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概要*

開発背景

第二次世界大戦を戦ったハンガリー軍は友軍であるドイツ軍との戦いを通してIII号突撃砲を始めとする突撃砲自走砲の有用性を痛感することとなった。1942年7月ハンガリー国防省自動車戦闘車両課は、機甲師団所属の砲兵部隊が戦車に随伴を可能とし、且つ支援攻撃能力を有する自走砲の開発を提案した。この提案は関係各部に了承され1942年8月ヴァイス・マンフレッド社によって自走砲の開発基礎研究が開始された。

開発

国防省の要求は、当時主力戦車であった41Mトゥラーン重戦車に搭載された25口径75mm戦車砲41M-75/25よりも強力な武装を積み、装甲防御力、機動力共に当時存在したハンガリー軍戦車を上回ることが要求された。

設計にあたりベースとなる車体は41Mトゥラーン重戦車を使用、主砲を40M105㎜榴弾砲を装備することとなった40M105㎜榴弾砲はスプリングに問題があり60門ほどがデッドストックとなっていたものであった。ヴァイス・マンフレッド社でモックアップが製作され設計の適否を確認し新型突撃砲の車体幅は原型のトゥラーン中戦車に比べて400mm拡大されていたが、これは主砲に充分な旋回角を与えるためであった。モックアップ試験の成功を受けて試作車を製作することが決定し、1942年10月に軟鋼製の試作車の製作がヴァイス・マンフレッド社に発注され1942年12月までに試作車が完成、1943年5月に『40/43Mズリーニィ105』の名称が与えられる。

苦難の量産

プロトタイプ完成を受け1942年12月12日~1943年1月12日にかけて砲兵射撃学校においての試験が行なわれ主砲が分離薬莢式で発射速度が遅いこと、変速・操向機に問題があることが指摘されるもズリーニィ105突撃砲の性能自体は良好と判断され試験中であった1943年1月に第1ロット40輌の生産発注が行われた。しかし、第1突撃砲大隊に最初の3輌が引き渡されたのは1943年9月のことであった。その後1943年10月~12月に各10輌、1944年1月に7輌が引き渡されている。第1ロット分の生産が行われる中、第2ロットに50輌、第3ロットに20両が発注されている。しかし、生産工場が爆撃されるなどの被害により生産台数31輌にとどまった。

ズリーニィの派生

主力戦車であるトゥラーン中戦車の改良が行なわれていたものの、この戦車はもはや改良の限界でとてもこれ以上主力戦車として使用できそうになかった。ハンガリー軍ではズリーニィ105突撃砲の生産に集中することとなる。それに関連してズリーニィ105突撃砲をベースに対戦車戦闘用の駆逐戦車を開発する提案がなされた。この車両は『44Mズリーニィ75』と呼ばれ主砲に43口径75mm戦車砲43Mを搭載したモデルであった。110輌の生産が予定されていたが生産には至ってはいない、なおズリーニィ75を『ズリーニィI』、ズリーニィ105突撃砲を『ズリーニィII』と呼ばれることもある。

実戦

ズリーニィ突撃砲の生産決定と同時に本車を運用する突撃砲大隊を編成していくこととなる。

ズリーニィ突撃砲のを配備した第1突撃砲大隊はポーランドのガリツィアにてソ連第18軍の第27戦車旅団と接敵し戦闘となったが、ソ連軍のT-34に歯が立たなかったようである。しかし、その後各地を転戦しハンガリー軍の有用な機甲部隊として善戦をしたようであるが、ブダペスト周辺で戦い壊滅している。

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