ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

目次 [非表示]

解説編集

 トゥラーン(Turán)は、第二次世界大戦期のハンガリー中戦車

 本来はチェコスロバキアで設計された戦車だったが、ドイツ経由でライセンス生産されることとなり、改良を経てからハンガリー軍に採用された。


チェコのT-21編集

 LT-35を製造したチェコスロバキアのシュコダ社は1935年以降にS-III中戦車の開発を進めていたものの、1937年に計画を放棄した。


 続いて、シュコダ社はCKD社と共同開発でチェコスロバキア陸軍の新型歩兵戦車『SP-IIc』を開発することとなり、これは1939年ごろに完成し『T-21』へ改称された。

 しかし、当時のチェコスロバキアはナチス・ドイツの手によって解体されてしまい、ドイツ領に編入。シュコダ社もドイツ国防軍の指示に従わざるを得ない立場に置かれた。


ハンガリーの中戦車として編集

 1940年、枢軸国に組する一国としてドイツと同盟を結んでいたハンガリーは、38Mトルディー軽戦車に代わる新たな中戦車の導入を模索していた。

 この際、ハンガリーはドイツ戦車(III号戦車IV号戦車)のライセンス生産権を求めたもののこれは断られてしまい、代わりにT-21の提供を受けることとなる。


T-21からトゥラーンへ編集

 1940年2月、ドイツ軍当局はシュコダ社のT-21のハンガリーに対するライセンス権を与えることを認証した。

 しかし、T-21の性能はハンガリー軍の要求に達していなかったため、主武装を51口径40mm戦車砲A-17に変更した上で1940年8月に『40Mトゥラーン中戦車』(トゥラーンI)として制式採用。

 仕様の変更や新型装甲板の製造等の諸事情により生産は遅延、量産車の軍への引き渡しは1942年5月からとなった。40Mは1944年までの間に総数285輌が生産された。


派生型編集

 1942年5月、主武装を25口径75mm戦車砲41Mに変更した41MトゥラーンIIが正式採用され、こちらは40Mと同時生産されている。

 また、1943年2月にはハンガリー軍の実戦経験を基にさらなる改良をした43MトゥラーンIIIの開発が開始されたが、量産には至っていない。


 ほかにもドイツのIII号突撃砲に触発されてトゥラーンⅠの車体をベースに40/43M105㎜榴弾砲を搭載した『ズリーニィ突撃砲』があり、これは実戦投入にまで持ち込まれた。


実戦編集

 トゥラーンIおよびトゥラーンIIはハンガリー陸軍第1、第2機甲師団や第1騎兵師団などに配備され、ソ連赤軍と複数回の交戦を記録している。


 初陣となったのは1944年4月のコロミヤ地区における赤軍に対する反撃作戦。第2機甲師団の100輌が作戦に参加したが、30輌が撃破または鹵獲されている。

 また、1944年7月10~15日の北部ガリシア地区、ルニネク~ブレスト間における防衛戦闘にも参加したが、こちらでは全滅している。


 ドイツ軍側に最後まで付き従ったハンガリー軍部隊も本車を装備しており、オーストリアやチェコスロヴァキアまで後退した上で1945年4月に降伏した。


関連タグ編集

中戦車

関連記事

親記事

中戦車 ちゅうせんしゃ

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 9579

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました