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概要編集

製作は東宝。2月19日に封切られた。

1942年のフィリピンの戦いが題材となっている。

陸軍省後援の下に1943年8月にクランクインし、米比軍の捕虜とM3スチュアートハーフトラックM1919重機関銃といった鹵獲兵器を用いた大々的なものとなった。

撮影はパターンやコレヒドール等での現地ロケやマニラの大手撮影所だったフィリピン・フィルムスとサンパギタ・ピクチャーズでセット撮影が行われ、1945年のマニラの戦いで焼失することになる市街地も収められている。

戦後捕虜虐待の証拠になるとしてネガ原版が焼却処分されたが、ポジは焼却を免れたため現在でも見ることができる。


あらすじ編集

1941年12月8日、太平洋戦争の開戦に伴い日本軍はフィリピンへの侵攻を開始した。混乱するマニラ市の上空に日本軍機が飛来し、市街地にビラを散布する。 その晩、動員を前にしたフィリピン人将校マリアノ・ガルシア中尉は母のロサに会いに行くが、弟のトニー少年から「敵の鉄兜を土産に欲しい」と頼まれ必ず持って帰ると約束する。 ガルシア中尉の友人、アンドレス・ゴメス大尉は妻ルデスに別れを告げ、前線へ向かう。


マニラから撤退する米軍を見守っていたトニー少年は、街路樹に引っかかっていた日本軍のビラを取ろうとして米軍のトラックに跳ねられ足を負傷し、車椅子での生活となる。そして無防備都市を宣言したマニラ市に日本軍がやって来た。しかし始めて日本兵を目の当たりにしたマニラ市民達はおずおずと遠巻きに見守るのだった。その晩、市街地を警備していた池島兵長は、泥棒二人を捕らえる。 その話を聞いた子供達は英語を自在に操る池島に徐々に心を開き、交流を深めていくのだった。池島は子供達からトニー少年の話を聞き、日本にいる脚の不自由な弟と重ね合わせる。池島はトニー少年の家を訪れ、櫻木軍医中尉にトニー少年の足を治せないか尋ねる。池島を警戒していたロサも徐々に気を許すようになり、戦地の息子ガルシアを救うため宣伝放送を志す。


一方、日本軍との戦闘で捕虜となったゴメス大尉は、速水部隊長、中村少尉からの質問に対し「自分は米国軍人であり、日本軍に証言するつもりはない」と答えるが、速水から「君は錯覚を起こしている。君はフィリピン人であり、アジア人だ。本国の白人は決して君達をアメリカ人とは思っていないのだ。」と論される。


バターン半島のフィリピン人部隊の陣地に日本軍からビラが撒かれる。 ビラには日本軍の捕虜になった同胞のフィリピン人兵士が人道的に扱われていると記され、彼等は自分達の戦いの意義に疑問を持つ。 その時米軍のアダムス大尉らが現れ、ビラを手にした兵に暴行し、その内の一人を射殺した。レイエス大尉は抗議するがアダムスは聞く耳を持とうともせずフィリピン人の彼等に軽蔑的な言動を取る。 そこへ日本軍の宣伝放送が流れ始め、アヴェ・マリアと共に彼等の言語であるタガログ語でロサやゴメス大尉が投降を呼びかける。

やがてレイエス大尉は新たに日本軍が進撃してきた地区の斥候を命じられて状況を探りに向かうが、日本軍進出の話は全くの嘘でありアダムスらの仕組んだ罠だったのだ。銃撃を受け全滅する斥候隊。レイエスは「味方」であった筈の彼等の手にかかり、ゴメスの宣伝放送を聴きながら全てを悟りつつ事切れる。

池島はトニー少年が歩けるようになるように歩行の特訓をするがなかなか立てるようにならない。そして池島はバターン半島へ向かう事になった。別れたくないトニー少年は泣いて懇願するが、池島は「自分の魂は常にトニーと共にあり、死んでもフィリピンの発展を祈り続ける」と諭す。

そして翌日、池島の部隊は隊列を組み、新天地のバターンへと向かう。トニー少年は己の傷を克服して車椅子から立ち上がり、歩きすがって池島を見送ったのだった。


日本軍との激戦が続くバターンでは米軍は後退してきたフィリピン兵を地下壕へ入れようとしない。「撃て!役立たずの奴等(フィリピン人)を中に入れるな!」銃撃を受け深手を負ったガルシアはアダムスと刺し違える。戦闘後、ゴメスはガルシアを探しに出るが、彼の骸を見つけ、傍らに転がっていた米軍のブロディヘルメットを手に取る。

そこにはガルシアの筆跡で「トニーよ、これが約束した敵の鉄兜だ」と書かれていたのだった。


ゴメスは山田上等兵と交流を深め、別れを告げる。やがてコレヒドールの戦いが幕を開けようとしていた…









キャスト編集

速水部隊長:大河内傳次郎

鷲尾大尉:河津清三郎

野中少尉:月田一郎

中村少尉:中村哲

山田上等兵:眞木順

村松上等兵:小森敏

池島兵長:大川平八郎

櫻木軍医中尉:田中春男

進藤中佐:藤田進


マクレガー大佐:ジョニィ・アブリル

アダムス大尉:ベルト・ルロイ

スミス大尉:フランコ・ガルシア


アンドレス・ゴメス大尉:フェルナンド・ポウ

マリアノ・ガルシア中尉:アンヘル・エスメラルダ

ラモン・レイエス大尉:レオポルド・サルセド


アウロラ・ガルシア(マリアノの母):ロザ・アギレ

アントニオ・ガルシア(マリアノの弟):リカルド・パション

ミゲル・ゴメス(アンドレスの父):ギレルモ・カルス

コンスエロ・ゴメス(アンドレスの母):ステナ・ダヴィッド

ルデス・ゴメス(アンドレスの妻):ノルマ・ブランカフロア


スタッフ編集

後援:陸軍省

製作:瀧村和男

脚本:八木隆一郎小國英雄

演出:阿部豊

特殊技術監督:圓谷英二三谷榮三


主題歌編集

曲名は映画と同じく「あの旗を撃て」。

発売元:ニッチクレコード(日本コロムビア

作詞:大木惇夫

作曲:古関裕而

歌唱:伊藤久男

レコード番号:100823


余談編集

太平洋戦争の緒戦が一段落したころに大本営陸軍報道部より香港作戦、マレー作戦、ビルマ作戦、そしてフィリピン作戦を題材にした4本の映画の企画が出された。

このうち香港作戦は大映が『香港攻略 英國崩るるの日』として制作、1942年11月に完成した。

東宝も同時期にフィリピン作戦を題材にした映画に着手。コレヒドール要塞が陥落した5月に本格始動した。残るマレー作戦は大映、ビルマ作戦は松竹が映画化することになった。

東宝のフィリピン作戦の映画は当初6月に小國英雄脚本による『比島作戦、バタアン半島記』として発表されたが、7月に八木隆一郎による『コレヒドール最後の日』に差し替えられた。

8月に主要スタッフがフィリピンに上陸。現地の参謀から講話を聞いたり舟艇部隊長に撮影実施のための便宜供与の交渉をしつつ本格的な脚本の執筆にかかったが、10月に撮影班が上陸した時点でも脚本は構想段階のままだった。

当初の八木の構想では米国の植民地政策により貧困を強いられていたフィリピンの農民が日本軍との戦闘に巻き込まれるが、農民出身の日本兵に救われるという内容だった。

1943年には大河内傅次郎らメインキャストもフィリピンに上陸したがまだ脚本は完成せず、とうとう八木は倒れドクターストップがかかったことで内地に帰ることになった。

小國はそれまで共同脚本という名目ながら別作品の仕事があったため全くと言ってよいほど脚本に関わっていなかったが、急遽脚本に参加。米軍と行動を共にする比軍兵とその家族の物語に大幅改定した。

脚本が完成しても今度はフィリピン側のキャスティングに難航。撮影は2班体制で急ピッチで進められ、1943年10月に阿部監督らが内地に帰国の途についてからも宮島義勇ら一部スタッフが残留して撮影を続行、12月にスタッフ全員が帰国してセット撮影が行われた。こうして1944年1月に本作が完成した。


関連タグ編集

戦争映画 軍歌 戦時歌謡 フィリピン 東宝

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