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SU-122

すーすとーどぅゔぁーつぁちどぅゔぁー

ソ連軍が第二次世界大戦時に運用した自走榴弾砲。(「SU」は自走砲のこと)
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概要

III号突撃砲の影響

ドイツのIII号突撃砲の成功は枢軸国側として戦った国々だけに留まらず敵国であったソ連にも影響を与えることとなった。鹵獲したドイツ軍のIII号戦車の車台は口径の大きな榴弾砲を搭載可能だった。

1942年4月、ソ連軍砲兵総局は、戦車工業人民委員部の協力の下、各設計局に歩兵支援に適した装甲車両の開発要求を提出した。

数種類の武装と基本車台が検討された。G.I.カシタノフ技師はIII号戦車の車台に22.7口径122mm榴弾砲M-30を搭載した自走砲を試作した。「SG-122」と呼ばれるこの車両の審査は1942年7月に実施されたが、結局不採用となった。


SU-122の誕生

1942年10月、国家防衛委員会(GKO)はT-34中戦車の車台を使った自走榴弾砲の開発を始めるよう、スヴェルドロフスクのウラル重機械工場に命じ、L.ゴルリツキー技師とE.シルニシチコフ技師をリーダーとする設計グループが開発に着手することとなった。工場名称は『SU-35』であった。

T-34の車体に密閉型の戦闘室を設け、1938年型122mm榴弾砲M-30を搭載した本車は、審査ののち1942年12月『SU-122』の名称で生産が命じられた。


運用上の問題と改善

最初の自走砲連隊は1942年12月に編制され、対戦車自走砲SU-76装備の4個中隊とSU-122装備の2個中隊で構成されていた。

1943年1月にレニングラード戦線に投入された。しかし、装甲が貧弱で技術的問題を抱えていたSU-76と同部隊で運用するのは問題があった。

1943年5月に部隊は軽自走砲連隊と中自走砲連隊に再編制され中自走砲連隊で16両のSU-122と1両のT-34指揮戦車に再編された。


SU-85の登場

SU-122用にも成形炸薬弾が準備されたが、砲口初速が遅く命中精度に劣り、対戦車用には向いていない。

その後T-34をベースとして51.6口径85mm対戦車砲D-5Sを搭載した『SU-85』が量産されるようになるとSU-85に生産がシフトされていった。

SU-122の生産は1944年半ばまで続けられ合計1,148両が完成している。


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自走砲 榴弾砲 突撃砲

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