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クルスクの戦い

くるすくのたたかい

クルスクの戦いとは第二次世界大戦中期に行われたドイツ軍の攻勢作戦である。
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概要編集

1943年上半期編集

1943年1月のスターリングラードの戦い終了後、ソ連軍は反攻に転じていたが、それは補給を無視した滅茶苦茶なものであった。

2月末、ソ連軍が補給の途絶によって戦力回復や燃料補給が行えない状況に追い込んだと判断したドイツ南方軍集団司令官エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥は総反撃を命じ、3月中旬に泥濘期に入って攻勢継続が不可能になるまで続けられることになった。

この戦いの結果クルスクに突出部が形成されることになり、マンシュタインや前線司令官たちはアドルフ・ヒトラー総統にクルスクへの攻撃を上申したことで、ヒトラーは「5月3日にツィタデレ(城塞)作戦を発動する」と宣言した。

しかしソ連軍もドイツ軍の次の目標をクルスクと看破しており、「ドイツ軍の攻勢をしのぎ切った後で、予備兵力をもって反撃する」ことを基本戦略に定め、兵員や戦車、各種火砲を集積する一方、クルスク前面に8層に及ぶ縦深陣地を築き待ち構えていた。

ソ連軍がクルスクの守りを固めている情報を察知したドイツ軍首脳部は、「戦力増強のため作戦延期(ヒトラー)」「クルスクへの早期攻撃(マンシュタイン)」「攻撃中止(ハインツ・グデーリアン上級大将、アルベルト・シュペーア軍需相)」に意見が分かれていた。最終的にはヒトラーの鶴の一声で7月5日攻撃開始が決定された。


両軍の戦力編集

ドイツ軍編集

攻撃の主体となったのはクルスク北側に展開する中央軍集団(ギュンター・フォン・クルーゲ元帥)麾下の第9軍(ヴァルター・モーデル上級大将)と南側に展開する南方軍集団(マンシュタイン元帥)麾下の第4装甲軍(ヘルマン・ホト上級大将)とケンプフ軍支隊(ヴェルナー・ケンプフ大将)であった。最終的な参加兵力は、人員90万、戦車3,200両、火砲10,000門、航空機1,800機に及んだ。

戦車もこれまでT-34KV-1に苦杯をなめていたのが、V号戦車パンターD型やVI号戦車ティーガー、さらにフェルディナント駆逐戦車ホルニッセマルダー対戦車自走砲などの対戦車車両をそろえ質的優位を確保した。またブルムベア突撃戦車やフンメル重自走砲、ヴェスペ軽自走砲などの歩兵支援用自走砲もそろえていた。しかし数的にはIII号戦車IV号戦車の後期型といった戦車が主といった状況であり、また敵の反撃に備える為の予備兵力もなくこれが後程大きく響くことになる。

ソ連軍編集

防御の主体となったのはクルスク北側の中央方面軍(コンスタンチン・ロコソフスキー大将)と南側のヴォロネジ方面軍(ニコライ・ヴァトゥーチン上級大将)で、さらに両方面軍東側に予備兵力としてステップ方面軍(イワン・コーネフ大将)が展開していた。総兵力は人員260万、戦車9,300両、火砲45,000門、航空機6,600機に及び、そのうちの半数がクルスクの防御にあたった。

戦車は従前のT-34、KV-1に加えてレンドリースされたM3中戦車バレンタイン歩兵戦車などをそろえた。さらに対VI号戦車用にSU-122SU-152自走砲を用意したが、開戦当初猛威を振るったT-34やKV-1もドイツ軍の新型戦車に対しては攻防共に劣位で、SU-122、SU-152は正式採用されたばかりで数がそろっていない、レンドリース戦車は質的にソ連戦車以下という問題があった。


攻勢開始編集

7月5日ドイツ軍は南北からクルスクへ襲い掛かったが、北部の第9軍は歩兵と突撃砲を前面に押し出し、戦車を予備兵力として使用したことで攻勢は遅々として進まず、さらに中央方面軍も予備兵力を投入することで前進を阻み続けた。

南部の第4装甲軍とケンプフ軍支隊は、逆にティーガー戦車を前面に押し出しその援護下で歩兵や兵員輸送車を前進させる「パンツァーカイル」という戦法をとった。ヴォロネジ方面軍の予備兵力だけではドイツ軍の前進を止めることは出来ず、ステップ方面軍からも第5親衛軍と第5親衛戦車軍が送り込まれて、12日にクルスク南東87kmのプロホロフカで大規模な戦車戦が行われることになった(プロホロフカの戦い)。

ソ連軍戦車隊は質的劣勢を補う為ドイツ軍戦車隊に接近戦を挑んだものの、これは数的主力で質的にT-34と同等以下であったIII号、IV号戦車にとってかえって有利に働くことになり、最終的な損害はソ連軍側の方がはるかに大きくなった(ソ連軍300両、ドイツ軍70~80両。異説あり)。しかしドイツ軍も無視できないだけの損害を被ったことで足止めを余儀なくされた。


ソ連軍の反攻作戦編集

遡ること10日、アメリカイギリスの西側連合国軍がイタリアシチリア島に上陸作戦を発動したため、イタリアの枢軸国脱落を恐れるヒトラーは12日に攻勢中止を決めた(ただしマンシュタインの要請により南部での攻勢は17日まで続いた)。

12日、第9軍の進撃が止まったのを確認したソ連軍は、クルスク北側で西部(ワシーリー・ソコロフスキー大将)・ブリャンスク(マルキアン・ポポフ大将)・中央の3個方面軍128万の兵力で中央軍集団に襲い掛かった(クトゥーゾフ作戦)。さらに16日、南側でも南西(ロディオン・マリノフスキー大将)・南部(フョードル・トルブーヒン中将)の2個方面軍49万が陽動攻撃を行い、8月3日戦力を回復させたヴォロネジ・ステップの2個方面軍110万が攻勢に出た(ルミャンツェフ作戦)。


ドイツ軍はクルスクからソ連軍の反攻で40万の人員と戦車1,000両を失い、その補充も遅々として進まなかった。

ソ連軍はクルスクの戦いで100万の死傷者と戦車6,000両の損失を出したものの、人員は許容範囲内で装甲車両も敵味方双方の遺棄車輌を修理することで容易に回復することができた。


損害を回復できないドイツ軍はその後も押し込まれ続け、翌年のソ連軍大攻勢で破局を迎えることになる。


関連タグ編集

ナチス・ドイツ ソ連

V号戦車 VI号戦車 エレファント T-34 KV-1 パック・フロント

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