概要
1939年11月30日、フィンランドにソ連軍が侵攻(冬戦争)するが、森林内でゲリラ戦を仕掛けてくるフィンランド軍のサブマシンガン・スオミKP/-31に悩まされた。
ソ連軍は取り回しの良い小型自動火器の威力に驚き、生産中止で予備保管されていたディグチャレフPPD-34/PPD-38を復帰させ、PPD-38の再生産を決定。1940年にはPPD-38をスオミKP/-31に倣ってドラム式弾倉専用にしたPPD40を採用した。
しかし、PPD-40は削り出し加工の部品が多く、大量生産に不向きだった。構造の簡略化や、製造の単純化が求められ、競争試作の結果、1940年12月、ゲオルギー・シュパーギン技師設計のPPSh-41がソ連軍に制式採用されることとなった。
ストックは製造に手間のかかる木製のままだが、機関部はプレス加工とスポット溶接で製作することで大量生産を可能にした。単純化された構造のおかげでメンテナンスが容易であり、堅牢な作りとなっている。汚れや摩耗への対策として銃身内にクロム・メッキが施されるなど、ロシアらしい銃である。
PPD40用のドラム式弾倉(装弾数71発)を使用し、圧倒的な制圧射撃能力があったが、ドラム式弾倉は装填に時間がかかり、給弾不良も起きやすかった。装着すると大容量ゆえのフロントヘビーとなり、フォアグリップ代わりにドラム・マガジンに手を添える事になるなどの欠点もあり、1942年からは箱型弾倉(装弾数35発)が製造された。
「ホースの水みたく弾をばら撒くから命中精度なんてよくね?」という理由で、口径が同じモシン・ナガン用の銃身を半分に切って転用する計画があったが、実現しなかった。
終戦までにソ連国内だけで500万挺以上が生産されている。
1949年よりソ連軍ではアサルトライフル・AK47を制式採用し、余剰となったPPSh-41は東側諸国に供給され、中国や北朝鮮ではライセンス生産され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも使用された。
愛称
ロシア語の「殺せ、殺せ」の発音をもじってソ連兵は「PPSh」を「ペーペーシャー」と読んだ。
けたたましい発射音からドイツ軍は「バラライカ」、日本軍は「マンドリン」と、楽器にちなんで呼んでいた。
仕様
全長 | 840mm |
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銃身長 | 269mm |
重量 | 3500g |
弾薬 | 7.62×25mmトカレフ弾 |
装弾数 | 35/71発 |
余談
独ソ戦などにおいて、敵兵であるドイツ兵も鹵獲したPPSh-41を好んで使っていた。
当時、71発という装弾数の短機関銃は他になく、高速で大量の銃弾をばら撒ける点や多少のことでは故障しない堅牢さが重宝された。
逆にソ連兵はMP40を好んだと言われ、こちらは基本性能の高さからくる作りの良さのほか、良好な操作性などが重宝されていたようだ。
いつの時代も隣の芝生は青く見えるものなのである。
- ドラムマガジンの受難
71発という装弾数は重宝される一方、大きくて重く、多数の予備を持てないという欠点もある。
何が起きるかわからない戦場では、総数で沢山弾が持てれば良いというわけでもなく、弾倉自体の予備もそれなりに必要なのだが、それが難しい上にPPsh-41用マガジン特有の欠陥だけでなくドラムマガジン自体の構造にも問題が多かった。
これは単純なバネと箱の組み合わせでは限界があり、逆に複雑な機構を要する場合が多くなってしまうこと、どちらにせよ製造に手間がかかること、砂塵や部品の変形による故障で給弾不良が起きやすいことなどが挙げられる。
- ソ連の内情
当時のソ連軍では71発入り弾倉の場合、規定の携行弾数は142発である。
これは予備弾倉を1つだけ持つという事であり、これは終戦間際にPPS-43が増えてくるまで変わらなかった。つまり前述のような装備の兵士は予備を失くしたり、故障したらおしまいという状態で戦っていたのである。
当時のソ連軍は人海戦術的な機動戦を得意としており、軽装な兵士を戦車で前面に押し立てるといったものだが、兵士を大量に投入すればそれだけの銃器が必要となり、それに使用する弾薬や弾倉などはさらに必要になってくる。兵士一人に対して銃一丁と弾倉二つならまともな方である。
PPShに限らず、当時のソ連兵士の携行弾数が少ないのは、生産や輸送が戦場での大量消費に追いつけなかったことが原因といえるだろう。