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トンプソン・サブマシンガン

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とんぷそんさぶましんがん

アメリカの銃器メーカー、オート・オードナンス・コーポレーションが製造・供給していたサブマシンガン。1919年から累計170万挺以上が生産され、今日でも製造が続けられている長命な製品である。「トミーガン」、「シカゴタイプライター」などの様々な愛称がある。
アメリカの銃器メーカー、オート・オードナンス・コーポレーションが製造・供給していたサブマシンガン。1919年から累計170万挺以上が生産され、今日でも製造が続けられている長命な製品である。「トミーガン」、「シカゴタイプライター」などの様々な愛称がある。

歴史

歴史

開発経緯

 1916年7月、アメリカ陸軍造兵士官だったJ.T.トンプソンは、ニューヨークに自身の会社「オート・オードナンス・コーポレーション」(以下AO)を立ち上げ、長年の理想であった「携行性に優れた自動装填式歩兵火器」の開発に着手した。米西戦争に兵站担当士官として従軍したトンプソンは、それまでの戦争とは比べものにならない弾薬消費量を目の当たりにし、近代戦において戦闘の帰趨を決するのはただ火力のみであるという確信を得ていたのである。

 これまでにない軽量・小型の自動ライフルにふさわしい作動方式を検討していたトンプソンは、アメリカ海軍軍人であったジョン・ブリッシュが登録したパテントに注目した。それは、レシーバーとボルトのあいだに「ウェッジ(くさび)」と呼ばれる可動式のパーツを組み込み、弾薬が撃発した際のガス圧を利用してボルトとウェッジを密着させ、ボルトを閉鎖するというものであった。この方式を採用すれば、従来のものより軽量・小型の自動火器を開発することが可能となる。ただちにトンプソンはブリッシュと連絡を取り、このパテントを取得。ブリッシュ方式を利用した自動ライフルの開発に着手することになった。その頃はまさに第一次世界大戦の真っ只中であり、このプロジェクトが成功すればAOは大きなビジネスチャンスをつかめるはずであった。

 しかし、トンプソンらの思惑に反し、新型自動ライフルの開発は遅々として進まなかった。ブリッシュ方式を採用した試作銃は、薬莢の焼きつきなどの排莢にまつわるトラブルに次々見舞われたのである。AO技術陣は問題改善のために手を尽くしたが、事実上プロジェクトは暗礁に乗り上げてしまった。そんな中、1917年4月にアメリカ政府がヨーロッパへの派兵を決定。トンプソンは准将階級で軍務に復帰、造兵部門で辣腕をふるうことになった。

 同じ頃、AO技術陣は排莢関連のトラブルの原因が、薬莢の縦横比と関係していることを突き止めていた。具体的には、薬莢の長さに対し、薬莢底部の直径が大きいものほど、スムーズに排莢がなされることが判明したのだ。それまで試作銃で使用されていた米軍制式の.30-06弾はこの点で不適格であり、米軍制式弾薬で最も条件に合致しているのは、M1911拳銃に採用されていた.45ACP弾であった。この時点で自動ライフルの開発計画は頓挫してしまったのだが、この報告はトンプソンに新しい閃きを与えることにもなった。

 直ちにトンプソンはAO技術陣に新型自動火器の開発を命じた。それは、「小型軽量で50〜100発程度の装弾数を持ち、匍匐前進にも支障がなく、時には1個中隊の敵をも排除できるような、塹壕戦に適した小型マシンガン」であり、「兵士が1人で携行し、かつ射撃できるもの」でなくてはならなかった。直ちにAO技術陣は試作銃の開発に着手、間もなく「パスウェイダー(強制者)」なる名称のプロトタイプを完成させた。しかし、この銃は給弾方式として、ベルト給弾方式を採用したために構造が複雑化し、作動が不安定でしょっちゅうマルファンクション(作動不良)を起こす失敗作であった。こんなものでトンプソンが満足するはずもなく、AO技術陣はパスウェイダーの改良に着手した。そして1919年、給弾方式をボックスマガジン式に改め、デザインを大きくリファインしたモデルが完成、「アナイアレイター(殲滅者)」と名づけられて複数の個体が試作された。これらのモデルを検討した結果、最終的な改良を加えられて開発されたのが、最初の量産型トンプソン・サブマシンガン(以下トンプソンSMG)、M1921であった。このとき、本銃をどのように呼称するかが社内で議論され、全く新しいカテゴリーに属するこの銃を表現するために造られた単語が「サブマシンガン」であった。つまり、AO社は「サブマシンガン」という言葉の産みの親でもあったことになる。


2つの戦争の狭間で

 こうして量産が開始されたトンプソンSMGであったが、前途は多難であった。そう、大きなビジネスチャンスを掴むはずであった第一次世界大戦が生産前年の1918年に終結し、講和に至ってしまったのである。

大戦終結後の軍縮ムードの中にあって、米軍の予算は縮小傾向にあり、いうなれば「海のものとも山のものともつかぬ」怪しげな武器を大金を投じて配備するような決定を、当時の米軍が行うはずもなかった。

 それでも、元は軍人であったトンプソンのコネによって、何度か採用テストが行われはしたものの、その評価は散々であった。まだ「サブマシンガン」という武器の運用方法が完全に確立されていた時代ではなく、また近代戦の本質を正しく理解できている人間は軍の中にも少なかった。そのため、トンプソンSMGの高い近接戦闘能力はほとんど省みられず、長距離射撃能力の貧弱さばかりが取り沙汰されたのである。唯一、好意的に評価してくれた海兵隊ですら、わずか700丁しか配備してくれなかった。

 このことはAO経営陣に大きなショックを与え、AOは1923年、45ACPをベースに薬莢長を伸ばし、装薬量を増やした「45レミントン‐トンプソン」カートリッジを使用するM1923を試作、当時米軍に採用されていたBARに近いパフォーマンスを引き出そうとしたが、結局失敗した。また、民間・警察向けの市場でもトンプソンSMGのセールスは振るわなかった。理由は様々だが、最も大きな要因はその高価格であった。当時最も安い自動車が400ドルだったのに対し、トンプソンSMGの定価は175〜225ドルであり、とても一般市民の手の届く代物ではなかったのである。

 しかし、そんなトンプソンSMGの性能に目をつけた人々がいた。この時期に米国内で施行されていた禁酒法により、裏社会で勢力を伸ばしつつあったマフィアである。彼らは酒の密売で得た潤沢な資金を使ってトンプソンSMGを大量に購入し、抗争のための武器として使用した。また、ジョン・デリンジャーや「マシンガン・ケリー」といった、当時の有名なギャングスターも本銃の愛用者であり、トンプソンSMGによって殺害された犠牲者は数え切れないほどになった。また、こうしたギャングたちの様子を描いたハリウッド映画でもトンプソンSMGは印象的な使われ方をされ、多くの人々に「マフィア・ギャング=トンプソンSMG」という図式を植えつけてしまい、このせいで、トンプソンSMGの社会的イメージは大きく下落した。(現代でいう所のAK-47テロリストのそれに近い)

 しかし、それでも公的機関でトンプソンSMGの優れた性能に気づいたところがなかったわけではなく、米海兵隊は1926年の上海派兵や1927年のニカラグア派兵において本銃を多用、その近接戦闘能力を高く評価しているし、重武装したマフィアへの対策に苦慮していたFBIの捜査官は、自治体警察から本銃を借りてまで火力の増強に務めた。しかし、それでも販売数は伸び悩み、AO社の業績は低迷していった。


第二次世界大戦――トンプソンSMGの復権

 1930年代後半、AO社の経営はいよいよジリ貧となっていた。負債は200万ドル(現在の30億円相当)まで膨らみ、それを返済できるあてなどなかった。

 そこに突然、「貴社を買い取りたい」と申し出てきた人物がいた。実業家のラッセル・マグワイアである。彼にはある目算があった。急速に悪化する国際情勢から、近いうちに銃器製造業が再びドル箱産業になることを見抜いていたのである。マグワイアは持ち前の弁舌を活かしてあっという間にAO社の負債をほとんど帳消しにしてしまい、同社の株を51%取得して経営権を獲得。1939年にはAOの経営者の地位に収まった。

 同年9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻。イギリス・フランスはドイツに対して宣戦布告し、ここに第二次世界大戦は幕を開けた。同時に、ヨーロッパ各国から軍需物資の受注がアメリカに殺到。見事に予想を的中させたマグワイアは在庫のトンプソンSMGを英仏両軍に売りまくって大儲けした。さらにドイツの猛威に恐れをなした周辺諸国が軍備増強に乗り出すと、あれよあれよという間に在庫は飛ぶように売れ、マグワイアはそれによって得た利益をさらなるトンプソンSMGの量産のために投資した。そして1941年、日本の真珠湾攻撃によってアメリカ軍が第二次大戦への参戦を決定すると、それまでトンプソンSMGを冷遇していたアメリカ軍は一転、一丁でも多くのトンプソンSMGを求めるようになる。留まることを知らない需要に応えるべく、量産性の向上を図った改良が数次にわたって次々と行われた。

 しかし、もともと古い設計思想に基づいて開発されたトンプソンSMGを量産しやすいよう改良するには限界があった。1943年1月、軍造兵局はM1A1の後継機種として、より生産性の高いGM M3サブマシンガンの採用を決定し、30万丁を生産・配備する計画を立てた。この決定に基づき、同年5月からのM3量産に伴ってM1A1は7月いっぱいでの生産停止が言い渡されたが、初期のM3生産過程において問題が発生し、この問題が解決されるあいだ、M1A1の量産は継続された。最終的にM1A1の生産が停止したのは、1944年2月のことであった。

 トンプソンSMG全体の総生産数は、このとき175万丁に達していた。


トンプソンSMGの戦後

 1949年、AO社は余剰パーツやサンプルなどのトンプソンSMG関連の機材を、製造権もろとも玩具製造会社のキルゴア社に売却した。銃器製造の経験のないキルゴア社はこれらの「トンプソン・パッケージ」の国外への売却を目論んだがうまくいかず、結局1950年8月にパッケージをウィリアムス・シンジケート社に売却。そのウィリアムス・シンジケートも1951年10月に、銃器パーツを扱うナムリッチ・アームズ社にパッケージを転売してしまった。

 ナムリッチ・アームズは銃器に関してまんざら素人ではなく、これらの余剰パーツを組み合わせてトンプソンSMGを製造、販売する計画を立てた。実は、余剰パーツの中には1922年当時のプレミアもののレシーバーが含まれており、ナムリッチ・アームズはこのレシーバーを使用して組み上げた100丁ほどのトンプソンSMGに同社の刻印を入れ、警察及び民間のコレクター向けに限定販売した。

 その後、ナムリッチ・アームズ社は「オート・オードナンス」ブランドで復刻版のトンプソンSMGの製造・販売を継続していたが、1986年5月、法改正によって民間人のフルオート火器の所持に厳しい制限が設けられた時点でフルオート構造である本銃の民間向けの製造は中止された。(2年前の1984年7月にマクドナルド店内で発生し死者22人を出した銃乱射事件により、民間フルオート火器への風当たりが強くなっていた)

1999年1月、ナムリッチ・アームズ社はトンプソンSMG製造に関する権利と機材をアメリカの銃器メーカー、カー・アームズ社に売却した。このとき「オート・オードナンス」のブランド名も引き継がれ、同社は現在セミオートオンリーのトンプソンSMGを製造・販売している。

 なお、第二次大戦中に世界各地にばらまかれたトンプソンSMGの少なからぬ数はその後も各国の紛争で使用されたと見られる。1991年の湾岸戦争当時、イラク軍内で現役で使用されていたと思しきM1928SMGが米軍に鹵獲されている。

 また、自衛隊の前身である警察予備隊の創設時にアメリカ軍から貸与され、自衛隊となった現在においても11.4mm短機関銃 M1の名で使用されている。

 貸与品であるため、退役となった場合は損耗等で廃棄されなかったものは本来は米軍へ返却しなければならないのだが、米軍からの引取り要請がなされないために現在も予備装備として現役を勤めている。

 なお、予備装備となっているのは陸上自衛隊及び航空自衛隊で、海上自衛隊では9mm機関けん銃に置き換わりつつあるものの航空基地の警備隊にて現役を務めている。また、現役を退いている場合でも式典の際には儀仗用として使われる場合もある。


特徴

特徴

 第一世代のサブマシンガンらしく、レシーバーを鋼材ブロックから削り出して製作するなど、製造工程は手間がかかっている。とはいえ、生産性向上のための努力がなされていないわけではなく、フライス盤などのありふれた金属加工機械があれば簡単に造れたため、工業水準が低かった戦前の中国でも、ある程度信頼性の高いコピー品を製造することができた。

 また、フル/セミオートの切り替えを行うセレクター・レバーとセイフティ・レバーが別々に設けられている、フルオート火器にはふさわしくない曲銃床(反動が大きくなり、銃の制御が困難になる)を採用するなど、決して操作性に優れた銃ではなかった。ただし、同時期に開発されたサブマシンガンの大半が同じ欠点を抱えており、決してトンプソンSMGのみの問題ではない。

ブリッシュ・ロック方式(M1921〜M1928A1)

 ブリッシュ方式は初期のトンプソンSMGに見られる特徴的な閉鎖方式である。

 その理論的根拠になったのは、米海軍士官であったジョン・ブリッシュが確立した「ブリッシュ理論」である。戦艦の主砲などの大口径砲の発射プロセスにおいて、腔圧が高い強装弾を発射するときにはネジ式尾栓がゆるまないのに対し、腔圧の低い訓練用の弾を撃つと尾栓がゆるみ、兵員が負傷する事故が発生することに注目したブリッシュは、数学的解析を用いてその原因を追究し、組成の異なる金属の間では、一定の角度・圧力下において急激に摩擦係数が上昇するという、一種の粘着現象が発生するという独自の理論を提唱した。彼はこの理論が銃の閉鎖システムに利用できるのではないかと考え、海軍退役後にパテントを取得したのである。

 このシステムの要になるのは、ボルトに組み込まれたブロンズ製の「ブリッシュ・ロック」である。これと「アクチュエーター」(実質的にはコッキングハンドル)とが相互に干渉するようにボルトに組み込まれている。

 ブリッシュ方式の作動シークエンスは以下の通りである。

  1. トリガーを引くと、ボルトは前進し、マガジン上端の実包を薬室に押し込みつつさらに前進する。
  2. ボルトが閉じ、ブリッシュ・ロックがレシーバーに刻まれた「リセス」という切り欠きに収まると、同時に実包が撃発する。
  3. 発射ガスの圧力でボルトは後退しようとするが、ブリッシュ・ロックに設けられた「ラグ」という突起がリセスと干渉し、その動きを妨げる。ボルトが後退するには、ブリッシュ・ロックが斜め上6mmほどスライドし、ラグがリセスから外れる必要がある。
  4. この時、ボルトとブリッシュ・ロックとがガス圧によって密着し、一時的にボルトは完全に閉鎖される。十分にガス圧が下がれば密着状態は解除され、ブリッシュ・ロックは上方にスライドしてボルトは後退できるようになる。

 しかしながら、この閉鎖方式には当初から疑問の声が多く、後に生産性を高めるために改良されたM1/M1A1ではこの機構はオミットされ、オープンボルト式SMGの定番であるボルト質量によるシンプル・ブローバック方式に改められた。

 

カッツ・コンペンセイター(M1921/M1927/M1928/M1928A1)

 カッツ・コンペンセイターはリチャード・カッツによって考案されたマズル・デバイスであり、余分な発射ガスを逃がすことでマズル・ジャンプと反動を低減するように設計されていた。カッツ・コンペンセイターは1926年からM1921にオプション装備されるようになり、その外見から高い人気を博した。後に開発されたM1927〜M1928A1のモデルでは、これを装備していない製品を見つけるほうが難しい。


リア・サイト

 M1921〜M1928A1(途中まで)には、ライマン社製の精密なリア・サイトが装備された。これはウィンデージ(左右)調節機能と600ヤード(548m)までのエレベーション(上下)調節機能が盛り込まれたフル・アジャスタブル・サイトであり、単体での性能は優れたものだったが、精密射撃など望むべくもないオープンボルト式SMGのリア・サイトとしては不適格であった。また、このサイトは非常に高価でもあり、AOから生産委託を受けていたサベージ社で1941年に製造されたM1928では、リア・サイトのみで銃全体の製造コストの10分の1を占めていた。

 これが、生産性向上のために各部の簡略化が行われたM1928A1(後期生産分)/M1/M1A1となると、L字型に曲げられた鉄板を加工した簡素なものに変更され、M1A1からはこれを保護するために三角形のガードが設けられた。

 なお、余談ながら、最初期のプロトタイプである「パスウェイダー」には、恐ろしく小型のリア・サイトしか装備されておらず、また「アナイアレイター」の初期モデルにはリア・サイトが存在しないものもある。


マガジン

 M1921/M1928では、20連ボックスマガジンと「Lドラム」と呼ばれる50連ドラムマガジン、「Cドラム」と呼ばれる100連ドラムマガジンが製造・供給された。しかしながら、ドラムマガジンは圧倒的な装弾数を誇るものの、耐久性に乏しく、1941年12月にアメリカ軍事委員会による比較審査によってお役御免となった。このとき選定されたのが新規設計された30連ボックスマガジンであり、M1928A1/M1/M1A1で使用された。

 しかし、自前購入でドラムマガジンを調達し前線で使用していた者もいるらしく、太平洋戦線の記録写真ではドラムマガジン付きのトンプソンを持った兵士が写っていたりする。またボックスマガジンは20連のものより装弾数の多い30連のものが好んで使用されていた模様(一例として、戦争映画に出てくるトンプソンには30発マガジンが装着されていることが多い)。

委員会により否定されたにも拘らず前線において自腹を切ってでもドラムマガジンを採用している兵が少なくなかったのは、最前線において重量を犠牲にしてでも瞬間火力を重視する局面がそれだけ多かったものと思われる。


基本データ

基本データ

全長851mm
銃身長267mm
重量4800g
口径45ACP
装弾数20/30発(箱型)50/100発(ドラムマガジン)

バリエーション

バリエーション

  • M1918
    • 最初の試作品(?)。1918年、トンプソン大佐が始めに開発した。.45ACP弾を使う機関銃として開発された。まだマガジン式の小型機関銃と言うわけではなく、ベルト式を採用している。
  • M1919
    • 通称「アナイアレイター(殲滅者)」。1919年、来るべき量産体制を確立するために生産された試作モデル。まだショルダー・ストックはなく、初期のモデルではリア・サイトもないものがあった。
  • M1921
    • 初の量産モデル。AO社が自社に量産設備を持たなかったため、コルト社が製造を担当した。その為、本体にコルトの刻印がある。富裕層向けの高級玩具としての色彩が強い製品であり、木部は美しく仕上げられ、各部品は高精度な切削加工で製造されていた。
    • この型式のみ発射速度が800発/分である。
    • 参照画像
  • M1923
    • 米軍の制式採用を目指し開発されたモデル。軍部の意向を反映し、45ACPより強力な「45レミントン―トンプソン・カートリッジ」を使用するように改造され、また16インチ・バレルが装備された他、着剣装置やパイポッドを備えた試作品も制作された。また、この型式には後のM1928A1より継承される水平フォアグリップが取り付けられた。
    • 強装弾の使用で大きくなった反動を抑えるため、発射速度は400発/分に落とされた。しかし、強装弾の精度が.45ACP弾より悪いことが判明、更に軍部でも既にBARが採用されていた事などもあって不採用となり市販もされずに終わった。
    • 参照画像
  • M1927
    • 警察や刑務所での警備用途向けに開発されたモデル。セミオートオンリー。M1921を改造して製造されたため、M1921の刻印である“Thompson Submachine Gun”を一部削り取り、“Thompson Semi-Automatic Carbine”と打刻し直されている。
    • 尚、当モデルは戦後になってからオープンボルト方式をクローズドボルト方式にするなどの改良を加え、M1927A1の名で現在も生産が継続されている。
    • 参照画像(M1927A1)
  • M1928
    • トンプソンSMGの代名詞的モデル。外見はM1921と何ら変わるところはないが、発射速度が700発/分に落としてある(以降のモデルの発射速度は全て700発/分)。まずは500挺が生産され、米海軍・海兵隊に採用された。更に第二次世界大戦が勃発するとイギリス軍、フランス軍、スウェーデン軍に採用された。これにより悪化していたAO社の経営が一気に好転した。また、この頃に有名な「トミーガン」の愛称がつき、以降の代名詞となる。
    • 参照画像
  • M1928A1
    • M1928同様トンプソンの代表的なモデル。1941年の武器貸与法(レンド・リース法)制定に伴う生産量の増大に対処するため、AO社と生産委託を受けていたサベージ社によって生産されたモデル。フォアグリップがM1923と同様の物が取り付けられ、軍用のトンプソンの形を決定づけたものである。
    • 製造途中より本体の簡略化が行われ、まず銃身の放熱フィンが廃止された。その後、リアサイトが鉄板をL字に曲げた簡易式のものとなった。
    • 参照画像 ※上が初期のM1928A1。下が簡略化された物。
  • M1/M1A1
    • トンプソンSMGの最終生産型。生産性向上のため、徹底した簡略化を受けている。主なものとして以下の特長がある。
      • シンプル・ブローバック方式への変更。
      • ボルトハンドルの位置を上面から右側面に移動。
      • ドラムマガジン用スリットの廃止。
      • ストックのネジ固定。
      • カッツコンペンセイターの廃止。
    • M1A1では更に以下の改良が加えられた。
      • ボルトの撃針を内蔵式から固定式へ変更。
      • 三角形のリアサイト保護板を追加。
      • ストックの破損を防ぐため基部にクロスボルトを追加。
      • 削り出しで制作していたセレクターとセイフティを筒の側面にピンを打ち込んだ単純な物に変更。
    • 参照画像(M1)
    • 参照画像(M1A1)

メディアでの活躍

メディアでの活躍

 1920年代のマフィア絡みの抗争事件で多く用いられたことから、マフィアを扱った映画ではよく登場し、マフィア側、警察側双方において縦横無尽に活躍している。また、第二次世界大戦を主題とした戦争映画にも多数出演している。

また日本においても、アレンジを加えながら東宝東映日活等で模造的な劇用銃が作られ邦画やTVのアクションものにも出演した。


恐らく、世界で一番映画に多く出演したサブマシンガンであろう。


エイリアン2に登場するM-41Aの中身にもなっている。

また部隊視察の折に撮影されたドラムマガジン付トミーガンを手にするウィンストン・チャーチル英首相の写真は有名。

関連イラスト

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関連タグ

関連タグ

サブマシンガン アメリカ軍 マフィア

トンプソン(ドールズフロントライン)

歴史

歴史

開発経緯

 1916年7月、アメリカ陸軍造兵士官だったJ.T.トンプソンは、ニューヨークに自身の会社「オート・オードナンス・コーポレーション」(以下AO)を立ち上げ、長年の理想であった「携行性に優れた自動装填式歩兵火器」の開発に着手した。米西戦争に兵站担当士官として従軍したトンプソンは、それまでの戦争とは比べものにならない弾薬消費量を目の当たりにし、近代戦において戦闘の帰趨を決するのはただ火力のみであるという確信を得ていたのである。

 これまでにない軽量・小型の自動ライフルにふさわしい作動方式を検討していたトンプソンは、アメリカ海軍軍人であったジョン・ブリッシュが登録したパテントに注目した。それは、レシーバーとボルトのあいだに「ウェッジ(くさび)」と呼ばれる可動式のパーツを組み込み、弾薬が撃発した際のガス圧を利用してボルトとウェッジを密着させ、ボルトを閉鎖するというものであった。この方式を採用すれば、従来のものより軽量・小型の自動火器を開発することが可能となる。ただちにトンプソンはブリッシュと連絡を取り、このパテントを取得。ブリッシュ方式を利用した自動ライフルの開発に着手することになった。その頃はまさに第一次世界大戦の真っ只中であり、このプロジェクトが成功すればAOは大きなビジネスチャンスをつかめるはずであった。

 しかし、トンプソンらの思惑に反し、新型自動ライフルの開発は遅々として進まなかった。ブリッシュ方式を採用した試作銃は、薬莢の焼きつきなどの排莢にまつわるトラブルに次々見舞われたのである。AO技術陣は問題改善のために手を尽くしたが、事実上プロジェクトは暗礁に乗り上げてしまった。そんな中、1917年4月にアメリカ政府がヨーロッパへの派兵を決定。トンプソンは准将階級で軍務に復帰、造兵部門で辣腕をふるうことになった。

 同じ頃、AO技術陣は排莢関連のトラブルの原因が、薬莢の縦横比と関係していることを突き止めていた。具体的には、薬莢の長さに対し、薬莢底部の直径が大きいものほど、スムーズに排莢がなされることが判明したのだ。それまで試作銃で使用されていた米軍制式の.30-06弾はこの点で不適格であり、米軍制式弾薬で最も条件に合致しているのは、M1911拳銃に採用されていた.45ACP弾であった。この時点で自動ライフルの開発計画は頓挫してしまったのだが、この報告はトンプソンに新しい閃きを与えることにもなった。

 直ちにトンプソンはAO技術陣に新型自動火器の開発を命じた。それは、「小型軽量で50〜100発程度の装弾数を持ち、匍匐前進にも支障がなく、時には1個中隊の敵をも排除できるような、塹壕戦に適した小型マシンガン」であり、「兵士が1人で携行し、かつ射撃できるもの」でなくてはならなかった。直ちにAO技術陣は試作銃の開発に着手、間もなく「パスウェイダー(強制者)」なる名称のプロトタイプを完成させた。しかし、この銃は給弾方式として、ベルト給弾方式を採用したために構造が複雑化し、作動が不安定でしょっちゅうマルファンクション(作動不良)を起こす失敗作であった。こんなものでトンプソンが満足するはずもなく、AO技術陣はパスウェイダーの改良に着手した。そして1919年、給弾方式をボックスマガジン式に改め、デザインを大きくリファインしたモデルが完成、「アナイアレイター(殲滅者)」と名づけられて複数の個体が試作された。これらのモデルを検討した結果、最終的な改良を加えられて開発されたのが、最初の量産型トンプソン・サブマシンガン(以下トンプソンSMG)、M1921であった。このとき、本銃をどのように呼称するかが社内で議論され、全く新しいカテゴリーに属するこの銃を表現するために造られた単語が「サブマシンガン」であった。つまり、AO社は「サブマシンガン」という言葉の産みの親でもあったことになる。


2つの戦争の狭間で

 こうして量産が開始されたトンプソンSMGであったが、前途は多難であった。そう、大きなビジネスチャンスを掴むはずであった第一次世界大戦が生産前年の1918年に終結し、講和に至ってしまったのである。

大戦終結後の軍縮ムードの中にあって、米軍の予算は縮小傾向にあり、いうなれば「海のものとも山のものともつかぬ」怪しげな武器を大金を投じて配備するような決定を、当時の米軍が行うはずもなかった。

 それでも、元は軍人であったトンプソンのコネによって、何度か採用テストが行われはしたものの、その評価は散々であった。まだ「サブマシンガン」という武器の運用方法が完全に確立されていた時代ではなく、また近代戦の本質を正しく理解できている人間は軍の中にも少なかった。そのため、トンプソンSMGの高い近接戦闘能力はほとんど省みられず、長距離射撃能力の貧弱さばかりが取り沙汰されたのである。唯一、好意的に評価してくれた海兵隊ですら、わずか700丁しか配備してくれなかった。

 このことはAO経営陣に大きなショックを与え、AOは1923年、45ACPをベースに薬莢長を伸ばし、装薬量を増やした「45レミントン‐トンプソン」カートリッジを使用するM1923を試作、当時米軍に採用されていたBARに近いパフォーマンスを引き出そうとしたが、結局失敗した。また、民間・警察向けの市場でもトンプソンSMGのセールスは振るわなかった。理由は様々だが、最も大きな要因はその高価格であった。当時最も安い自動車が400ドルだったのに対し、トンプソンSMGの定価は175〜225ドルであり、とても一般市民の手の届く代物ではなかったのである。

 しかし、そんなトンプソンSMGの性能に目をつけた人々がいた。この時期に米国内で施行されていた禁酒法により、裏社会で勢力を伸ばしつつあったマフィアである。彼らは酒の密売で得た潤沢な資金を使ってトンプソンSMGを大量に購入し、抗争のための武器として使用した。また、ジョン・デリンジャーや「マシンガン・ケリー」といった、当時の有名なギャングスターも本銃の愛用者であり、トンプソンSMGによって殺害された犠牲者は数え切れないほどになった。また、こうしたギャングたちの様子を描いたハリウッド映画でもトンプソンSMGは印象的な使われ方をされ、多くの人々に「マフィア・ギャング=トンプソンSMG」という図式を植えつけてしまい、このせいで、トンプソンSMGの社会的イメージは大きく下落した。(現代でいう所のAK-47テロリストのそれに近い)

 しかし、それでも公的機関でトンプソンSMGの優れた性能に気づいたところがなかったわけではなく、米海兵隊は1926年の上海派兵や1927年のニカラグア派兵において本銃を多用、その近接戦闘能力を高く評価しているし、重武装したマフィアへの対策に苦慮していたFBIの捜査官は、自治体警察から本銃を借りてまで火力の増強に務めた。しかし、それでも販売数は伸び悩み、AO社の業績は低迷していった。


第二次世界大戦――トンプソンSMGの復権

 1930年代後半、AO社の経営はいよいよジリ貧となっていた。負債は200万ドル(現在の30億円相当)まで膨らみ、それを返済できるあてなどなかった。

 そこに突然、「貴社を買い取りたい」と申し出てきた人物がいた。実業家のラッセル・マグワイアである。彼にはある目算があった。急速に悪化する国際情勢から、近いうちに銃器製造業が再びドル箱産業になることを見抜いていたのである。マグワイアは持ち前の弁舌を活かしてあっという間にAO社の負債をほとんど帳消しにしてしまい、同社の株を51%取得して経営権を獲得。1939年にはAOの経営者の地位に収まった。

 同年9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻。イギリス・フランスはドイツに対して宣戦布告し、ここに第二次世界大戦は幕を開けた。同時に、ヨーロッパ各国から軍需物資の受注がアメリカに殺到。見事に予想を的中させたマグワイアは在庫のトンプソンSMGを英仏両軍に売りまくって大儲けした。さらにドイツの猛威に恐れをなした周辺諸国が軍備増強に乗り出すと、あれよあれよという間に在庫は飛ぶように売れ、マグワイアはそれによって得た利益をさらなるトンプソンSMGの量産のために投資した。そして1941年、日本の真珠湾攻撃によってアメリカ軍が第二次大戦への参戦を決定すると、それまでトンプソンSMGを冷遇していたアメリカ軍は一転、一丁でも多くのトンプソンSMGを求めるようになる。留まることを知らない需要に応えるべく、量産性の向上を図った改良が数次にわたって次々と行われた。

 しかし、もともと古い設計思想に基づいて開発されたトンプソンSMGを量産しやすいよう改良するには限界があった。1943年1月、軍造兵局はM1A1の後継機種として、より生産性の高いGM M3サブマシンガンの採用を決定し、30万丁を生産・配備する計画を立てた。この決定に基づき、同年5月からのM3量産に伴ってM1A1は7月いっぱいでの生産停止が言い渡されたが、初期のM3生産過程において問題が発生し、この問題が解決されるあいだ、M1A1の量産は継続された。最終的にM1A1の生産が停止したのは、1944年2月のことであった。

 トンプソンSMG全体の総生産数は、このとき175万丁に達していた。


トンプソンSMGの戦後

 1949年、AO社は余剰パーツやサンプルなどのトンプソンSMG関連の機材を、製造権もろとも玩具製造会社のキルゴア社に売却した。銃器製造の経験のないキルゴア社はこれらの「トンプソン・パッケージ」の国外への売却を目論んだがうまくいかず、結局1950年8月にパッケージをウィリアムス・シンジケート社に売却。そのウィリアムス・シンジケートも1951年10月に、銃器パーツを扱うナムリッチ・アームズ社にパッケージを転売してしまった。

 ナムリッチ・アームズは銃器に関してまんざら素人ではなく、これらの余剰パーツを組み合わせてトンプソンSMGを製造、販売する計画を立てた。実は、余剰パーツの中には1922年当時のプレミアもののレシーバーが含まれており、ナムリッチ・アームズはこのレシーバーを使用して組み上げた100丁ほどのトンプソンSMGに同社の刻印を入れ、警察及び民間のコレクター向けに限定販売した。

 その後、ナムリッチ・アームズ社は「オート・オードナンス」ブランドで復刻版のトンプソンSMGの製造・販売を継続していたが、1986年5月、法改正によって民間人のフルオート火器の所持に厳しい制限が設けられた時点でフルオート構造である本銃の民間向けの製造は中止された。(2年前の1984年7月にマクドナルド店内で発生し死者22人を出した銃乱射事件により、民間フルオート火器への風当たりが強くなっていた)

1999年1月、ナムリッチ・アームズ社はトンプソンSMG製造に関する権利と機材をアメリカの銃器メーカー、カー・アームズ社に売却した。このとき「オート・オードナンス」のブランド名も引き継がれ、同社は現在セミオートオンリーのトンプソンSMGを製造・販売している。

 なお、第二次大戦中に世界各地にばらまかれたトンプソンSMGの少なからぬ数はその後も各国の紛争で使用されたと見られる。1991年の湾岸戦争当時、イラク軍内で現役で使用されていたと思しきM1928SMGが米軍に鹵獲されている。

 また、自衛隊の前身である警察予備隊の創設時にアメリカ軍から貸与され、自衛隊となった現在においても11.4mm短機関銃 M1の名で使用されている。

 貸与品であるため、退役となった場合は損耗等で廃棄されなかったものは本来は米軍へ返却しなければならないのだが、米軍からの引取り要請がなされないために現在も予備装備として現役を勤めている。

 なお、予備装備となっているのは陸上自衛隊及び航空自衛隊で、海上自衛隊では9mm機関けん銃に置き換わりつつあるものの航空基地の警備隊にて現役を務めている。また、現役を退いている場合でも式典の際には儀仗用として使われる場合もある。


特徴

特徴

 第一世代のサブマシンガンらしく、レシーバーを鋼材ブロックから削り出して製作するなど、製造工程は手間がかかっている。とはいえ、生産性向上のための努力がなされていないわけではなく、フライス盤などのありふれた金属加工機械があれば簡単に造れたため、工業水準が低かった戦前の中国でも、ある程度信頼性の高いコピー品を製造することができた。

 また、フル/セミオートの切り替えを行うセレクター・レバーとセイフティ・レバーが別々に設けられている、フルオート火器にはふさわしくない曲銃床(反動が大きくなり、銃の制御が困難になる)を採用するなど、決して操作性に優れた銃ではなかった。ただし、同時期に開発されたサブマシンガンの大半が同じ欠点を抱えており、決してトンプソンSMGのみの問題ではない。

ブリッシュ・ロック方式(M1921〜M1928A1)

 ブリッシュ方式は初期のトンプソンSMGに見られる特徴的な閉鎖方式である。

 その理論的根拠になったのは、米海軍士官であったジョン・ブリッシュが確立した「ブリッシュ理論」である。戦艦の主砲などの大口径砲の発射プロセスにおいて、腔圧が高い強装弾を発射するときにはネジ式尾栓がゆるまないのに対し、腔圧の低い訓練用の弾を撃つと尾栓がゆるみ、兵員が負傷する事故が発生することに注目したブリッシュは、数学的解析を用いてその原因を追究し、組成の異なる金属の間では、一定の角度・圧力下において急激に摩擦係数が上昇するという、一種の粘着現象が発生するという独自の理論を提唱した。彼はこの理論が銃の閉鎖システムに利用できるのではないかと考え、海軍退役後にパテントを取得したのである。

 このシステムの要になるのは、ボルトに組み込まれたブロンズ製の「ブリッシュ・ロック」である。これと「アクチュエーター」(実質的にはコッキングハンドル)とが相互に干渉するようにボルトに組み込まれている。

 ブリッシュ方式の作動シークエンスは以下の通りである。

  1. トリガーを引くと、ボルトは前進し、マガジン上端の実包を薬室に押し込みつつさらに前進する。
  2. ボルトが閉じ、ブリッシュ・ロックがレシーバーに刻まれた「リセス」という切り欠きに収まると、同時に実包が撃発する。
  3. 発射ガスの圧力でボルトは後退しようとするが、ブリッシュ・ロックに設けられた「ラグ」という突起がリセスと干渉し、その動きを妨げる。ボルトが後退するには、ブリッシュ・ロックが斜め上6mmほどスライドし、ラグがリセスから外れる必要がある。
  4. この時、ボルトとブリッシュ・ロックとがガス圧によって密着し、一時的にボルトは完全に閉鎖される。十分にガス圧が下がれば密着状態は解除され、ブリッシュ・ロックは上方にスライドしてボルトは後退できるようになる。

 しかしながら、この閉鎖方式には当初から疑問の声が多く、後に生産性を高めるために改良されたM1/M1A1ではこの機構はオミットされ、オープンボルト式SMGの定番であるボルト質量によるシンプル・ブローバック方式に改められた。

 

カッツ・コンペンセイター(M1921/M1927/M1928/M1928A1)

 カッツ・コンペンセイターはリチャード・カッツによって考案されたマズル・デバイスであり、余分な発射ガスを逃がすことでマズル・ジャンプと反動を低減するように設計されていた。カッツ・コンペンセイターは1926年からM1921にオプション装備されるようになり、その外見から高い人気を博した。後に開発されたM1927〜M1928A1のモデルでは、これを装備していない製品を見つけるほうが難しい。


リア・サイト

 M1921〜M1928A1(途中まで)には、ライマン社製の精密なリア・サイトが装備された。これはウィンデージ(左右)調節機能と600ヤード(548m)までのエレベーション(上下)調節機能が盛り込まれたフル・アジャスタブル・サイトであり、単体での性能は優れたものだったが、精密射撃など望むべくもないオープンボルト式SMGのリア・サイトとしては不適格であった。また、このサイトは非常に高価でもあり、AOから生産委託を受けていたサベージ社で1941年に製造されたM1928では、リア・サイトのみで銃全体の製造コストの10分の1を占めていた。

 これが、生産性向上のために各部の簡略化が行われたM1928A1(後期生産分)/M1/M1A1となると、L字型に曲げられた鉄板を加工した簡素なものに変更され、M1A1からはこれを保護するために三角形のガードが設けられた。

 なお、余談ながら、最初期のプロトタイプである「パスウェイダー」には、恐ろしく小型のリア・サイトしか装備されておらず、また「アナイアレイター」の初期モデルにはリア・サイトが存在しないものもある。


マガジン

 M1921/M1928では、20連ボックスマガジンと「Lドラム」と呼ばれる50連ドラムマガジン、「Cドラム」と呼ばれる100連ドラムマガジンが製造・供給された。しかしながら、ドラムマガジンは圧倒的な装弾数を誇るものの、耐久性に乏しく、1941年12月にアメリカ軍事委員会による比較審査によってお役御免となった。このとき選定されたのが新規設計された30連ボックスマガジンであり、M1928A1/M1/M1A1で使用された。

 しかし、自前購入でドラムマガジンを調達し前線で使用していた者もいるらしく、太平洋戦線の記録写真ではドラムマガジン付きのトンプソンを持った兵士が写っていたりする。またボックスマガジンは20連のものより装弾数の多い30連のものが好んで使用されていた模様(一例として、戦争映画に出てくるトンプソンには30発マガジンが装着されていることが多い)。

委員会により否定されたにも拘らず前線において自腹を切ってでもドラムマガジンを採用している兵が少なくなかったのは、最前線において重量を犠牲にしてでも瞬間火力を重視する局面がそれだけ多かったものと思われる。


基本データ

基本データ

全長851mm
銃身長267mm
重量4800g
口径45ACP
装弾数20/30発(箱型)50/100発(ドラムマガジン)

バリエーション

バリエーション

  • M1918
    • 最初の試作品(?)。1918年、トンプソン大佐が始めに開発した。.45ACP弾を使う機関銃として開発された。まだマガジン式の小型機関銃と言うわけではなく、ベルト式を採用している。
  • M1919
    • 通称「アナイアレイター(殲滅者)」。1919年、来るべき量産体制を確立するために生産された試作モデル。まだショルダー・ストックはなく、初期のモデルではリア・サイトもないものがあった。
  • M1921
    • 初の量産モデル。AO社が自社に量産設備を持たなかったため、コルト社が製造を担当した。その為、本体にコルトの刻印がある。富裕層向けの高級玩具としての色彩が強い製品であり、木部は美しく仕上げられ、各部品は高精度な切削加工で製造されていた。
    • この型式のみ発射速度が800発/分である。
    • 参照画像
  • M1923
    • 米軍の制式採用を目指し開発されたモデル。軍部の意向を反映し、45ACPより強力な「45レミントン―トンプソン・カートリッジ」を使用するように改造され、また16インチ・バレルが装備された他、着剣装置やパイポッドを備えた試作品も制作された。また、この型式には後のM1928A1より継承される水平フォアグリップが取り付けられた。
    • 強装弾の使用で大きくなった反動を抑えるため、発射速度は400発/分に落とされた。しかし、強装弾の精度が.45ACP弾より悪いことが判明、更に軍部でも既にBARが採用されていた事などもあって不採用となり市販もされずに終わった。
    • 参照画像
  • M1927
    • 警察や刑務所での警備用途向けに開発されたモデル。セミオートオンリー。M1921を改造して製造されたため、M1921の刻印である“Thompson Submachine Gun”を一部削り取り、“Thompson Semi-Automatic Carbine”と打刻し直されている。
    • 尚、当モデルは戦後になってからオープンボルト方式をクローズドボルト方式にするなどの改良を加え、M1927A1の名で現在も生産が継続されている。
    • 参照画像(M1927A1)
  • M1928
    • トンプソンSMGの代名詞的モデル。外見はM1921と何ら変わるところはないが、発射速度が700発/分に落としてある(以降のモデルの発射速度は全て700発/分)。まずは500挺が生産され、米海軍・海兵隊に採用された。更に第二次世界大戦が勃発するとイギリス軍、フランス軍、スウェーデン軍に採用された。これにより悪化していたAO社の経営が一気に好転した。また、この頃に有名な「トミーガン」の愛称がつき、以降の代名詞となる。
    • 参照画像
  • M1928A1
    • M1928同様トンプソンの代表的なモデル。1941年の武器貸与法(レンド・リース法)制定に伴う生産量の増大に対処するため、AO社と生産委託を受けていたサベージ社によって生産されたモデル。フォアグリップがM1923と同様の物が取り付けられ、軍用のトンプソンの形を決定づけたものである。
    • 製造途中より本体の簡略化が行われ、まず銃身の放熱フィンが廃止された。その後、リアサイトが鉄板をL字に曲げた簡易式のものとなった。
    • 参照画像 ※上が初期のM1928A1。下が簡略化された物。
  • M1/M1A1
    • トンプソンSMGの最終生産型。生産性向上のため、徹底した簡略化を受けている。主なものとして以下の特長がある。
      • シンプル・ブローバック方式への変更。
      • ボルトハンドルの位置を上面から右側面に移動。
      • ドラムマガジン用スリットの廃止。
      • ストックのネジ固定。
      • カッツコンペンセイターの廃止。
    • M1A1では更に以下の改良が加えられた。
      • ボルトの撃針を内蔵式から固定式へ変更。
      • 三角形のリアサイト保護板を追加。
      • ストックの破損を防ぐため基部にクロスボルトを追加。
      • 削り出しで制作していたセレクターとセイフティを筒の側面にピンを打ち込んだ単純な物に変更。
    • 参照画像(M1)
    • 参照画像(M1A1)

メディアでの活躍

メディアでの活躍

 1920年代のマフィア絡みの抗争事件で多く用いられたことから、マフィアを扱った映画ではよく登場し、マフィア側、警察側双方において縦横無尽に活躍している。また、第二次世界大戦を主題とした戦争映画にも多数出演している。

また日本においても、アレンジを加えながら東宝東映日活等で模造的な劇用銃が作られ邦画やTVのアクションものにも出演した。


恐らく、世界で一番映画に多く出演したサブマシンガンであろう。


エイリアン2に登場するM-41Aの中身にもなっている。

また部隊視察の折に撮影されたドラムマガジン付トミーガンを手にするウィンストン・チャーチル英首相の写真は有名。

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トンプソン・サブマシンガン
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とんぷそんさぶましんがん

アメリカの銃器メーカー、オート・オードナンス・コーポレーションが製造・供給していたサブマシンガン。1919年から累計170万挺以上が生産され、今日でも製造が続けられている長命な製品である。「トミーガン」、「シカゴタイプライター」などの様々な愛称がある。
アメリカの銃器メーカー、オート・オードナンス・コーポレーションが製造・供給していたサブマシンガン。1919年から累計170万挺以上が生産され、今日でも製造が続けられている長命な製品である。「トミーガン」、「シカゴタイプライター」などの様々な愛称がある。

歴史

歴史

開発経緯

 1916年7月、アメリカ陸軍造兵士官だったJ.T.トンプソンは、ニューヨークに自身の会社「オート・オードナンス・コーポレーション」(以下AO)を立ち上げ、長年の理想であった「携行性に優れた自動装填式歩兵火器」の開発に着手した。米西戦争に兵站担当士官として従軍したトンプソンは、それまでの戦争とは比べものにならない弾薬消費量を目の当たりにし、近代戦において戦闘の帰趨を決するのはただ火力のみであるという確信を得ていたのである。

 これまでにない軽量・小型の自動ライフルにふさわしい作動方式を検討していたトンプソンは、アメリカ海軍軍人であったジョン・ブリッシュが登録したパテントに注目した。それは、レシーバーとボルトのあいだに「ウェッジ(くさび)」と呼ばれる可動式のパーツを組み込み、弾薬が撃発した際のガス圧を利用してボルトとウェッジを密着させ、ボルトを閉鎖するというものであった。この方式を採用すれば、従来のものより軽量・小型の自動火器を開発することが可能となる。ただちにトンプソンはブリッシュと連絡を取り、このパテントを取得。ブリッシュ方式を利用した自動ライフルの開発に着手することになった。その頃はまさに第一次世界大戦の真っ只中であり、このプロジェクトが成功すればAOは大きなビジネスチャンスをつかめるはずであった。

 しかし、トンプソンらの思惑に反し、新型自動ライフルの開発は遅々として進まなかった。ブリッシュ方式を採用した試作銃は、薬莢の焼きつきなどの排莢にまつわるトラブルに次々見舞われたのである。AO技術陣は問題改善のために手を尽くしたが、事実上プロジェクトは暗礁に乗り上げてしまった。そんな中、1917年4月にアメリカ政府がヨーロッパへの派兵を決定。トンプソンは准将階級で軍務に復帰、造兵部門で辣腕をふるうことになった。

 同じ頃、AO技術陣は排莢関連のトラブルの原因が、薬莢の縦横比と関係していることを突き止めていた。具体的には、薬莢の長さに対し、薬莢底部の直径が大きいものほど、スムーズに排莢がなされることが判明したのだ。それまで試作銃で使用されていた米軍制式の.30-06弾はこの点で不適格であり、米軍制式弾薬で最も条件に合致しているのは、M1911拳銃に採用されていた.45ACP弾であった。この時点で自動ライフルの開発計画は頓挫してしまったのだが、この報告はトンプソンに新しい閃きを与えることにもなった。

 直ちにトンプソンはAO技術陣に新型自動火器の開発を命じた。それは、「小型軽量で50〜100発程度の装弾数を持ち、匍匐前進にも支障がなく、時には1個中隊の敵をも排除できるような、塹壕戦に適した小型マシンガン」であり、「兵士が1人で携行し、かつ射撃できるもの」でなくてはならなかった。直ちにAO技術陣は試作銃の開発に着手、間もなく「パスウェイダー(強制者)」なる名称のプロトタイプを完成させた。しかし、この銃は給弾方式として、ベルト給弾方式を採用したために構造が複雑化し、作動が不安定でしょっちゅうマルファンクション(作動不良)を起こす失敗作であった。こんなものでトンプソンが満足するはずもなく、AO技術陣はパスウェイダーの改良に着手した。そして1919年、給弾方式をボックスマガジン式に改め、デザインを大きくリファインしたモデルが完成、「アナイアレイター(殲滅者)」と名づけられて複数の個体が試作された。これらのモデルを検討した結果、最終的な改良を加えられて開発されたのが、最初の量産型トンプソン・サブマシンガン(以下トンプソンSMG)、M1921であった。このとき、本銃をどのように呼称するかが社内で議論され、全く新しいカテゴリーに属するこの銃を表現するために造られた単語が「サブマシンガン」であった。つまり、AO社は「サブマシンガン」という言葉の産みの親でもあったことになる。


2つの戦争の狭間で

 こうして量産が開始されたトンプソンSMGであったが、前途は多難であった。そう、大きなビジネスチャンスを掴むはずであった第一次世界大戦が生産前年の1918年に終結し、講和に至ってしまったのである。

大戦終結後の軍縮ムードの中にあって、米軍の予算は縮小傾向にあり、いうなれば「海のものとも山のものともつかぬ」怪しげな武器を大金を投じて配備するような決定を、当時の米軍が行うはずもなかった。

 それでも、元は軍人であったトンプソンのコネによって、何度か採用テストが行われはしたものの、その評価は散々であった。まだ「サブマシンガン」という武器の運用方法が完全に確立されていた時代ではなく、また近代戦の本質を正しく理解できている人間は軍の中にも少なかった。そのため、トンプソンSMGの高い近接戦闘能力はほとんど省みられず、長距離射撃能力の貧弱さばかりが取り沙汰されたのである。唯一、好意的に評価してくれた海兵隊ですら、わずか700丁しか配備してくれなかった。

 このことはAO経営陣に大きなショックを与え、AOは1923年、45ACPをベースに薬莢長を伸ばし、装薬量を増やした「45レミントン‐トンプソン」カートリッジを使用するM1923を試作、当時米軍に採用されていたBARに近いパフォーマンスを引き出そうとしたが、結局失敗した。また、民間・警察向けの市場でもトンプソンSMGのセールスは振るわなかった。理由は様々だが、最も大きな要因はその高価格であった。当時最も安い自動車が400ドルだったのに対し、トンプソンSMGの定価は175〜225ドルであり、とても一般市民の手の届く代物ではなかったのである。

 しかし、そんなトンプソンSMGの性能に目をつけた人々がいた。この時期に米国内で施行されていた禁酒法により、裏社会で勢力を伸ばしつつあったマフィアである。彼らは酒の密売で得た潤沢な資金を使ってトンプソンSMGを大量に購入し、抗争のための武器として使用した。また、ジョン・デリンジャーや「マシンガン・ケリー」といった、当時の有名なギャングスターも本銃の愛用者であり、トンプソンSMGによって殺害された犠牲者は数え切れないほどになった。また、こうしたギャングたちの様子を描いたハリウッド映画でもトンプソンSMGは印象的な使われ方をされ、多くの人々に「マフィア・ギャング=トンプソンSMG」という図式を植えつけてしまい、このせいで、トンプソンSMGの社会的イメージは大きく下落した。(現代でいう所のAK-47テロリストのそれに近い)

 しかし、それでも公的機関でトンプソンSMGの優れた性能に気づいたところがなかったわけではなく、米海兵隊は1926年の上海派兵や1927年のニカラグア派兵において本銃を多用、その近接戦闘能力を高く評価しているし、重武装したマフィアへの対策に苦慮していたFBIの捜査官は、自治体警察から本銃を借りてまで火力の増強に務めた。しかし、それでも販売数は伸び悩み、AO社の業績は低迷していった。


第二次世界大戦――トンプソンSMGの復権

 1930年代後半、AO社の経営はいよいよジリ貧となっていた。負債は200万ドル(現在の30億円相当)まで膨らみ、それを返済できるあてなどなかった。

 そこに突然、「貴社を買い取りたい」と申し出てきた人物がいた。実業家のラッセル・マグワイアである。彼にはある目算があった。急速に悪化する国際情勢から、近いうちに銃器製造業が再びドル箱産業になることを見抜いていたのである。マグワイアは持ち前の弁舌を活かしてあっという間にAO社の負債をほとんど帳消しにしてしまい、同社の株を51%取得して経営権を獲得。1939年にはAOの経営者の地位に収まった。

 同年9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻。イギリス・フランスはドイツに対して宣戦布告し、ここに第二次世界大戦は幕を開けた。同時に、ヨーロッパ各国から軍需物資の受注がアメリカに殺到。見事に予想を的中させたマグワイアは在庫のトンプソンSMGを英仏両軍に売りまくって大儲けした。さらにドイツの猛威に恐れをなした周辺諸国が軍備増強に乗り出すと、あれよあれよという間に在庫は飛ぶように売れ、マグワイアはそれによって得た利益をさらなるトンプソンSMGの量産のために投資した。そして1941年、日本の真珠湾攻撃によってアメリカ軍が第二次大戦への参戦を決定すると、それまでトンプソンSMGを冷遇していたアメリカ軍は一転、一丁でも多くのトンプソンSMGを求めるようになる。留まることを知らない需要に応えるべく、量産性の向上を図った改良が数次にわたって次々と行われた。

 しかし、もともと古い設計思想に基づいて開発されたトンプソンSMGを量産しやすいよう改良するには限界があった。1943年1月、軍造兵局はM1A1の後継機種として、より生産性の高いGM M3サブマシンガンの採用を決定し、30万丁を生産・配備する計画を立てた。この決定に基づき、同年5月からのM3量産に伴ってM1A1は7月いっぱいでの生産停止が言い渡されたが、初期のM3生産過程において問題が発生し、この問題が解決されるあいだ、M1A1の量産は継続された。最終的にM1A1の生産が停止したのは、1944年2月のことであった。

 トンプソンSMG全体の総生産数は、このとき175万丁に達していた。


トンプソンSMGの戦後

 1949年、AO社は余剰パーツやサンプルなどのトンプソンSMG関連の機材を、製造権もろとも玩具製造会社のキルゴア社に売却した。銃器製造の経験のないキルゴア社はこれらの「トンプソン・パッケージ」の国外への売却を目論んだがうまくいかず、結局1950年8月にパッケージをウィリアムス・シンジケート社に売却。そのウィリアムス・シンジケートも1951年10月に、銃器パーツを扱うナムリッチ・アームズ社にパッケージを転売してしまった。

 ナムリッチ・アームズは銃器に関してまんざら素人ではなく、これらの余剰パーツを組み合わせてトンプソンSMGを製造、販売する計画を立てた。実は、余剰パーツの中には1922年当時のプレミアもののレシーバーが含まれており、ナムリッチ・アームズはこのレシーバーを使用して組み上げた100丁ほどのトンプソンSMGに同社の刻印を入れ、警察及び民間のコレクター向けに限定販売した。

 その後、ナムリッチ・アームズ社は「オート・オードナンス」ブランドで復刻版のトンプソンSMGの製造・販売を継続していたが、1986年5月、法改正によって民間人のフルオート火器の所持に厳しい制限が設けられた時点でフルオート構造である本銃の民間向けの製造は中止された。(2年前の1984年7月にマクドナルド店内で発生し死者22人を出した銃乱射事件により、民間フルオート火器への風当たりが強くなっていた)

1999年1月、ナムリッチ・アームズ社はトンプソンSMG製造に関する権利と機材をアメリカの銃器メーカー、カー・アームズ社に売却した。このとき「オート・オードナンス」のブランド名も引き継がれ、同社は現在セミオートオンリーのトンプソンSMGを製造・販売している。

 なお、第二次大戦中に世界各地にばらまかれたトンプソンSMGの少なからぬ数はその後も各国の紛争で使用されたと見られる。1991年の湾岸戦争当時、イラク軍内で現役で使用されていたと思しきM1928SMGが米軍に鹵獲されている。

 また、自衛隊の前身である警察予備隊の創設時にアメリカ軍から貸与され、自衛隊となった現在においても11.4mm短機関銃 M1の名で使用されている。

 貸与品であるため、退役となった場合は損耗等で廃棄されなかったものは本来は米軍へ返却しなければならないのだが、米軍からの引取り要請がなされないために現在も予備装備として現役を勤めている。

 なお、予備装備となっているのは陸上自衛隊及び航空自衛隊で、海上自衛隊では9mm機関けん銃に置き換わりつつあるものの航空基地の警備隊にて現役を務めている。また、現役を退いている場合でも式典の際には儀仗用として使われる場合もある。


特徴

特徴

 第一世代のサブマシンガンらしく、レシーバーを鋼材ブロックから削り出して製作するなど、製造工程は手間がかかっている。とはいえ、生産性向上のための努力がなされていないわけではなく、フライス盤などのありふれた金属加工機械があれば簡単に造れたため、工業水準が低かった戦前の中国でも、ある程度信頼性の高いコピー品を製造することができた。

 また、フル/セミオートの切り替えを行うセレクター・レバーとセイフティ・レバーが別々に設けられている、フルオート火器にはふさわしくない曲銃床(反動が大きくなり、銃の制御が困難になる)を採用するなど、決して操作性に優れた銃ではなかった。ただし、同時期に開発されたサブマシンガンの大半が同じ欠点を抱えており、決してトンプソンSMGのみの問題ではない。

ブリッシュ・ロック方式(M1921〜M1928A1)

 ブリッシュ方式は初期のトンプソンSMGに見られる特徴的な閉鎖方式である。

 その理論的根拠になったのは、米海軍士官であったジョン・ブリッシュが確立した「ブリッシュ理論」である。戦艦の主砲などの大口径砲の発射プロセスにおいて、腔圧が高い強装弾を発射するときにはネジ式尾栓がゆるまないのに対し、腔圧の低い訓練用の弾を撃つと尾栓がゆるみ、兵員が負傷する事故が発生することに注目したブリッシュは、数学的解析を用いてその原因を追究し、組成の異なる金属の間では、一定の角度・圧力下において急激に摩擦係数が上昇するという、一種の粘着現象が発生するという独自の理論を提唱した。彼はこの理論が銃の閉鎖システムに利用できるのではないかと考え、海軍退役後にパテントを取得したのである。

 このシステムの要になるのは、ボルトに組み込まれたブロンズ製の「ブリッシュ・ロック」である。これと「アクチュエーター」(実質的にはコッキングハンドル)とが相互に干渉するようにボルトに組み込まれている。

 ブリッシュ方式の作動シークエンスは以下の通りである。

  1. トリガーを引くと、ボルトは前進し、マガジン上端の実包を薬室に押し込みつつさらに前進する。
  2. ボルトが閉じ、ブリッシュ・ロックがレシーバーに刻まれた「リセス」という切り欠きに収まると、同時に実包が撃発する。
  3. 発射ガスの圧力でボルトは後退しようとするが、ブリッシュ・ロックに設けられた「ラグ」という突起がリセスと干渉し、その動きを妨げる。ボルトが後退するには、ブリッシュ・ロックが斜め上6mmほどスライドし、ラグがリセスから外れる必要がある。
  4. この時、ボルトとブリッシュ・ロックとがガス圧によって密着し、一時的にボルトは完全に閉鎖される。十分にガス圧が下がれば密着状態は解除され、ブリッシュ・ロックは上方にスライドしてボルトは後退できるようになる。

 しかしながら、この閉鎖方式には当初から疑問の声が多く、後に生産性を高めるために改良されたM1/M1A1ではこの機構はオミットされ、オープンボルト式SMGの定番であるボルト質量によるシンプル・ブローバック方式に改められた。

 

カッツ・コンペンセイター(M1921/M1927/M1928/M1928A1)

 カッツ・コンペンセイターはリチャード・カッツによって考案されたマズル・デバイスであり、余分な発射ガスを逃がすことでマズル・ジャンプと反動を低減するように設計されていた。カッツ・コンペンセイターは1926年からM1921にオプション装備されるようになり、その外見から高い人気を博した。後に開発されたM1927〜M1928A1のモデルでは、これを装備していない製品を見つけるほうが難しい。


リア・サイト

 M1921〜M1928A1(途中まで)には、ライマン社製の精密なリア・サイトが装備された。これはウィンデージ(左右)調節機能と600ヤード(548m)までのエレベーション(上下)調節機能が盛り込まれたフル・アジャスタブル・サイトであり、単体での性能は優れたものだったが、精密射撃など望むべくもないオープンボルト式SMGのリア・サイトとしては不適格であった。また、このサイトは非常に高価でもあり、AOから生産委託を受けていたサベージ社で1941年に製造されたM1928では、リア・サイトのみで銃全体の製造コストの10分の1を占めていた。

 これが、生産性向上のために各部の簡略化が行われたM1928A1(後期生産分)/M1/M1A1となると、L字型に曲げられた鉄板を加工した簡素なものに変更され、M1A1からはこれを保護するために三角形のガードが設けられた。

 なお、余談ながら、最初期のプロトタイプである「パスウェイダー」には、恐ろしく小型のリア・サイトしか装備されておらず、また「アナイアレイター」の初期モデルにはリア・サイトが存在しないものもある。


マガジン

 M1921/M1928では、20連ボックスマガジンと「Lドラム」と呼ばれる50連ドラムマガジン、「Cドラム」と呼ばれる100連ドラムマガジンが製造・供給された。しかしながら、ドラムマガジンは圧倒的な装弾数を誇るものの、耐久性に乏しく、1941年12月にアメリカ軍事委員会による比較審査によってお役御免となった。このとき選定されたのが新規設計された30連ボックスマガジンであり、M1928A1/M1/M1A1で使用された。

 しかし、自前購入でドラムマガジンを調達し前線で使用していた者もいるらしく、太平洋戦線の記録写真ではドラムマガジン付きのトンプソンを持った兵士が写っていたりする。またボックスマガジンは20連のものより装弾数の多い30連のものが好んで使用されていた模様(一例として、戦争映画に出てくるトンプソンには30発マガジンが装着されていることが多い)。

委員会により否定されたにも拘らず前線において自腹を切ってでもドラムマガジンを採用している兵が少なくなかったのは、最前線において重量を犠牲にしてでも瞬間火力を重視する局面がそれだけ多かったものと思われる。


基本データ

基本データ

全長851mm
銃身長267mm
重量4800g
口径45ACP
装弾数20/30発(箱型)50/100発(ドラムマガジン)

バリエーション

バリエーション

  • M1918
    • 最初の試作品(?)。1918年、トンプソン大佐が始めに開発した。.45ACP弾を使う機関銃として開発された。まだマガジン式の小型機関銃と言うわけではなく、ベルト式を採用している。
  • M1919
    • 通称「アナイアレイター(殲滅者)」。1919年、来るべき量産体制を確立するために生産された試作モデル。まだショルダー・ストックはなく、初期のモデルではリア・サイトもないものがあった。
  • M1921
    • 初の量産モデル。AO社が自社に量産設備を持たなかったため、コルト社が製造を担当した。その為、本体にコルトの刻印がある。富裕層向けの高級玩具としての色彩が強い製品であり、木部は美しく仕上げられ、各部品は高精度な切削加工で製造されていた。
    • この型式のみ発射速度が800発/分である。
    • 参照画像
  • M1923
    • 米軍の制式採用を目指し開発されたモデル。軍部の意向を反映し、45ACPより強力な「45レミントン―トンプソン・カートリッジ」を使用するように改造され、また16インチ・バレルが装備された他、着剣装置やパイポッドを備えた試作品も制作された。また、この型式には後のM1928A1より継承される水平フォアグリップが取り付けられた。
    • 強装弾の使用で大きくなった反動を抑えるため、発射速度は400発/分に落とされた。しかし、強装弾の精度が.45ACP弾より悪いことが判明、更に軍部でも既にBARが採用されていた事などもあって不採用となり市販もされずに終わった。
    • 参照画像
  • M1927
    • 警察や刑務所での警備用途向けに開発されたモデル。セミオートオンリー。M1921を改造して製造されたため、M1921の刻印である“Thompson Submachine Gun”を一部削り取り、“Thompson Semi-Automatic Carbine”と打刻し直されている。
    • 尚、当モデルは戦後になってからオープンボルト方式をクローズドボルト方式にするなどの改良を加え、M1927A1の名で現在も生産が継続されている。
    • 参照画像(M1927A1)
  • M1928
    • トンプソンSMGの代名詞的モデル。外見はM1921と何ら変わるところはないが、発射速度が700発/分に落としてある(以降のモデルの発射速度は全て700発/分)。まずは500挺が生産され、米海軍・海兵隊に採用された。更に第二次世界大戦が勃発するとイギリス軍、フランス軍、スウェーデン軍に採用された。これにより悪化していたAO社の経営が一気に好転した。また、この頃に有名な「トミーガン」の愛称がつき、以降の代名詞となる。
    • 参照画像
  • M1928A1
    • M1928同様トンプソンの代表的なモデル。1941年の武器貸与法(レンド・リース法)制定に伴う生産量の増大に対処するため、AO社と生産委託を受けていたサベージ社によって生産されたモデル。フォアグリップがM1923と同様の物が取り付けられ、軍用のトンプソンの形を決定づけたものである。
    • 製造途中より本体の簡略化が行われ、まず銃身の放熱フィンが廃止された。その後、リアサイトが鉄板をL字に曲げた簡易式のものとなった。
    • 参照画像 ※上が初期のM1928A1。下が簡略化された物。
  • M1/M1A1
    • トンプソンSMGの最終生産型。生産性向上のため、徹底した簡略化を受けている。主なものとして以下の特長がある。
      • シンプル・ブローバック方式への変更。
      • ボルトハンドルの位置を上面から右側面に移動。
      • ドラムマガジン用スリットの廃止。
      • ストックのネジ固定。
      • カッツコンペンセイターの廃止。
    • M1A1では更に以下の改良が加えられた。
      • ボルトの撃針を内蔵式から固定式へ変更。
      • 三角形のリアサイト保護板を追加。
      • ストックの破損を防ぐため基部にクロスボルトを追加。
      • 削り出しで制作していたセレクターとセイフティを筒の側面にピンを打ち込んだ単純な物に変更。
    • 参照画像(M1)
    • 参照画像(M1A1)

メディアでの活躍

メディアでの活躍

 1920年代のマフィア絡みの抗争事件で多く用いられたことから、マフィアを扱った映画ではよく登場し、マフィア側、警察側双方において縦横無尽に活躍している。また、第二次世界大戦を主題とした戦争映画にも多数出演している。

また日本においても、アレンジを加えながら東宝東映日活等で模造的な劇用銃が作られ邦画やTVのアクションものにも出演した。


恐らく、世界で一番映画に多く出演したサブマシンガンであろう。


エイリアン2に登場するM-41Aの中身にもなっている。

また部隊視察の折に撮影されたドラムマガジン付トミーガンを手にするウィンストン・チャーチル英首相の写真は有名。

関連イラスト

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関連タグ

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サブマシンガン アメリカ軍 マフィア

トンプソン(ドールズフロントライン)

歴史

歴史

開発経緯

 1916年7月、アメリカ陸軍造兵士官だったJ.T.トンプソンは、ニューヨークに自身の会社「オート・オードナンス・コーポレーション」(以下AO)を立ち上げ、長年の理想であった「携行性に優れた自動装填式歩兵火器」の開発に着手した。米西戦争に兵站担当士官として従軍したトンプソンは、それまでの戦争とは比べものにならない弾薬消費量を目の当たりにし、近代戦において戦闘の帰趨を決するのはただ火力のみであるという確信を得ていたのである。

 これまでにない軽量・小型の自動ライフルにふさわしい作動方式を検討していたトンプソンは、アメリカ海軍軍人であったジョン・ブリッシュが登録したパテントに注目した。それは、レシーバーとボルトのあいだに「ウェッジ(くさび)」と呼ばれる可動式のパーツを組み込み、弾薬が撃発した際のガス圧を利用してボルトとウェッジを密着させ、ボルトを閉鎖するというものであった。この方式を採用すれば、従来のものより軽量・小型の自動火器を開発することが可能となる。ただちにトンプソンはブリッシュと連絡を取り、このパテントを取得。ブリッシュ方式を利用した自動ライフルの開発に着手することになった。その頃はまさに第一次世界大戦の真っ只中であり、このプロジェクトが成功すればAOは大きなビジネスチャンスをつかめるはずであった。

 しかし、トンプソンらの思惑に反し、新型自動ライフルの開発は遅々として進まなかった。ブリッシュ方式を採用した試作銃は、薬莢の焼きつきなどの排莢にまつわるトラブルに次々見舞われたのである。AO技術陣は問題改善のために手を尽くしたが、事実上プロジェクトは暗礁に乗り上げてしまった。そんな中、1917年4月にアメリカ政府がヨーロッパへの派兵を決定。トンプソンは准将階級で軍務に復帰、造兵部門で辣腕をふるうことになった。

 同じ頃、AO技術陣は排莢関連のトラブルの原因が、薬莢の縦横比と関係していることを突き止めていた。具体的には、薬莢の長さに対し、薬莢底部の直径が大きいものほど、スムーズに排莢がなされることが判明したのだ。それまで試作銃で使用されていた米軍制式の.30-06弾はこの点で不適格であり、米軍制式弾薬で最も条件に合致しているのは、M1911拳銃に採用されていた.45ACP弾であった。この時点で自動ライフルの開発計画は頓挫してしまったのだが、この報告はトンプソンに新しい閃きを与えることにもなった。

 直ちにトンプソンはAO技術陣に新型自動火器の開発を命じた。それは、「小型軽量で50〜100発程度の装弾数を持ち、匍匐前進にも支障がなく、時には1個中隊の敵をも排除できるような、塹壕戦に適した小型マシンガン」であり、「兵士が1人で携行し、かつ射撃できるもの」でなくてはならなかった。直ちにAO技術陣は試作銃の開発に着手、間もなく「パスウェイダー(強制者)」なる名称のプロトタイプを完成させた。しかし、この銃は給弾方式として、ベルト給弾方式を採用したために構造が複雑化し、作動が不安定でしょっちゅうマルファンクション(作動不良)を起こす失敗作であった。こんなものでトンプソンが満足するはずもなく、AO技術陣はパスウェイダーの改良に着手した。そして1919年、給弾方式をボックスマガジン式に改め、デザインを大きくリファインしたモデルが完成、「アナイアレイター(殲滅者)」と名づけられて複数の個体が試作された。これらのモデルを検討した結果、最終的な改良を加えられて開発されたのが、最初の量産型トンプソン・サブマシンガン(以下トンプソンSMG)、M1921であった。このとき、本銃をどのように呼称するかが社内で議論され、全く新しいカテゴリーに属するこの銃を表現するために造られた単語が「サブマシンガン」であった。つまり、AO社は「サブマシンガン」という言葉の産みの親でもあったことになる。


2つの戦争の狭間で

 こうして量産が開始されたトンプソンSMGであったが、前途は多難であった。そう、大きなビジネスチャンスを掴むはずであった第一次世界大戦が生産前年の1918年に終結し、講和に至ってしまったのである。

大戦終結後の軍縮ムードの中にあって、米軍の予算は縮小傾向にあり、いうなれば「海のものとも山のものともつかぬ」怪しげな武器を大金を投じて配備するような決定を、当時の米軍が行うはずもなかった。

 それでも、元は軍人であったトンプソンのコネによって、何度か採用テストが行われはしたものの、その評価は散々であった。まだ「サブマシンガン」という武器の運用方法が完全に確立されていた時代ではなく、また近代戦の本質を正しく理解できている人間は軍の中にも少なかった。そのため、トンプソンSMGの高い近接戦闘能力はほとんど省みられず、長距離射撃能力の貧弱さばかりが取り沙汰されたのである。唯一、好意的に評価してくれた海兵隊ですら、わずか700丁しか配備してくれなかった。

 このことはAO経営陣に大きなショックを与え、AOは1923年、45ACPをベースに薬莢長を伸ばし、装薬量を増やした「45レミントン‐トンプソン」カートリッジを使用するM1923を試作、当時米軍に採用されていたBARに近いパフォーマンスを引き出そうとしたが、結局失敗した。また、民間・警察向けの市場でもトンプソンSMGのセールスは振るわなかった。理由は様々だが、最も大きな要因はその高価格であった。当時最も安い自動車が400ドルだったのに対し、トンプソンSMGの定価は175〜225ドルであり、とても一般市民の手の届く代物ではなかったのである。

 しかし、そんなトンプソンSMGの性能に目をつけた人々がいた。この時期に米国内で施行されていた禁酒法により、裏社会で勢力を伸ばしつつあったマフィアである。彼らは酒の密売で得た潤沢な資金を使ってトンプソンSMGを大量に購入し、抗争のための武器として使用した。また、ジョン・デリンジャーや「マシンガン・ケリー」といった、当時の有名なギャングスターも本銃の愛用者であり、トンプソンSMGによって殺害された犠牲者は数え切れないほどになった。また、こうしたギャングたちの様子を描いたハリウッド映画でもトンプソンSMGは印象的な使われ方をされ、多くの人々に「マフィア・ギャング=トンプソンSMG」という図式を植えつけてしまい、このせいで、トンプソンSMGの社会的イメージは大きく下落した。(現代でいう所のAK-47テロリストのそれに近い)

 しかし、それでも公的機関でトンプソンSMGの優れた性能に気づいたところがなかったわけではなく、米海兵隊は1926年の上海派兵や1927年のニカラグア派兵において本銃を多用、その近接戦闘能力を高く評価しているし、重武装したマフィアへの対策に苦慮していたFBIの捜査官は、自治体警察から本銃を借りてまで火力の増強に務めた。しかし、それでも販売数は伸び悩み、AO社の業績は低迷していった。


第二次世界大戦――トンプソンSMGの復権

 1930年代後半、AO社の経営はいよいよジリ貧となっていた。負債は200万ドル(現在の30億円相当)まで膨らみ、それを返済できるあてなどなかった。

 そこに突然、「貴社を買い取りたい」と申し出てきた人物がいた。実業家のラッセル・マグワイアである。彼にはある目算があった。急速に悪化する国際情勢から、近いうちに銃器製造業が再びドル箱産業になることを見抜いていたのである。マグワイアは持ち前の弁舌を活かしてあっという間にAO社の負債をほとんど帳消しにしてしまい、同社の株を51%取得して経営権を獲得。1939年にはAOの経営者の地位に収まった。

 同年9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻。イギリス・フランスはドイツに対して宣戦布告し、ここに第二次世界大戦は幕を開けた。同時に、ヨーロッパ各国から軍需物資の受注がアメリカに殺到。見事に予想を的中させたマグワイアは在庫のトンプソンSMGを英仏両軍に売りまくって大儲けした。さらにドイツの猛威に恐れをなした周辺諸国が軍備増強に乗り出すと、あれよあれよという間に在庫は飛ぶように売れ、マグワイアはそれによって得た利益をさらなるトンプソンSMGの量産のために投資した。そして1941年、日本の真珠湾攻撃によってアメリカ軍が第二次大戦への参戦を決定すると、それまでトンプソンSMGを冷遇していたアメリカ軍は一転、一丁でも多くのトンプソンSMGを求めるようになる。留まることを知らない需要に応えるべく、量産性の向上を図った改良が数次にわたって次々と行われた。

 しかし、もともと古い設計思想に基づいて開発されたトンプソンSMGを量産しやすいよう改良するには限界があった。1943年1月、軍造兵局はM1A1の後継機種として、より生産性の高いGM M3サブマシンガンの採用を決定し、30万丁を生産・配備する計画を立てた。この決定に基づき、同年5月からのM3量産に伴ってM1A1は7月いっぱいでの生産停止が言い渡されたが、初期のM3生産過程において問題が発生し、この問題が解決されるあいだ、M1A1の量産は継続された。最終的にM1A1の生産が停止したのは、1944年2月のことであった。

 トンプソンSMG全体の総生産数は、このとき175万丁に達していた。


トンプソンSMGの戦後

 1949年、AO社は余剰パーツやサンプルなどのトンプソンSMG関連の機材を、製造権もろとも玩具製造会社のキルゴア社に売却した。銃器製造の経験のないキルゴア社はこれらの「トンプソン・パッケージ」の国外への売却を目論んだがうまくいかず、結局1950年8月にパッケージをウィリアムス・シンジケート社に売却。そのウィリアムス・シンジケートも1951年10月に、銃器パーツを扱うナムリッチ・アームズ社にパッケージを転売してしまった。

 ナムリッチ・アームズは銃器に関してまんざら素人ではなく、これらの余剰パーツを組み合わせてトンプソンSMGを製造、販売する計画を立てた。実は、余剰パーツの中には1922年当時のプレミアもののレシーバーが含まれており、ナムリッチ・アームズはこのレシーバーを使用して組み上げた100丁ほどのトンプソンSMGに同社の刻印を入れ、警察及び民間のコレクター向けに限定販売した。

 その後、ナムリッチ・アームズ社は「オート・オードナンス」ブランドで復刻版のトンプソンSMGの製造・販売を継続していたが、1986年5月、法改正によって民間人のフルオート火器の所持に厳しい制限が設けられた時点でフルオート構造である本銃の民間向けの製造は中止された。(2年前の1984年7月にマクドナルド店内で発生し死者22人を出した銃乱射事件により、民間フルオート火器への風当たりが強くなっていた)

1999年1月、ナムリッチ・アームズ社はトンプソンSMG製造に関する権利と機材をアメリカの銃器メーカー、カー・アームズ社に売却した。このとき「オート・オードナンス」のブランド名も引き継がれ、同社は現在セミオートオンリーのトンプソンSMGを製造・販売している。

 なお、第二次大戦中に世界各地にばらまかれたトンプソンSMGの少なからぬ数はその後も各国の紛争で使用されたと見られる。1991年の湾岸戦争当時、イラク軍内で現役で使用されていたと思しきM1928SMGが米軍に鹵獲されている。

 また、自衛隊の前身である警察予備隊の創設時にアメリカ軍から貸与され、自衛隊となった現在においても11.4mm短機関銃 M1の名で使用されている。

 貸与品であるため、退役となった場合は損耗等で廃棄されなかったものは本来は米軍へ返却しなければならないのだが、米軍からの引取り要請がなされないために現在も予備装備として現役を勤めている。

 なお、予備装備となっているのは陸上自衛隊及び航空自衛隊で、海上自衛隊では9mm機関けん銃に置き換わりつつあるものの航空基地の警備隊にて現役を務めている。また、現役を退いている場合でも式典の際には儀仗用として使われる場合もある。


特徴

特徴

 第一世代のサブマシンガンらしく、レシーバーを鋼材ブロックから削り出して製作するなど、製造工程は手間がかかっている。とはいえ、生産性向上のための努力がなされていないわけではなく、フライス盤などのありふれた金属加工機械があれば簡単に造れたため、工業水準が低かった戦前の中国でも、ある程度信頼性の高いコピー品を製造することができた。

 また、フル/セミオートの切り替えを行うセレクター・レバーとセイフティ・レバーが別々に設けられている、フルオート火器にはふさわしくない曲銃床(反動が大きくなり、銃の制御が困難になる)を採用するなど、決して操作性に優れた銃ではなかった。ただし、同時期に開発されたサブマシンガンの大半が同じ欠点を抱えており、決してトンプソンSMGのみの問題ではない。

ブリッシュ・ロック方式(M1921〜M1928A1)

 ブリッシュ方式は初期のトンプソンSMGに見られる特徴的な閉鎖方式である。

 その理論的根拠になったのは、米海軍士官であったジョン・ブリッシュが確立した「ブリッシュ理論」である。戦艦の主砲などの大口径砲の発射プロセスにおいて、腔圧が高い強装弾を発射するときにはネジ式尾栓がゆるまないのに対し、腔圧の低い訓練用の弾を撃つと尾栓がゆるみ、兵員が負傷する事故が発生することに注目したブリッシュは、数学的解析を用いてその原因を追究し、組成の異なる金属の間では、一定の角度・圧力下において急激に摩擦係数が上昇するという、一種の粘着現象が発生するという独自の理論を提唱した。彼はこの理論が銃の閉鎖システムに利用できるのではないかと考え、海軍退役後にパテントを取得したのである。

 このシステムの要になるのは、ボルトに組み込まれたブロンズ製の「ブリッシュ・ロック」である。これと「アクチュエーター」(実質的にはコッキングハンドル)とが相互に干渉するようにボルトに組み込まれている。

 ブリッシュ方式の作動シークエンスは以下の通りである。

  1. トリガーを引くと、ボルトは前進し、マガジン上端の実包を薬室に押し込みつつさらに前進する。
  2. ボルトが閉じ、ブリッシュ・ロックがレシーバーに刻まれた「リセス」という切り欠きに収まると、同時に実包が撃発する。
  3. 発射ガスの圧力でボルトは後退しようとするが、ブリッシュ・ロックに設けられた「ラグ」という突起がリセスと干渉し、その動きを妨げる。ボルトが後退するには、ブリッシュ・ロックが斜め上6mmほどスライドし、ラグがリセスから外れる必要がある。
  4. この時、ボルトとブリッシュ・ロックとがガス圧によって密着し、一時的にボルトは完全に閉鎖される。十分にガス圧が下がれば密着状態は解除され、ブリッシュ・ロックは上方にスライドしてボルトは後退できるようになる。

 しかしながら、この閉鎖方式には当初から疑問の声が多く、後に生産性を高めるために改良されたM1/M1A1ではこの機構はオミットされ、オープンボルト式SMGの定番であるボルト質量によるシンプル・ブローバック方式に改められた。

 

カッツ・コンペンセイター(M1921/M1927/M1928/M1928A1)

 カッツ・コンペンセイターはリチャード・カッツによって考案されたマズル・デバイスであり、余分な発射ガスを逃がすことでマズル・ジャンプと反動を低減するように設計されていた。カッツ・コンペンセイターは1926年からM1921にオプション装備されるようになり、その外見から高い人気を博した。後に開発されたM1927〜M1928A1のモデルでは、これを装備していない製品を見つけるほうが難しい。


リア・サイト

 M1921〜M1928A1(途中まで)には、ライマン社製の精密なリア・サイトが装備された。これはウィンデージ(左右)調節機能と600ヤード(548m)までのエレベーション(上下)調節機能が盛り込まれたフル・アジャスタブル・サイトであり、単体での性能は優れたものだったが、精密射撃など望むべくもないオープンボルト式SMGのリア・サイトとしては不適格であった。また、このサイトは非常に高価でもあり、AOから生産委託を受けていたサベージ社で1941年に製造されたM1928では、リア・サイトのみで銃全体の製造コストの10分の1を占めていた。

 これが、生産性向上のために各部の簡略化が行われたM1928A1(後期生産分)/M1/M1A1となると、L字型に曲げられた鉄板を加工した簡素なものに変更され、M1A1からはこれを保護するために三角形のガードが設けられた。

 なお、余談ながら、最初期のプロトタイプである「パスウェイダー」には、恐ろしく小型のリア・サイトしか装備されておらず、また「アナイアレイター」の初期モデルにはリア・サイトが存在しないものもある。


マガジン

 M1921/M1928では、20連ボックスマガジンと「Lドラム」と呼ばれる50連ドラムマガジン、「Cドラム」と呼ばれる100連ドラムマガジンが製造・供給された。しかしながら、ドラムマガジンは圧倒的な装弾数を誇るものの、耐久性に乏しく、1941年12月にアメリカ軍事委員会による比較審査によってお役御免となった。このとき選定されたのが新規設計された30連ボックスマガジンであり、M1928A1/M1/M1A1で使用された。

 しかし、自前購入でドラムマガジンを調達し前線で使用していた者もいるらしく、太平洋戦線の記録写真ではドラムマガジン付きのトンプソンを持った兵士が写っていたりする。またボックスマガジンは20連のものより装弾数の多い30連のものが好んで使用されていた模様(一例として、戦争映画に出てくるトンプソンには30発マガジンが装着されていることが多い)。

委員会により否定されたにも拘らず前線において自腹を切ってでもドラムマガジンを採用している兵が少なくなかったのは、最前線において重量を犠牲にしてでも瞬間火力を重視する局面がそれだけ多かったものと思われる。


基本データ

基本データ

全長851mm
銃身長267mm
重量4800g
口径45ACP
装弾数20/30発(箱型)50/100発(ドラムマガジン)

バリエーション

バリエーション

  • M1918
    • 最初の試作品(?)。1918年、トンプソン大佐が始めに開発した。.45ACP弾を使う機関銃として開発された。まだマガジン式の小型機関銃と言うわけではなく、ベルト式を採用している。
  • M1919
    • 通称「アナイアレイター(殲滅者)」。1919年、来るべき量産体制を確立するために生産された試作モデル。まだショルダー・ストックはなく、初期のモデルではリア・サイトもないものがあった。
  • M1921
    • 初の量産モデル。AO社が自社に量産設備を持たなかったため、コルト社が製造を担当した。その為、本体にコルトの刻印がある。富裕層向けの高級玩具としての色彩が強い製品であり、木部は美しく仕上げられ、各部品は高精度な切削加工で製造されていた。
    • この型式のみ発射速度が800発/分である。
    • 参照画像
  • M1923
    • 米軍の制式採用を目指し開発されたモデル。軍部の意向を反映し、45ACPより強力な「45レミントン―トンプソン・カートリッジ」を使用するように改造され、また16インチ・バレルが装備された他、着剣装置やパイポッドを備えた試作品も制作された。また、この型式には後のM1928A1より継承される水平フォアグリップが取り付けられた。
    • 強装弾の使用で大きくなった反動を抑えるため、発射速度は400発/分に落とされた。しかし、強装弾の精度が.45ACP弾より悪いことが判明、更に軍部でも既にBARが採用されていた事などもあって不採用となり市販もされずに終わった。
    • 参照画像
  • M1927
    • 警察や刑務所での警備用途向けに開発されたモデル。セミオートオンリー。M1921を改造して製造されたため、M1921の刻印である“Thompson Submachine Gun”を一部削り取り、“Thompson Semi-Automatic Carbine”と打刻し直されている。
    • 尚、当モデルは戦後になってからオープンボルト方式をクローズドボルト方式にするなどの改良を加え、M1927A1の名で現在も生産が継続されている。
    • 参照画像(M1927A1)
  • M1928
    • トンプソンSMGの代名詞的モデル。外見はM1921と何ら変わるところはないが、発射速度が700発/分に落としてある(以降のモデルの発射速度は全て700発/分)。まずは500挺が生産され、米海軍・海兵隊に採用された。更に第二次世界大戦が勃発するとイギリス軍、フランス軍、スウェーデン軍に採用された。これにより悪化していたAO社の経営が一気に好転した。また、この頃に有名な「トミーガン」の愛称がつき、以降の代名詞となる。
    • 参照画像
  • M1928A1
    • M1928同様トンプソンの代表的なモデル。1941年の武器貸与法(レンド・リース法)制定に伴う生産量の増大に対処するため、AO社と生産委託を受けていたサベージ社によって生産されたモデル。フォアグリップがM1923と同様の物が取り付けられ、軍用のトンプソンの形を決定づけたものである。
    • 製造途中より本体の簡略化が行われ、まず銃身の放熱フィンが廃止された。その後、リアサイトが鉄板をL字に曲げた簡易式のものとなった。
    • 参照画像 ※上が初期のM1928A1。下が簡略化された物。
  • M1/M1A1
    • トンプソンSMGの最終生産型。生産性向上のため、徹底した簡略化を受けている。主なものとして以下の特長がある。
      • シンプル・ブローバック方式への変更。
      • ボルトハンドルの位置を上面から右側面に移動。
      • ドラムマガジン用スリットの廃止。
      • ストックのネジ固定。
      • カッツコンペンセイターの廃止。
    • M1A1では更に以下の改良が加えられた。
      • ボルトの撃針を内蔵式から固定式へ変更。
      • 三角形のリアサイト保護板を追加。
      • ストックの破損を防ぐため基部にクロスボルトを追加。
      • 削り出しで制作していたセレクターとセイフティを筒の側面にピンを打ち込んだ単純な物に変更。
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メディアでの活躍

メディアでの活躍

 1920年代のマフィア絡みの抗争事件で多く用いられたことから、マフィアを扱った映画ではよく登場し、マフィア側、警察側双方において縦横無尽に活躍している。また、第二次世界大戦を主題とした戦争映画にも多数出演している。

また日本においても、アレンジを加えながら東宝東映日活等で模造的な劇用銃が作られ邦画やTVのアクションものにも出演した。


恐らく、世界で一番映画に多く出演したサブマシンガンであろう。


エイリアン2に登場するM-41Aの中身にもなっている。

また部隊視察の折に撮影されたドラムマガジン付トミーガンを手にするウィンストン・チャーチル英首相の写真は有名。

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