概要
『炎628(«Иди и смотри»、「来たりて見よ」)』は、エレーム・クリーモフ監督、アレーシ・アダモーヴィチとクリーモフ自身の脚本による、「モスフィルム」「ベラルーシフィルム」共同制作のソ連の映画。物語は1943年のベラルーシを舞台に展開する。ナチの報復行動の目撃者となり、二日の間に明るい子供から白髪の老人へと変貌するベラルーシの少年が物語の中心に据えられている。
大祖国戦争の戦勝40周年となった1985年に上映され、映画は複数の大きな映画祭で賞を受賞し、1986年のソヴィエトの映画配給では第6位を占めた。2980万人の観客が視聴したという。雑誌『ソヴェーツキイ・エクラーン』のアンケート調査によると、『炎628』は1986年の最良の映画とみなされた。その後も、いくつかの出版において最良の映画の一つとして評価が高まった。
あらすじ
フリョーラ(「フロリアン」の指小形)という名の村の少年は、母親の反対を押し切ってパルチザン部隊へと参加する。そこで彼はグラーシャという少女と出会う。フリョーラは彼の若すぎる年齢から戦闘への参加を許されず、彼は憤慨して隊を脱ける。数時間後、ドイツ人は対パルチザン作戦を開始する。キャンプのある地域は砲撃を受け、宿営地にはドイツ軍の空挺部隊が降下する。フリョーラとグラーシャは奇跡的に逃げ延びて、やむを得ず森を出る。フリョーラの故郷の村に帰ると、少年たちはそこに誰の姿も見当たらないことに気がつく。住民が沼地の中の島に隠れていると考え、フリョーラはグラーシャと共に村から駆け出す。その時、グラーシャは気がつくものの、フリョーラは彼の家の後ろの壁のそばに、射殺された村民が積み上げられていることに気づかない。ようやく島に辿りつき、少年たちはドイツ人から逃れて集まっている住民たちを発見する。フリョーラは、彼の母と二人の双子の妹が殺されたことを知る。ショックを受けた少年は、彼のパルチザンへの入隊が家族の死因になったと考え、自殺を試みるが、住民たちに止められる。
農民たちは列を作って、ヒトラーの案山子に唾を吐く。その時、フリョーラはナイフで髪を刈り込み、切り落とされた髪は農民の慣習によって地面に埋められる。3人の武器を持った農民が、島に残った人々のためフリョーラと共に食糧を探しに出る。ヒトラーの案山子は十字路へと据えつけられる。二人の農民は地雷に気づくことなく吹き飛ぶ。夜になり、フリョーラは二人で村へとたどり着き、ドイツ人のため働いている農民から雌牛を収奪する。飢えから二人は野外で牝牛の乳を搾り始めるが、ドイツ人の砲火に晒される。フリョーラの同行者と牛は死ぬ。朝早く、フリョーラは動物の体を切り分けようとしているところを、脇を通りかかった農民に発見される。その時、装甲車からドイツの行動部隊の隊員たちが野に降りてくる。農民は、武器を干し草の山の中に隠し、彼の孫ミトロファーンと偽って、彼と共に村へと向かうようフリョーラを説得する。
行動部隊が村へと入り、「記録調査」が行われた後、懲罰隊員たちは住民たちを嘲り、殴打し、大きな納屋へと追い立てる。SSの士官は納屋を一瞥し、大人には子供を置いて出て来ることを許すが、一人も出て来る者はいない。しかし、恐怖から老人のようになったフリョーラは窓から這い出、乳幼児を連れた農婦も彼に続く。ドイツ人は彼女から幼子を取り上げ、窓から納屋へ子供を投げ入れる。トラックの中の牧羊犬が女性に吠えかけ、彼女をドイツ人は髪を引きずって脇へどける。住民たちに嘲笑を浴びせ、音楽を流し、手を叩いて哄笑しながら、ドイツ人は納屋に擲弾と火炎瓶を投げつける。多種多様な火器から物置に銃弾が放たれ、懲罰隊員たちは背負った火炎放射器からさらに炎を浴びせる。ドイツ人たちに写真を撮られた後、フリョーラは恐怖から気絶し、顔から砂の中に倒れる。
気がついたフリョーラは森へと入り、行動部隊がパルチザンの待ち伏せに遭った様を発見する。彼は自分の小銃を携えて村へと帰り、パルチザン部隊と合流する。そこで彼は、燃やされた村から出てくる、強姦され殴打された少女を目にする。ドイツの棄てられたオートバイから、ガソリンの入ったジェリカンを手に取ると、少年は捕虜になった懲罰隊員たちの軍事裁判の場へと向かう。パルチザンたちが射殺のために集まっているが、協力者たちに取り巻かれた懲罰隊員たちは弁明し、助命を請う。ただ一人、SSの狂信者は、翻訳者を通じて「すべての民族に生きる権利があるのではない」「お前たちは存在してはならない」と宣言する。
フリョーラの指揮官の合図で、ドイツ語の翻訳を行った協力者はジェリカンを差し出され、彼は自分が助かることを期待し、喚きたてる捕虜たちにガソリンを注ぎ始める。一人の女が醜態に耐えきれず、彼をППШで銃撃し、残りのパルチザンも彼女に続く。その後、焼かれた村の住人たちは、無用になった松明を水たまりへと投げ捨て、無言のままその場を離れていく。
パルチザンたちが村から出ていく。疲弊し、白髪と皺だらけの顔になったフリョーラは、裁判の場から少し離れたところに、「解放者ヒトラー」と書かれたヒトラーの肖像画を見つける。フリョーラは我を失い、肖像画に銃撃し始める。同時に、ドイツの国民社会主義の形成、拡大、そして最期に到るまでの、重要な事件のニュース映像が年代を逆回しに辿って画面に映る。強制収容所、第二次世界大戦の開戦、ナチの権力掌握、ビアホール一揆、ヴァイマール共和国の無秩序、第一次世界大戦。ナチの行進曲と、ワーグナーの音楽が流される。フリョーラはその間射撃を続けるが、スクリーンに幼いヒトラーと母親の肖像が現れた時、彼は銃を撃つ気力を失う。
モーツァルトの『レクイエム』が流れる終幕の場面、恐怖と苦悩で引きつった、老人の顔をした少年は、パルチザンたちと共に雪に覆われた森の中に入っていく。
キャスト
アレクセーイ・クラーフチェンコ | フリョーラ(フロリアン)・ガイシュン |
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オーリガ・ミローノヴァ | グラーシャ |
リュボミーラス・ラウツャーヴィチュス | パルチザン部隊の司令官 |
ヴラダス・バグドナス | パルチザン |
ユーリ・ルミステ | 上級中隊指揮官、ナチ狂信者 |
ヴィクトルス・ローレンツ | 大隊指揮官、懲罰部隊の隊長 |
イェヴゲーニイ・チリチェーエフ | 翻訳を行う協力者 |
アレクサーンドル・ビェールダ | パルチザン部隊の司令官 |
ヴァシーリイ・ドルマチェフ | 兜を被った協力者 |
イェヴゲーニイ・クルイジャノーフスキイ | 眼鏡をかけたパルチザン |
アナトーリイ・スリヴニコフ | ドイツ兵に変装しているパルチザン |
タチヤーナ・シェスタコーヴァ | フリョーラの母親 |
アレクサーンドラ・ローヴェンスキフ | 自動車に乗っているドイツ人の女性 |
ヴァレンチーン・ミシャートキン | 村を焼く場面で納屋の屋根の上に載っているナチ協力者 |
イーゴリ・グニェヴァシェフ | |
ピョートル・メルクーリエフ | |
スヴェトラーナ・ゼレンコフスカヤ |
歴史的背景
1940年から、ドイツ政府機関に立案された東部総合計画は、東方で征服した領土の文化的廃滅とその住民の大部分の肉体的排除を企図していた。立案者たちはベラルーシの住民の4分の3の殺害、もしくはシベリアへの追放を計画していた。残った住民はあらゆる権利を剥奪されて奴隷化され、共和国の領土は重要な、しかし食糧としては役に立たない、例えばゴムタンポポのような植物の栽培に用いることが予定された。
(Политика геноцида. Государственный мемориальный комплекс «Хатынь», Адамович, Брыль, Колесник, «Я из огненной деревни...», 1979, с. 518.)
第三帝国の当局は、戦争の第一日目からジェノサイドの実現に着手した。ハトィニの資料によれば、ドイツ人と協力者たちは白ロシアにおいて140以上の懲罰作戦を遂行した。地元の住人は殺害され、絶滅収容所かドイツにおける強制労働へと送られた。白ロシアにおけるナチのジェノサイドと焦土作戦の結果として、223万人が3年間の占領の期間中に殺害された。懲罰作戦の過程で、住人とともに628の村落が殲滅され、そのうちの186は住民の全員が殺害されていたため復興が不可能になっていた。
(Политика геноцида – карательные операции. Государственный мемориальный комплекс «Хатынь».)
占領者の蛮行に対する反応として、パルチザン活動は拡大していった。1941年の終わりまでに、パルチザンは1万2000人を擁し、230個の部隊に分かれて戦っていた。白ロシアのパルチザンの人数は、戦争の終わりまでに37万4000人を超えていた。彼らは1255個の部隊へと編成され、そのうち997個が213個の旅団や連隊の指揮下で、258個は独自に行動していた。
(Коваленя А. А. и др. Великая Отечественная война советского народа (в контексте Второй мировой войны), 2004, с. 114.)
1943年の3月22日、ドイツの第118秩序警察大隊第1中隊に属する2個小隊が、パルチザン部隊「復讐者」の待ち伏せに遭遇した。3名が戦死し、懲罰隊員の何名かが負傷した。パルチザン追討のため、支援が要請された。ラホーイスクから「ディルレヴァンガー」特別部隊の一部が、プレシェニツィからはウクライナ人の第118秩序警察大隊の一部が到着した。懲罰隊員たちは、パルチザンへの協力の嫌疑をかけられたカズイルイーの住民26名を射殺し、同日ハトィニの村へと侵入した。短時間の戦闘の後、パルチザンたちは優勢な敵勢力の前に退却していった。懲罰隊員は追撃に移ることなく、ハトィニの住民に対する報復を行った。炎の中で、75人の子供を含めた149人が命を落とした。
(Хатынь: трагедия и память (PDF). Национальный архив республики Беларусь (2009). )
以後、村の名前はナチの戦争犯罪の象徴となった。
(История войны: обзор событий. Архивы Беларуси.)
そして、この戦争のエピソードが、映画監督エレーム・クリーモフによれば、『炎628』を撮影させるきっかけとなった。
(«Иди и смотри»: съёмки превратились для Элема Климова в борьбу с цензурой. «Аргументы и факты». Дата обращения 22 июня 2012.)
映画製作
脚本
長い間、エレーム・クリーモフ監督は戦争に関する映画を撮ることを考えていた。スターリングラードに生まれ、彼は幼児期に大祖国戦争の恐怖の目撃者となっていた。爆撃の合間を縫って行われた夜間のヴォルガ川への撤退は、未来の監督に、岸辺に沿って何キロメートルも燃えている町の姿を強く印象づけた。幼少期の体験はクリーモフに強く残り、彼はその時代についての映画を撮影することを自身の義務のように感じていた。
(Интервью Элема Климова. Москва: RUSCICO.)
幼年時代の記憶のほかにも理由があった。監督の言葉によれば、「冷戦」は非常に心理的な圧力を与えるもので、起こりうる第三次世界大戦の回避についての考えは「文字通り、物理的に感じられるものだった」。これに関係して、彼は自身の以前からの夢を実現することを考えた。そのほか、クリーモフは自身の以前の作品『臨終』に不満を感じていた。優秀な撮影スタッフにもかかわらず、彼は人間の複雑な心理を描ききれなかったと感じており、自身の満足する結果を望んでいた。
(Интервью Элема Климова. Москва: RUSCICO.)
過去に関する、そして起こりうる戦争についての資料を探し、クリーモフは白ロシアの作家アレーシ・アダモーヴィチの本を見つけ出した。クリーモフは、それまでその本のことを聞いたこともなかった。『ハトィニの物語』を読み終え、監督は占領と戦争中に発生したジェノサイドの悪夢を強く伝えることができる著者の才能を高く評価した。アダモーヴィチと知り合って、クリーモフは彼に共同作業を提案した。しかしながら監督によると、映画は物語の映画化にはならなかった。本は「最初の衝撃」であって、部分的に基盤として用いられることになった。脚本では、アダモーヴィチの小説『パルチザン』、そして彼の記録的な物語『懲罰者たち』からもいくつかのモチーフが用いられた。しかし最も有意義な源となった本は『燃える村からやって来た私』だった。
(Марина Кузнецова, Лилия Маматова. Иди и смотри. Художественный фильм. «Русское кино». Дата обращения 27 июня 2012.)
アダモーヴィチの創作物と異なり、この本は身をもって白ロシアにおけるナチのジェノサイドを体験した人々の証言から構成されていた。その内容はクリーモフに忘れがたい印象を与え、のちに監督はこう思い返している。
(Ирина Рубанова. Элем Климов. Тексты. «Искусство кино» (2001))
「彼らの村の全員が教会に追い込まれ、燃やされる前にゾンダーコマンドの士官が『子供のない者は出てこい』と命じた様子についての、非常に深い物語を語った、ある農民の眼と顔を忘れることができない。そして彼は耐えきれず、中に妻と小さな子供を残して出てきてしまった……例えば、別の村はこう燃やされた。納屋に大人は全員が追い立てられたが、子供はそこに残された。その後、酔漢たちが彼らを牧羊犬と共に取り囲み、彼らは犬が子供たちを襲うのを止めなかった」
(«Иди и смотри»: съёмки превратились для Элема Климова в борьбу с цензурой. «Аргументы и факты». Дата обращения 22 июня 2012.)
映画の脚本は、『ヒトラーを殺せ』と名付けられた。題名は、第一に自分自身の中の悪魔的な本質を滅することを訴える、世界的な意味をもって考案された。監督は、これが非常に陰惨な映画になることを理解して、最後まで見通すことができない人が出て来るのではないかと考えた。それについてアダモーヴィチに言ったところ、クリーモフはこのような返答を得た、「見させないでおけばいい」。
(«Иди и смотри»: съёмки превратились для Элема Климова в борьбу с цензурой. «Аргументы и факты». Дата обращения 22 июня 2012.)
最初の企画
キャリアの最初から、クリーモフは検閲に対して非妥協的な態度を取る監督として評価を得ていた。映画の発表のたびに、作品の態度と監督の考えはゴスキノを満足させず、著しい困難が生じた。例えば、彼の最初の短編作品の一つは、著名な作曲家ミカエル・タリヴェルディエフの擁護を必要とした。ゴスキノはプロコフィエフのバレエ『ロミオとジュリエット』の断片を伴奏に使うことを許可しなかった。結果として、クリーモフはС・А・ゲラーシモフ名称全連邦映画大学の学長から悪印象を持たれることになり、「モスフィルム」での監督の卒業制作作品の上映を妨害されることになった。学長はその作品を「反ソ的」とみなした。この作品と残りのクリーモフの作品は長時間の延期を余儀なくされ、屡々、少量のコピーで出回るか「お蔵入り」になった。しかし『炎628』は、他の映画よりも大きな困難に見舞われることになった。
(Алексей Гуськов. Элем Климов - жизнь на грани. «Синематека». Дата обращения 6 июля 2012.)
映画の制作開始は1977年に始まった。撮影スタッフが組まれ、俳優の選抜が行われた。フリョーラ役の俳優は、シベリア出身の、主人公の複雑な心理を伝える能力をテストで発揮した15歳の少年に決定された。自身も白ロシアのパルチザン運動の指導者であり、映画のストーリーの顧問のような役割も果たしていた白ロシア共産党中央委員会第一書記ピョートル・マシェーロフが劈頭から映画製作を支援していたにもかかわらず、撮影は普段通り、順風満帆とはいかなかった。マシェーロフがモスクワへ病気療養に発ったのち、クリーモフはゴスキノ官僚からの強力な抵抗に直面した。指導部は脚本を許可しなかった。主人公が沼地を通っていくシーンは「耽美主義のプロパガンダ」と評価された。夜間に雌牛を射殺するシーンは「自然主義」とされた。村が焼かれる場面も「パルチザン運動の活発さが欠けている」という抗議を呼び、フリョーラが子供の姿をしたヒトラーを撃つことを躊躇する場面も、検閲によって「鷹揚さ、抽象的ヒューマニズム、非階級的態度」と評価された。最後通牒のようなゴスキノの要求を、クリーモフは「映画を一撃で殺しうるもの」とみなして拒絶し、映画は停止されることになった。
(Герман Климов, Марина Мурзина, Андрей Плахов, Раиса Фомина. «Элем Климов. Неснятое кино». 2008, с. 241.)
しかし、クリーモフは屈することなく映画のための闘争を継続し、そのため数年が費やされた。この時期は極めて厄介なものとなった。監督は神経症になり、そのため彼はほとんど一年の中断をせねばならなくなった。1979年、彼の妻ラリーサ・シェピーチコが事故死した。翌年には、ピョートル・マシェーロフも同じく自動車事故で命を落とした。結局、1984年になってクリーモフは撮影に着手することができるようになったが、「机の上の」闘争において、検閲の修正には断じて譲ることがなかった。唯一の変化として、この時期に提出された映画の題名『来たりて見よ』が、当初に企画されていた『ヒトラーを殺せ』に取り換えられることになった。新たな題名は文字通り『進行中』というものが考えられた。クリーモフはゴスキノに召喚され、事前に彼には「ヒトラー」という言葉が許されないと伝えられていた。途上で、クリーモフは兄弟のゲルマンに聖書の「黙示録」のページをめくるよう頼んでおり、そこで次の句を見つけることになった(第六章第7-8節)。
(«Иди и смотри»: съёмки превратились для Элема Климова в борьбу с цензурой)
И когда Он снял четвёртую печать, я слышал голос четвёртого животного, говорящий: «Иди и смотри».
И я взглянул, и вот, конь бледный, и на нём всадник, которому имя «смерть»; и ад следовал за ним;
И дана ему власть над четвёртою частью земли — умерщвлять мечом и голодом, и мором и зверями земными.
(第四の印を開きし時、我第四の生き物の言ふを聞けり、曰く、来たりて観よ。
我観しに、爰に灰色の馬あり、之に乗れる者其名を死と曰ふ、地獄は其後に随へり、彼に地四分の一は与へられたり、刀剣と、饑饉と、疫病と、地の獣とを以て殺さん為なり)
(訳文は日本正教会訳聖書「神学者聖イオアン黙示録」を参照)