概要
サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(英語:Sir Winston Leonard Spencer Churchill、1874年11月30日 - 1965年1月24日)は、イギリスの政治家。同国第61・63代首相。海軍大臣・大蔵大臣・内務大臣・庶民院議員などを歴任した。Vサイン(ピースサイン)を始めた人物とも言われる。
来歴
1874年11月30日にイングランドのオックスフォードシャーのブレナム宮殿で誕生した。1894年12月にサンドハースト王立陸軍士官学校を卒業後に軽騎兵連隊に入隊したが、騎兵には中々出撃の機会が無く、休暇を取って世界各地の戦争を観戦するなどした。1899年6月に庶民院議員に立候補するが落選した。第2次ボーア戦争にジャーナリストとして赴き、捕虜になったが脱走して有名人となる。1900年10月に実施された総選挙で政界入りし、保守党の庶民院議員として植民地の経営・労働問題に対処した。
1914年8月にヴィッカース社がオスマン帝国の注文を受けて建造した戦艦の「レシャド5世」の接収を命令し、オスマン帝国の反感を買う。ゲーベン追跡戦を指示するが、逃走を許してオスマン帝国がドイツ側で参戦することになって非難される。
1915年2月に近代初の大規模な上陸戦であるガリポリの戦いを主導したものの、オスマン軍に大敗して従軍していた学者のヘンリー・モーズリーを失っている。この戦いは「計画から実行までの全てがお粗末に過ぎた。」とされて海軍大臣を罷免された。当人も回顧録で自身の失策を認め、後の世界情勢に与えた影響を含め悔やんでいる。
ロイド・ジョージ首相が名誉回復を図ってくれた為、1917年7月に軍需大臣を務め、世界初の戦車であるマーク1の生産を推奨した。
1919年1月に戦争大臣に就任し、ロシア革命に対しては反ボリシェヴィキのスタンスで干渉戦争を進めたが、1921年3月にロイド・ジョージ首相がソ連と通商協定を締結したので挫折した。一方でインドの独立運動・ナチス・ドイツへの宥和政策には反対した。
1939年9月にチェンバレン首相のドイツ宥和政策が失敗に終わり、第2次世界大戦が始まると海軍大臣に任命された。ノルウェーの戦いでドイツに敗北するが、批判の矛先はチェンバレン首相に向き、労働党との大連立による挙国一致内閣で首相に就任する。
フランスではドイツ軍の西方電撃戦に苦杯をなめて大陸から叩き出されてしまったものの、1940年7月からのバトル・オブ・ブリテンではイギリス本土をドイツ空軍の攻撃から守り抜き、ラジオ放送や国会演説などで軍民を奮い立たせた。
1941年12月8日に大日本帝国が枢軸国側で参戦すると、東南アジアの植民地を占領されるなど再び苦境に陥るが、アメリカが連合国側で参戦して日本を破り、ソ連がドイツ陸軍の主力を殲滅した。
1945年2月に開催されたヤルタ会談ではソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンと対立し、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの楽観に頭を痛めた。イギリス国民はチャーチルの下で一致団結してドイツとの戦いに耐え抜いたが、同年5月にドイツが降伏すると、同年7月のポツダム会談の真っ最中に実施された総選挙で保守党が惨敗し、退陣を余儀無くされてポツダム協定に署名出来なかった。
イギリスは勝利したとは言え国民生活の疲弊が著しく、戦後も数年間配給制度を継続せざるを得なかったほどであった。
戦後も保守党党首に留まり、1946年3月にアメリカを訪問中に「鉄のカーテン」演説を行って反共的姿勢を示した。1948年6月から1年ごとに1巻ずつ「第二次世界大戦回顧録」を出版し(全6巻)、ベストセラーとなる。
1951年10月に実施された総選挙で保守党が辛勝し、チャーチルは首相に返り咲いた。帝国主義者として大英帝国を保持しようと努めたが、植民地におけるイギリスの権威は完全に失墜していた。疲弊したイギリスに帝国を維持する力は無く、その後10年程度の間に多くの植民地が独立し、親ソ連国の拡大が相次いだ。
1953年12月に「第二次世界大戦回顧録」などでノーベル文学賞を受賞した。高齢のチャーチルは精彩を欠いている上に老人ボケが始まっていた為、ハロルド・マクミランが引退を勧告し、チャーチルもこれに従って1955年4月に首相を辞した。
退任後も庶民院議員を務めたが、1965年1月8日に脳卒中で半身不随となり、1月24日に90歳で死去した。
人物
- 身分上は平民だったが、父のランドルフ卿はマールバラ公爵の三男であり、マールバラ公の城であるブレナム宮殿で誕生した。
- ダイアナ妃、フランクリン・ルーズベルト、ダグラス・マッカーサーなどとは縁戚にある。
- 勉強は苦手だった。パブリック・スクールの入試は白紙答案を提出するなど散々だったが、親が元大蔵大臣なのに配慮して合格させてもらえた。サンドハースト王立陸軍士官学校への進学を目指す「軍人コース」に進んだが、3度目の受験でようやく合格できた。陸軍士官学校での成績も最低で、卒業後は不人気な騎兵科の士官候補生にしかなれなかった。
- 若い頃から鬱病に悩まされていた。
- イギリスと日本は敵国になったが、チャーチルは日英同盟を成立させた当事者の1人であり、一定の評価を持ち続けた。韓国併合・満州事変などもアジアの安定に重要だと見ていた。
- 1953年3月に執行されたエリザベス2世の戴冠式に、昭和天皇の名代として当時皇太子だった明仁がイギリスを訪問した。この際に当時は未だ反日感情が根強い中で皇太子を賓客として鄭重にもてなした。
- 日本軍を侮ったことにより、大西洋憲章の調印の場となり、チャーチルのお気に入りだった戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」が撃沈されたことを「第二次世界大戦の中で最も衝撃的な事実」と語録に記していた。
- 1895年2月のキューバ独立戦争に従軍したのを契機に葉巻・1899年10月の第2次ボーア戦争に従軍したのを契機にウイスキーを愛好するようになった。
- 首相在任中は毎晩深夜1時頃まで宴会をした後で仕事を始めるのが日課で、夜型人間だった。
- キューバに行って以来昼寝が日課となり、議事堂内に専用ベッドを作った。
- 鼻歌が好きだったが、口笛が嫌いで他人の口笛も止めるほど。
- インド人を差別しており、「なぜガンジーはまだ死亡していないのか」と述べ、1943年5月にベンガルで300万人もの犠牲者を出す大飢饉が発生した時も、ろくに対処しなかった。オーストラリアやアメリカ合衆国からの援助の申し出も無視している。アメリカは「穀物を運ぶ輸送船も提供する」とまで言っているが、これも無視している。数々のインド蔑視に対し、第二次大戦当時のインド担当大臣レオ・アメリーから「貴方とヒトラーの考え方に大きな違いがあるとは思えない」と直言された。
語録
- 「悲観主義者はすべての好機の中に困難を見つけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす」
- 「成功とは、意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである」
- 「成功は決定的ではなく、失敗は致命的ではない。大切なのは勇気を持ち続けることだ」
- 「過去を遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう」
- 「絶対に屈服してはならない。絶対に、絶対に、絶対に、絶対に」
- 「我々は、たとえその社会的地位がどんなに低くとも、後世に何らかの影響を与えることを考慮して生きなければならない」
- 「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパを横切る鉄のカーテンが降ろされている」
- 「実際のところ、民主制は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが」
- 「戦争から煌きと魔術的な美がついに奪い取られてしまった。アレキサンダーやシーザーやナポレオンが兵士達と共に危険を分かち合い、馬で戦場を駆け巡り、帝国の運命を決する。そんなことは、もうなくなった。これからの英雄は、安全で静かで、物憂い事務室にいて、書記官達に取り囲まれて座る。一方何千という兵士達が、電話一本で機械の力によって殺され、息の根を止められる。これから先に起こる戦争は、女性や子供や一般市民全体を殺すことになるだろう。やがてそれぞれの国には、大規模で、限界のない、一度発動されたら制御不可能となるような破壊の為のシステムを生み出すことになる。人類は初めて自分達を絶滅させることのできる道具を手に入れた。これこそが、人類の栄光と苦労の全てが最後の到達した運命である」(自著『世界の危機』の第一次大戦についての記述)
- 「何もかもウンザリしちゃったよ」(臨終の際の最期の言葉とされるが、実際には最期の言葉はなかった。)
- 「ダービー馬のオーナーになることは一国の宰相になることより難しい」(実際には言っておらず、これも後世の創作である。だが、実際に宰相どころか君主が一生をかけてもダービー馬のオーナーとなることが出来なかったこともあり、ダービーに勝つことの難しさとその名誉を物語る言葉として知られている。)
関連タグ
アーレイ・バーク級:アメリカ合衆国のミサイル駆逐艦(イージス艦)。31番艦『ウィンストン・S・チャーチル』(DDG-81)の名は彼にちなんだもので、国民以外の名が命名された唯一の現役アメリカ軍艦艇。