ソ連版III号突撃砲
第二次世界大戦・大祖国戦争期のソ連製自走榴弾砲。突撃砲に区分されることもある。5人乗り。
歩兵に随伴しての直接的な火力支援を可能とする先進的なドイツ製III号突撃砲の成功に影響を受けたもので、ソ連赤軍主力のT-34中戦車から車体を流用する形で開発・生産された。
性能
正面に固定搭載された122mm榴弾砲は強大な榴弾(=炸裂弾)火力を発揮、歩兵や対戦車砲など装甲の貧弱な目標に対して有力だった一方、砲弾の初速が遅く命中精度に劣り、対戦車榴弾こそ用意されてはいたものの戦車戦向きの武装ではなかった。
その他に関してはおおむね原型のT-34から受け継がれており、口径50mm以下の対戦車砲をほぼ無力化する防御力、不整地でも素早く動ける優秀な走破性を発揮した。
運用・戦史
SU-122は1942年12月から量産開始、同月に編成された最初期の自走砲連隊へSU-76と共に編入され、1943年1月からレニングラードで投入された。
しかしSU-76の防御力はSU-122と比べて大幅に劣り、同じ部隊で運用するには不適と判断されたことから、1943年5月に部隊はSU-76装備の軽自走砲連隊とSU-122装備の中自走砲連隊に再編制された。
1943年8月、SU-122と同じくT-34の車体を流用しつつもより優れた対戦車火力を発揮するSU-85駆逐戦車の生産が開始。そちらが優先されたことから、1943年8月までに総数約630輌で生産打ち切りとなった。
1944年1月28日
SU-122はその特性上、対歩兵戦闘で大きな活躍をみせることが多かった。
その代表例ともいえるのが、露版WikipediaのSU-122記事に記された第17軍の戦闘詳報の一編、1944年1月28日に展開されたレニングラードのテルマン国営農場防衛戦だろう。
第7独立親衛重戦車連隊のKV-85×3輌、SU-122×2輌、歩兵50名と対戦車砲2門が防衛を担っていた同地に対し、ドイツ軍はティーガーI×15輌、III号戦車・IV号戦車×13輌、および歩兵部隊をもって11:30から攻撃を開始したが、赤軍の一隊は建物や干し草に隠れつつこれを迎撃。
ドイツ側は大きな被害を受け、この正面突破を断念。13:00からは数的有利を活かした包囲殲滅戦に切り替え、農場の周囲を囲んで攻勢を強めた。
しかし、ポダスト中尉の指揮の下で赤軍戦車隊は果敢に抵抗、敵部隊の自由な機動をことごとく防止していく。
ドイツ戦車はつぎつぎと射撃位置を変更する赤軍戦車の攻撃に晒され、輸送車で進撃を試みるドイツ歩兵隊はSU-122の榴弾火力により一挙に蹴散らされた。
次第に包囲の輪も弱まり、赤軍戦車隊は20:00に包囲から脱出。22:00に自軍勢力圏へと帰還し、最終的な損害はSU-122×1輌(全焼)に留まった。
一方、ドイツの損害はティーガーI×5輌、IV号戦車×5輌、III号戦車×2輌、装甲兵員輸送車×7輌、対戦車砲×6門、機関銃座×4基、馬車28台、そして少なくとも3個歩兵小隊だった。
真偽はともかく...
この詳報の真偽だが、公式記録であることから実在性については担保されており、また自軍損害については正確と考えられる。
もちろんドイツ側の戦力および損害に関しては不確実ではあるが、それを考慮してもこの戦いがソ連側の戦術的勝利だったことは間違いない。
そして、SU-122はこの戦いでドイツ歩兵部隊の防衛線浸透を防いだ功労者ともいえる存在と評せるだろう。
登場作品
ソ連の駆逐戦車として登場。
同格戦車の攻撃を軒並み無力化する脅威の正面防御と優れた機動性を有しつつ、装填こそ遅いが火力も圧倒的なため、低ランク帯で最強の一角といえる。