概要
本車両は、八九式中戦車の後継である九五式軽戦車(以下ハ号)の補助と歩兵部隊の火力支援を目的として1936年に開発が開始した。その開発のさなか、性能より生産性重視のチニ車案と性能重視のチハ車案が試作競争で対立していたが、日中戦争勃発による予算拡大や八九式中戦車の後継車両の量産化が優先されたことにより、暫定的な新戦車としてチハ車案が採用され実車が1937年に完成し翌年の1938年に制式化された。このため、チハ車には40年辺りまで、試製の二文字がついてたりする。
また俗にいう「新砲塔チハ」は、1941年に実車が作られるが本来は開発中のチヘ車(初期案)の砲塔を試験的に搭載した車両であり本来量産される予定ではなかった。
しかし、強力なM3軽戦車との遭遇や後継車両開発の遅れにより、急遽1941年末に実車の生産が決定、すぐさま生産開始され、翌年に制式化された。末期においては事実上の主力を担い奮戦したが旧式であることは否めず南方戦線の各地で全滅していった。一応大陸戦線では活躍しているが、これは相手がチハでも対抗可能なレベルの旧式装備だったからである。
「九七式」の名称は皇暦2597年式の意味であり、チは「中戦車」の頭文字、ハは「イロハ順の3番目」という意味。チイとチロに相当するのは旧型の八九式中戦車であると言われる。
装甲
装甲は開発当時主流だった37mm級対戦車砲の徹甲弾の直撃を300mで防ぎうることを目的として、運用側は最大装甲厚30mmを所望していた。
しかし、戦車の数を揃えたい陸軍上層部は20mmを所望していたため意見が対立し、結局、当時最新鋭の防弾用鋼板だった表面硬化装甲を用いることにより、両者の間を取って25mm鋼板とすることで運用側と上層部双方の合意をみた。
表面硬化装甲(以下FHA)は表面の硬化層で徹甲弾弾頭を破砕し貫通力を削ぎ貫通するのを防ぐことを目的とした性質の装甲材で、元々は軍艦用の装甲板で大戦初期の小口径キャップなし徹甲弾(以下AP)との相性が良く装甲厚以上の防御力を発揮したものだった。しかし大戦後期に発達したキャップ付き徹甲弾(以下APCBC)や中口径以上の砲に対する弱さが露呈すると、製造に時間がかかるこの種の装甲板は日本を除いて完全に廃れてしまう。
火砲
搭載する主砲は、八九式中戦車とほぼ同様の歩兵支援用57㎜砲。これに関しては運用側も上層部も意見が一致していた。
チハの性能に言及する際、この砲を選択したことは批判の対象とされがちだが、当時は日中戦争の真っ最中だったため、砲を新たに開発する時間を削ってでも新中戦車を前線に送り込むまでの時間を短縮したいという思惑があったとされる。
想定していた交戦相手の国民党軍は機甲戦力が皆無で歩兵支援が主だし、戦車でなく歩兵相手なら高初速小口径弾より単砲身でも大口径の榴弾を撃ち込んだ方が効果が高いのは当たり前よね…という判断でもあった。
ちなみに、新砲塔チハの主砲「一式47㎜戦車砲」はこの時点ですでに原型が存在したが、チハ車に搭載するための物ではなく後継車両になる予定だった試製九八式中戦車チホ(以下チホ車)用の砲であった。
このチホ車、主砲を除けば、チハ車の軽量簡略版であり、悪く言えば新砲塔チハの劣化版、別の言い方をすれば前述の「安く軽量で生産性重視」のチニ車案の発展型(詳しいことは後述の新砲塔チハの項目を参照)。
よわいところ
- 厳しい重量制限にもかかわらず小型高出力のガソリンエンジンではなく無駄にデカくてクッソ重いディーゼルエンジンを採用した事により、大幅な武装強化が実質不可能になってしまった。良かれと思ってディーゼルエンジンを採用したのが裏目に。さらにチハ車に乗せられたエンジンは急ごしらえのポンコツで、陸軍のディーゼルエンジンの中でも最悪の出来なのが拍車をかけていてさらに悲惨。
- ぶっちゃけ上記の点を差し引いても、巷で言われるほど車体的余裕がない。詳しくは後述の試製一式砲戦車の項を読むし! ちなみに車体が大きいのは堀のような大きな溝を越えるためであって、砲換装のためじゃない。
- なまじ性能重視であったため大戦中後期までの充足数が低い。大戦中盤においても実質的な主力戦車はチハ車より貧弱なハ号及びその他豆戦車であり、これらの車両で強大な連合軍車両と戦う羽目になることは珍しくなかった。
- 量産の波に乗っていた同時期の連合軍戦車と比べると性能が大きく劣る。新砲塔チハの量産が軌道に乗ったのは1943年頃と、より性能の優れたM4シャーマンのそれと同じ時期だったりする。
- 最大装甲厚25mmの表面硬化装甲は要求書内の「37㎜級対戦車砲を300mで防ぐ」を満たすのにも不十分であり、増加装甲を施してもやっと57㎜対戦車砲を防ぐのがせいぜいであった。開発時期が時期だけに野砲を防ぐことは想定していない。
- 資源の制約や情勢の楽観視などの要因から、新戦車砲開発生産が進まず、頑張って完成しても一定数前線に送れるようになる大戦中盤には世界情勢に置いて行かれ陳腐化しかけていた。その頃には戦局の悪化から輸送途中で輸送船が撃沈され海没する場合も多く、慢性的な対戦車火力の不足から抜け出せなくてマジ悲惨。これは日本戦車全般にも言える事ではあるが。
- 変速レバーが固く、変速のタイミングが難しかった。武装強化で重量が増えるとさらに悪化するため後継の試製九八式と一式には油圧サーボ式+シンクロメッシュ(油圧で変速レバーの操作を補助する方式)にする予定だったが失敗。
おつよいところ
- ガソリンエンジンと比べ炎上率が低く燃費が良いディーゼルエンジンを採用したこと。おまけに粗悪な燃料でも稼働し易いという利点も。
- 出現当時は、駄作ではなく世界水準であったこと。本来ならば、兵器の性能を推し量るには開発された年を特に考慮しなくてはならない。問題は当時の日本の工業水準ではチハを早期に大量生産できず、それなりの数が揃ったころにはより優れた連合国軍の戦車が出そろっていたことである。
しかし結果的に見ると、出現当時においてもチハの性能は時代遅れであった。攻撃力は第一次世界大戦~20年代前半レベルであり、装甲や機動力は1930年代前半レベル。唯一時代相応と言えるのはディーゼルエンジンを採用した点だけであった。
「登場当時で見れば世界水準」論は、第二次世界大戦の戦中に急速に発達した戦車開発について「戦争が始まるまでは発達が無かった」という雑な理解を基に、戦間期後半(30年代後半)に登場したチハを戦間期前半(30年代前半~20年代)の諸外国の戦車と比べているようなものである。
また、開発から量産・配備、後継の登場までの期間を考慮し、その期間にわたって必要十分な活躍ができたかと言えば、やはり不足があったと言わざるを得ない。
…ではチハと同時期に作られた戦間期の他国戦車が時代相応だったか?後継が登場するまでの期間にわたって第一線で活躍し通用していたか?と言われると、そうでもないので、同時期の戦車は皆似たり寄ったりで時代遅れという感じではあるのだが。
- ガバガバといわれる装甲面だが、真っ当な対戦車火器(野砲含む)以外の兵器であれば十分に防げたこと。
小銃弾及び小口径機銃は底面・上面を除き貫通不能であり、装甲板に使用しているFHAの特性上37㎜級対戦車砲の射撃も使用弾がAPであれば比較的至近距離でないと効きが悪かった。
たまに「M2で蜂の巣にされた」なんていう奴もいるけど、それは95式軽戦車など他の車両の話の誤認である。
一応チハもM2で貫通できることはできるが、これは「試験中に」「一番装甲の薄い部分を」「距離50m未満の距離で」「滅多打ちしたら命中弾の一部が貫通した」という話で、実戦で抜けたという事例はまだ発見されていない。
もっとも「真っ当な対戦車火器(野砲含む)以外の兵器であれば十分に防げる」というのは第一次世界大戦当時の水準で戦車に必要とされた防御性能であり、1930年代後半に開発されたチハにとって「特筆するほど優れた点」ではない。
「37mm対戦車砲に対する限定的な抗堪性」というのは1930年代前半の要求水準で、チハの登場時期である30年代後半(既に50mmクラスの対戦車砲が普及)においては「時代に取り残されかけている」ぐらいのレベルなので、特別に「ガバガバ」でも「おつよい」わけではないだろう。(まぁこの時期の戦車は大体こんなもんなんだが…)
戦史
ノモンハン事件
チハは1938年に正式採用され少数が中国戦線で試験的に運用されていたため事実上の初陣は1939年7月の第2次ノモンハン事件とされている。
この時出動した戦車隊は関東軍の第一戦車団で、チハは4両のみの参加となったが、連隊長の吉丸大佐は本車に搭乗し陣頭指揮をとった。
7月2日~3日の総攻撃に参加するも、コイル状のワイヤーのによる対戦車障害に絡みついて動けなくなったところを45㎜対戦車砲で打ち抜かれ連隊長は戦死、事件に参加したチハの中で唯一の損失となった。
日本軍戦車はあまりにも早い時点で戦場から姿を消したため、戦死した吉丸連隊長の遺骨を抱いて帰った戦車兵らに「日本の戦車は何の役にも立たなかった」など辛辣な声がかけられたというが、
実はチハは当時の日ソ戦車で最も厚い装甲を持っており、性能も世界水準に匹敵するもので、
機関室を榴弾で破壊したり、複数の戦車で同一の目標を狙うことで得た戦果が近年明らかになっている。
泣き所である57㎜戦車砲の火力の低さも戦訓となり、高初速47㎜戦車砲の開発が始まる要因となった。
大東亜戦争初期
帝国陸軍は1941年12月8日午前深夜にマレー半島に上陸し、シンガポールを目指して前進していくが、この「マレー電撃戦」の中で、チハ車を中心とした機甲戦力は赫々たる戦果を上げた。
その中で最も名高いものが東洋のマジノ線と呼ばれたジットラ・ラインの突破、及び「スリム殲滅戦」であろう。
ジットラ・ライン突破
開戦3日後に編成された佐伯静雄中佐率いる「佐伯挺身隊」は戦車3連隊、山砲中隊、工兵小隊などからなり、敵中を突破しマレー中部の要所ベラク河まで突進し鉄橋を奪うことを任務とした。
破天荒とも評するべき作戦にもかかわらず、12月11日午前11時30分に歩兵部隊の攻撃開始とスコールに合わせて進撃を開始した挺身隊は10両のチハ車と2両の九五式軽戦車、580人の兵士を中核戦力に前進を開始。
ゴム林で雨宿りする砲兵隊、機械化部隊に砲撃し大混乱に陥らせ、敵の退却後装甲車40輌、自動車約100輌、火砲約100門を鹵獲する戦果を上げ、なおも前進を続けた。
しかし、イギリス軍が「日本軍を三ヶ月は足止めできる」と豪語したジットラ・ラインと呼ばれる22㎞の陣地帯にぶつかった。
ここを突破しない限り目標に到達できないため佐伯挺身隊長は夜襲を命じ、12日夜まで続く激しい戦闘の後、士気を喪失した英印軍は撤退。1日でジットラ・ラインを突破することに成功した。
挺身隊の突撃は「電錐戦」または「錐揉み戦法」と呼称され、迂回の不可能なマレー半島の突破には最適な戦法であり、この作戦でのチハ車の損害は損傷1輌にとどまっている。
スリム殲滅戦
年が明けて1月、日本軍はクアラルンプールの突入を意図していたものの、英印軍の頑強な抵抗に阻まれ、進撃が停滞していた。状況を打開すべく、戦車第6連隊第4中隊を指揮する島田豊作少佐は戦車による夜襲を提案。視界の悪い夜間の奇襲は無謀とも思えたが、日本軍は先に述べたノモンハン事件で夜間攻撃を行った実績があった。
島田少佐も「歩兵が数日かかって敵陣地を奪取しても、敵は次の陣地に後退し、また抵抗する。
何とか戦車が敵中深く突進して、敵に対応する余裕を与えないことだ」との考えから夜間の奇襲が最適だと判断。
1月6日の午後11時30分、チハ15輌、九五式軽戦車4両からなる島田戦車隊は歩兵の支援を受けながら無灯火、時速8㎞で進軍を開始。鉄条網の第2線目で敵から射撃を受けるも、行進射撃で応じる。
英印軍はゴム林の中に陣地を築いていたため、島田戦車隊はゴム林を見つけると57㎜砲を発射。
極めて技量の高い日本戦車隊は行進射撃で対戦車砲や機関銃を撃破、インド兵をパニックに陥らせ、微弱な抵抗を受けただけで進撃を続けた。
夜明け近く、友軍の到着が遅れていることにしびれを切らした島田少佐は単独でスリム鉄橋に向かうことを決意。7日朝、世界最強とも称されるグルカ兵(ネパールの山岳民族出身の兵隊)をはじめ、自動車、装甲車、陣地などをことごとく蹂躙し突破を続け、スリム鉄橋を確保。
撃破した車輌は100近くに達したという。もっとも、スリム鉄橋を確保した時点でエンジンはオーバーヒート寸前、弾薬も底をつき敵中深く孤立している、というのが実情であったが。
出発から30時間後にようやく歩兵部隊主力が到着して島田戦車隊は役目を終えた。
24輌を損傷、13輌が廃車となるも彼らが突破した距離は縦深25㎞、進撃距離は50㎞にも及び、英軍2個旅団を殲滅、クアラルンプール占領の基となった。
この鮮やかな奇襲に英軍の将兵も衝撃を受け、戦後戦史を記したスチュワート中佐は
「夜間の路上での戦車の運用は驚愕に値した」と、イギリス側の戦史では「大災厄」と記されている。
これらの活躍はマレーの英軍が2ポンド(40㎜)程度の対戦車砲、何より戦車を持っていないことが大きな要因でもあるが、戦車の持ち味を最大限発揮した戦いは世界戦車戦史にも特筆すべきものであった。
戦争末期
占守島の戦い
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾したが、ソ連軍との戦闘は暫く継続しており、8月18日未明ソ連軍は占守島に攻撃、日本軍守備隊と戦闘となった。
ソ連軍が上陸して来た際、武装解除を進めていた戦車第11連隊が急遽、砲や機銃を組み立てて応戦した。この連隊には、「新砲塔チハ」20両、「旧砲塔チハ」19両:計39両、九五式軽戦車:計25両が配備されていた。
戦車第11連隊は、18日午前6時50分頃から連隊長車を先頭に四嶺山のソ連軍に突撃を行って撃退し、さらに四嶺山北斜面に進撃した。しかしソ連軍が対戦車火器が結集して反撃し始めた途端、装甲が薄い日本戦車が次々と擱座・撃破された。戦車第11連隊は27両の戦車を失い、池田連隊長以下、将校多数を含む97名の戦死者を出した。
その後も散発的な戦闘が18日まで続いた。一時的にソ連軍を撃退した戦車第11連隊は完全に壊滅されて、連隊長が戦死しただけではなく、停戦した時に戦車中隊長は一人しか生き残っていなかった。
これが日本軍チハの最後の戦いとなった。
奇しくも、中米英とあんなに長く苦しい戦いを交えたチハの初陣ノモンハンと最後の戦い占守島の相手は、同じくソ連軍であった。両戦闘共にチハに乗る戦車連隊長が戦死したため、チハの戦歴は「連隊長戦死から始まり連隊長戦死に終わる」とも言える。
連隊長が戦死する事は指揮システムに混乱をもたらし、部隊の損害を拡大させる要因となるため、連隊長車を担当するチハの防御力に問題はあることはあまり否定できない。
とはいえ、どちらかというと日本の戦車部隊指揮官が連隊長車を先頭にイケイケドンドンで突撃を仕掛ける悪癖が一番の原因であった。そもそも最初も最後もほぼ同じくソ連軍の歩兵対戦車兵器によって撃破されたため、それは戦車同士の戦い以前の問題であって、まるで成長していないと批判されても仕方ないの面があった。
派生車種及び関連車両
新砲塔チハ
チハ車体+チへ砲塔(初期案)orチハ車体+チホ砲塔(改修型)+α
元々、九七式中戦車は暫定的な新中戦車であり上層部はチハより軽量で安い戦車を開発していた。それが試製九八式中戦車チホ(以下チホ車)であり新砲塔チハの砲塔は実はチホ車搭載予定の砲塔を改修し試験的に搭載したモノであり元々量産する予定はなかったのである。
しかしノモンハン事件後、チホ車計画はなくなり一式中戦車(以下チヘ車)開発に転換され
そのチヘ車でさえ生産の目処が立たなかったためチへ車(初期案)砲塔搭載型チハ車はそのまま生産に移された。末期にはチヘ車の砲塔を載せられたものも多々存在した模様。
チハたんといえば十中八九、鉢巻アンテナがトレードマークの旧砲塔搭載型を指し本車両がチハたんと呼ばれることは稀である。
試製一式砲戦車ホイ
山砲ベースの戦車砲を主砲とする砲戦車用砲塔をチハ車に試験的に乗せたもの。
初速の遅さや特にベースのチハ車の車体強度が低く固定式はともかく旋回砲塔式に短75mm砲を搭載するのがきついという要因もあり量産はされず、
後に砲塔は改修され別途新規に造られた砲戦車用車体に搭載され二式砲戦車として制式化された。
一式七糎半自走砲ホニⅠ/一式十糎半自走砲ホニⅡ/三式砲戦車ホニⅢ
多分、一式砲戦車の記事を参照したほうが早い⇒一式砲戦車
四式十五糎自走砲ホロ
多分、該当項目にアクセスしたほうが早い⇒四式十五糎自走砲
十二糎砲戦車(短十二糎自走砲)
新砲塔チハの主砲を車載用に改造を施した短十二糎砲に換装した車両。日本機甲車両としては初の同芯式駐退器を採用した車両でもある。
短"十二糎"砲と口径こそホニⅡの搭載砲より大きい癖に破壊力は目くそ鼻くそであるが、装薬を含めた弾重量は13㎏と陸軍の同口径砲の十二糎榴弾砲はおろか十糎榴弾砲より軽く後座長は元々搭載されていた47㎜砲と変わらなかったりする。ただし、それでも47㎜砲弾の五倍以上の重さであり全長もふたまわり大きいため装填環境は劣悪だったと予想される。
さらに短75㎜砲を旋回砲塔式に積んだ試製一式砲戦車の時点で車体の強度不足により採用が見送られているため実用に耐えられたかどうか怪しい面もある。
装弾数は不明(少なくとも8発?)
海軍十二糎自走砲
九七式中戦車の砲塔その他を取り除き十二糎高角砲を搭載した素敵な乗り物
車体部の故障が多発し実戦に耐えられたかどうかは不明。対戦車用らしい。
二式砲戦車
山砲(連隊砲)をベースに開発された九九式七糎半戦車砲を搭載した火力支援車両。初速に左右されないタ弾(成型炸薬弾)が開発され低初速砲である山砲が対戦車に使用可能になったため量産された車両。皮肉にもそのタ弾のために山砲連隊の価値が上がってしまったため開発スケジュールがずれ込むことになり、前線には間に合わなかった。
一見車体はチハ車に似ており足回りなど一部チハ車の部品を流用しているもののほとんどの部品はチハ車とは別の新規の設計であるため
チハ車とは別系列の車両(車体)である。
一式中戦車チへ
ホイ車体+チヘ初期案砲塔(改修型)+α
本来ならば同軸機関銃搭載・油圧シンクロメッシュ等の新機軸を取り入れた快速戦車になる予定だった。…しかしそれらの新機軸開発が難航を極めた末に断念。その後半分やっつけで上記の二式砲戦車用車体に増加装甲を施した47㎜砲塔を搭載し産まれたのが普段我々の知る一式中戦車チヘの正体だったのである。一両目完成時期が遅かった為チヘ車の生産予定車体の多くは魔改造・急造兵器である三式中戦車製造用に移された。チハ車とは別系列。
三式中戦車チヌ
ホイ車体+チリ車第一案砲塔+ホニⅠ砲
多分該当項目を参照したほうが有益→三式中戦車
試製中戦車チニ
九七式中戦車の不採用案。チハ車より性能がアレな代わりに安価かつ軽量であり質より量を重視した上層部の案。一両が試作されたものの日中戦争勃発による予算拡大により採用されなかった。