当する同軍へのソ連軍の反攻は激しかったが此処でもモーデルのリーダーシップが発揮された事もあり持ち堪え、その功により2月には上級大将に昇進。

5月23日、ソ連軍狙撃兵の銃弾を左肺に受け緊急手術をうけ一命を取り留め、療養の後に8月10日に前線に復帰する。

11月に始まったソ連軍の大攻勢火星作戦に対しては大損害を与え撃退する事に成功するも第9軍の損耗も激しく、1943年3月にルジェフ突出部から撤退した。

7月のクルスクの戦いでは北と南でクルスク突出部を噛み砕く攻勢の北方の上顎の任務を与えられるが、歩兵を主とした部隊で陣地に破孔を穿った後に突破兵力として装甲部隊を投入する彼の計画は強固なソ連軍陣地により歩兵は決定的な突破はできず、結局、予備の装甲師団を投入するも状況は好転せず、それどころかソ連軍が軍後方のオリョールに攻勢をかけてきたためにそれへの対応で殆ど前進できないまま作戦を終了する事となる。

第9軍はソ連軍の攻勢を前にドニエプル河まで撤退。

9月、第9軍司令官の任務から解放され、ドレスデンで家族と休暇を取る事となる。

(11月4日にヨーゼフ・ハルペ上級大将が後任に就任。)


1944年1月9日、北方軍集団司令官に急遽就任。

ソ連軍の攻勢を受け崩壊寸前の状態から部隊を後退させ戦線を安定させる。この功により3月1日、元帥に昇進。

30日、北ウクライナ軍集団司令官に就任。

6月28日、ソ連軍のバグラチオン作戦で壊滅的な状況に陥った中央軍集団司令官も兼任する事となる。

ミンスク保持は可能とした強気のモーデルもこの状況を覆すことは出来ず、ポーランドのワルシャワまで200㎞の地点でソ連軍が攻勢限界点となりようやく戦線を立ち直らせる事が出来た。

8月17日、西方総軍B軍集団司令官に就任。

情勢は厳しく22日までにはファレーズ包囲戦で第7軍は英米連合軍により壊滅状態となり、25日にはパリも解放され、モーデルはドイツ軍をドイツ国境付近へと撤退させた。

9月3日、西方軍司令官の任を解かれ、後任には再びゲルト・フォン・ルントシュテット元帥が就任。これでモーデルはB軍集団司令官の職務に専する事が出来た。

17日より始まったオランダの解放とドイツ本国への通路確保の為の連合軍の空よりの空挺部隊と陸上部隊からなる一大攻勢マーケット・ガーデン作戦を受け、モーデルの積極果敢な指揮が災いし、連合軍の目的である橋の確保を阻止する為の橋の爆破を反撃の為に認めずナイトメーヘン橋まで侵攻されるも、アーネム橋は確保し英第1空挺師団を壊滅させ攻勢を頓挫させた。

12月16日、奇しくも1940年フランス侵攻の発起点となったアルデンヌの森にて西部戦線における最後の攻勢を行う。しかし一週間余りで攻勢は失敗し、ドイツ軍は最後の予備兵力を喪失する事となる。(バルジの戦い)

1945年4月1日、B軍集団はルール地方で米第1・第9軍に包囲される。

15日、米第18空挺軍団司令官マシュー・リッジウェイ少将より降伏勧告を受けるも、ヒトラーとの誓約に反すると拒絶。その代わりB軍集団を解散する方向に動き、最年長・最年少兵士を解任し、残りの者には休暇を与え、20日にはヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相に裏切り者と非難された。

21日、デュースブルクとリントルフの中間点の森でモーデルはピストル自決を遂げた。


逸話

●時には苛酷なまでの溌剌としたアグレッシブなリーダーシップで部隊を牽引して部隊の士気・規律を維持した。将軍であるにも関らず自ら前線に立ち指揮をとった事もあるという。その東部戦線で三度、西部戦線で一度、崩壊していた戦線を立て直した手腕は有名で「ヒトラーの火消し」役の異名を得た。

自信家でもあり、第9軍司令官着任の折には部下の増援はどのくらい来るのかの質問に「私だ」と答えた。

またクルスク攻略のツィタデル作戦には5月の会議で参謀総長クルト・ツァイツラー上級大将、南方軍集団司令官エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥達は即座の攻勢を主張したのに対して攻勢の延期を望み、これは延期を繰り返す事で作戦そのものを破棄させようとしたとも言われるが、作戦決行前日のモーデルの日誌には作戦遂行への大いなる期待が綴られていたという。

マーケット・ガーデン作戦の折には空挺部隊の降下先がたまたま司令部の近くだった事から、連合軍の目的は自分の誘拐・殺害であると当初は考え、連合軍の目的がオランダを繋ぐ橋の確保と判明後、部下から橋を爆破すれば自ずと連合軍の意図を挫けるとの意見を頑なに拒み、反撃に使用する為に認めなかった。


●ぶっきらぼうで口が悪く、上官への話し方も礼儀を欠いていたと言われ、また自信に満ちた積極果敢な激しい言動やヒトラーのお気に入りで出世も早かった事もあってか敵も多かった。その為か当初から将校としての必要教育を受けていたれっきとした将校だったにも関らず、兵隊あがりの将軍との説が巷に流布した事もあった。

しかし、本人は言われる程には自信家でも野心家でもなかったようで、西方総軍とB軍集団の司令官を兼任して暫く後には自身の能力に余る事を素直に認め、どちらかに専念したい旨を上層部に訴えている。

またバルジの戦いでは、アルデンヌでのヒトラーの攻勢案を知った折には「この作戦という椅子には立つ為の一本の足すらない」と述べたといわれ、ミューズ河前面で米第1軍を包囲殲滅する現実的な代案をヒトラーに出している。


●第9軍司令官時代にヒトラーの自軍への干渉に苛立ち、上司である中央軍集団司令官ギュンター・フォン・クルーゲ元帥を介す事無く飛行機で直接東プロイセンに赴きヒトラーと直談判して自分の方針を認めさせたという。

それからは彼の指揮により第9軍が前線を保持する結果もあってヒトラーから厚い信任を得て重用される事となり、本来は占領地に執着し後退を認めないヒトラーも占領地奪回の為には反撃部隊を創る事が不可欠であり、その部隊を抽出する為には一時的にも後退して戦線を整理して余剰戦力を作る必要があるとのモーデルの説明には理解を示し後退を許可したという。

また彼自身もヒトラーへの忠誠心の高い国防軍将軍の一人であり、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件ではヒトラーへの忠誠を真っ先に再誓約した上級指揮官であり。ルジェフ突出部やドニエプルへの後退での焦土作戦などでは現地での抵抗勢力に対する弾圧、虐殺や略奪に関して親衛隊に協力的であったという。

その一方でワルシャワ蜂起への部隊派遣要請は後方の親衛隊と住民の問題であると拒否したという。またヒトラーが最末期に「この戦争に負けたドイツ国民に生きる価値はない」とドイツのインフラ全てを破壊するよう命令したネロ指令は無視している。


●積極果敢な性格で防御戦でも積極的に攻撃に出て反撃する方であったが、攻撃よりは防御戦が得意だったと思われ、ルジェフ戦などの防禦・後退戦での手腕は高く評価されている。その反面、クルスクの戦いでは突破部隊の装甲部隊を温存する為に歩兵を主力とした部隊にソ連軍陣地をまず攻撃させて失敗し、当初から装甲部隊も投入した南方軍集団がある程度の突破に成功したのとは対照的であった。

バルジの戦いでも戦車の活動に不向きな地形に歩兵で攻撃して破孔を穿ってからの装甲部隊の突破を提案し、それを受けた第6SS装甲軍は突破に失敗し、当初から装甲部隊も投入した第5装甲軍は突破に成功している。


●失態を犯した部下を人前で口汚く侮辱したり、細かく管理し、相談も無く計画を変更する、指揮系統に従わずに飛び越えて命令する事などで部下には嫌われ、また苛酷な目的達成命令を出した事からはソ連のノルマ超過運動の象徴であるアレクセイ・スタハノフになぞらえられ「スタハノフ」の異名で呼ばれ、後方勤務者からは前線で使えそうな者をその中から探し出そうとする事から「恐怖の飛行者」とも呼ばれ恐れられたが、その反面、官僚主義を嫌う彼の言動は人気もあったという。

またフリッツ・バイエルライン中将は、西部戦線での司令部でモーデルと再会した折に、彼に如何して此処にいるのか尋ねられ、司令部に挨拶に来ていたと告げ、ついでに師団長を務める装甲教導師団が英米軍との戦闘で壊滅状態になった為に部隊を後方に下がる事になった旨を伝えると「東部戦線では部隊は前線で休養を取っている。私は此処でも同じ事をするつもりだ」と言われたという。


●ピストル自殺を遂げたが、これは東部戦線での折の彼の部隊が行った戦争犯罪行為からソ連に戦犯として裁かれる事を予想しての事とも言われる。

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