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ゲーベン追跡戦

げーべんついせきせん

第一次世界大戦勃発時に地中海にいてドイツへ帰れなくなった巡洋戦艦「ゲーベン」と小型巡洋艦「ブレスラウ」がトルコを目指して逃げ、イギリス海軍が追跡した。
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概要編集

第一次世界大戦勃発時に発生した軍事行動。

地中海にいてドイツへ帰れなくなったドイツ海軍の「ゲーベン」と「ブレスラウ」がオスマン帝国(※現在のトルコ)を目指して逃げ、イギリス海軍が追跡した。


20世紀初頭、帝国主義の影響を受けてドイツ帝国は大型艦艇を多数整備し、世界各国にこれらを派遣し軍事的なプレゼンスを誇示しようとした。世にいうモロッコ事件(1905~1912年)もこの延長線上で発生している。

しかし、ドイツ帝国は地中海方面に自国の領土・植民地を所持していなかったので、こちらでは同盟国であったオーストリア=ハンガリー帝国の港湾を拠点にして活動していた。

これをドイツ地中海艦隊と言い、この艦隊が本件の主役である。


ドイツ地中海艦隊編集

ドイツ帝国は、当時「ヨーロッパの火薬庫」と言われるなど不安定化していたバルカン半島に対して地中海に1個艦隊の戦力を派遣していた。


艦隊戦力(1912年)

巡洋戦艦:「ゲーベン」

小型巡洋艦:「ブレスラウ」「シュトラースブルク」「ドレスデン」


ドイツ帝国は、ベルリン→ビザンティウム(コンスタンティノープル)→バグダッド間を自国資本の鉄道で結ぶ3B政策を推進して中東方面への進出を図っており、その中間経由地であるバルカン半島の治安状況にはことさら敏感になっていた。

これに対応するためにギリシャ王国とアルバニア王国の建国の際にはドイツ貴族を国王として送り込むなど外交努力が払われていたが、ギリシャではクーデターでドイツ人国王が追放されるなど上手くいっておらず、直接的な軍事力をチラつかせることになった。


1913年、第二次バルカン戦争が終結し当面の危険は去ったと判断され、「シュトラースブルク」と「ドレスデン」の2隻は帰国したが、外交カードとして「ゲーベン」と「ブレスラウ」がバルカン半島方面の監視のために残った。

ドイツ艦隊は英仏と敵対せず、同盟国であるオーストリアとイタリアの支援が十分に受けられることを前提に地中海に留まっていたが、この2つともが崩壊し四面楚歌の状態に追い込まれることになる。


経過編集

1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発。ポーラ港(※現在のクロアチア領)にいたモルトケ級巡洋戦艦ゲーベン」は、オーハンの領海であるアドリア海に閉じ込められるおそれが出たため、ボイラー修理を中断し出港。タラントマクデブルク級小型巡洋艦ブレスラウ」と合流した。「ゲーベン」艦長のヴィルヘルム・スション少将はフランス植民地のアルジェリアを攻撃することを念頭に西へ向かった。


8月1日、イギリス海相ウィンストン・チャーチルはイギリス地中海艦隊司令官アーチボルド・バークレー・ミルン中将に「ゲーベン」を捜索させるよう指示した。


8月4日、ドイツ海軍大臣アルフレート・ペーター・フリードリヒ・フォン・ティルピッツから「コンスタンティノープルイスタンブール)へ向かえ」と命令があり、ドイツ艦隊は東へ引き返す。イギリス艦隊が「ゲーベン」と接触し追跡したがシチリア島沖で見失う。


ドイツ艦隊はメッシーナ港に入港したが、イタリアからは24時間以内の出港を要求された。

ティルピッツからは「オスマン帝国はまだ中立なので、やはりコンスタンティノープルに行くのはやめろ」という指示が来た。

進退窮まったスション少将は、コンスタンティノープルへ向かう事に決めた。

地中海は西側の出口であるジブラルタル海峡も東側のスエズ運河もイギリスが抑えていたので、そこしか逃げ道がなかったのである。


8月6日、メッシーナ海峡南側出口でイギリス海軍防護巡洋艦グロスター」がドイツ艦隊を発見し、追跡を開始する。アーネスト・トラウブリッジ少将の戦隊が阻止に向かったが、チャーチルの「優勢な敵との交戦を避けろ」という指示により退却した。

「グロスター」にも交戦しないよう命令が下ったが、「ブレスラウ」が攻撃してきたので戦火が開かれ、ドイツ艦隊は東へ向けて逃走した。


8月8日、イギリス海軍省から「イギリスはオーストリアと開戦した」という間違った情報がきたため、ミルン中将は「ゲーベン」捜索をやめ、オーストリア=ハンガリー帝国海軍との戦闘に備えてアドリア海の警備を強化した。


8月9日、イギリス海軍省から「ゲーベン」を追跡せよという明白な命令が下され、ミルン中将はエーゲ海出口を警備することにしたが、ドイツ艦隊はダーダネルス海峡へ向かっていた。


8月10日、ドイツ艦隊がダーダネルス海峡に到達し、オスマン帝国海軍の水雷艇に先導されて海峡を通過した。目撃したイギリスの副領事が本国に打電したが、もう手遅れだった。


8月16日、ドイツ艦隊がオスマン帝国の首都コンスタンティノープルに到着した。「ゲーベン」と「ブレスラウ」はオスマン帝国に買い上げられることとなり、ドイツは軍事顧問団派遣などの支援を約束した。「ゲーベン」は「ヤウズ・スルタン・セリム」、「ブレスラウ」は「ミディッリ」と改名されたが乗員はドイツ人のままであり、スション少将はオスマン帝国海軍の司令長官に任命され、大戦の大局が決する1917年までオスマン帝国に留まった。


ミルン中将、トラウブリッジ少将らはこの不手際を非難され、左遷された。


海軍兵力の大幅な増強に成功したオスマン帝国は、前年にイギリスから購入する予定だった戦艦「スルタン・オスマン1世」(接収後は「エジンコート」)と「レシャディエ」(接収後は「エリン」)の2隻をウィンストン・チャーチルに接収された恨みもあり、第一次世界大戦にドイツ率いる中央同盟国陣営での参加を決定。オスマン帝国はロシアに対してイスラム教宗主国としてジハードを宣言した。

接収は増強著しかったドイツ海軍への対抗のためだったが、裏目に出ることとなった。


当初は孤立無援状態で、イギリス海軍によって早々に撃破ないし拿捕されるよりないと思われていた2隻は黒海とエーゲ海戦で協商国の沿岸拠点と船舶への攻撃を行った。このため、協商国陣営は中東にも戦線を構えることになり、本来は必要ではなかった出血を強要されることになる。

もし、アドリア海に留まってオーストリアに協力する道を選んでいたなら、十分な活躍は見込めなかった。


影響編集

ドイツ編集

ドイツ地中海艦隊が先を急いだのは修理のため本国へ帰還する前に戦争が起きてしまったためで、26ノットの高速を発揮するはずであった「ゲーベン」は不調のボイラーを気遣いながらの逃避行を行っていた。

「ブレスラウ」(「ミディッリ」)は戦没したが、大戦を生き延びた「ゲーベン」(「ヤウズ・スルタン・セリム」)はオスマン帝国の敗戦とトルコ共和国成立後も戦勝国への引き渡しを免れ、第二次世界大戦後までトルコ海軍総旗艦として君臨し続けた。ドイツ本国の「大洋艦隊」は敗戦後、抑留先のスカパ・フロー自沈し、「東洋艦隊」はフォークランド沖海戦にて全滅し、賠償艦として戦勝国に払い下げられた艦船もスクラップとなったため、唯一生き残ったドイツ帝国海軍の有力艦となった。


オーストリア=ハンガリー編集

ドイツ地中海艦隊がトルコに移籍したことを受け、「自分たちの海軍からもオスマン帝国へ援軍を出すべきでは?」という意見がでたが、海軍当局はこれを抑え込んだ。

アドリア海沿岸にしか拠点がないため、弩級戦艦4隻と前弩級戦艦多数に加え有力な高速巡洋艦隊をも抱えていたにもかかわらず、開戦早々に英仏艦隊による「オトラント海峡封鎖(オトラント堰)」により封じ込められ、ゲオルグ・フォン・トラップ(※「サウンド・オブ・ミュージック」におけるトラップ7人兄弟の父親)らが率いるUボートしか活動ができなかった。

ただし、彼らはドイツ帝国艦隊のUボートと連携してイオニア海からエーゲ海にかけて通商破壊で実績を挙げ、日本海軍が派遣した第二特務艦隊も損害を受けた。


イタリア編集

イタリア王国は第一次世界大戦開戦までドイツ、オーストリアと三国同盟を結んでいたが、英仏が水面下でイタリアに接触し、オーストリアとの係争地である「未回収のイタリア(イタリア半島以外のイタリア系住人の居住地)」を安堵する代わりに協力を要請していた。

そのため勃発後は中立を宣言し、ドイツ地中海艦隊へ冷淡な態度をとり彼らを憤慨させている。

1915年4月26日にはイタリアが三国同盟を放棄して協商国側に加わるが、「未回収のイタリア」への進撃はオースオトリア軍に阻まれ、チロルから進撃したドイツ陸軍にポー川下流域を侵攻されるなど協商国の足を引っ張ることとなった。

しかし、勝者側についたため戦争目的は達成された。


イギリス編集

イギリスはオスマン帝国領に対し様々な政治工作を展開するが、後のパレスチナ問題へと発展し、別の紛争の火種となって現在に至る。

また、イギリスがオスマン帝国から接収した戦艦「エジンコート」と「エリン」はユトランド沖海戦に参加したが、「エジンコート」は100発以上放った主砲弾が全て外れ、「エリン」は一発も発砲せずに終わるなど活躍できなかった。2隻とも戦後早々にスクラップとして処分された。

オスマン帝国側から賠償請求がされていたが、トルコ革命の混乱でトルコに対する敗戦処理と相殺するということとなった。


余談編集

  • オーストリア海軍のUボートと日本海軍の第二特務艦隊の戦いは、青島要塞攻略戦における巡洋艦『カイゼリン・エリザベート』との戦闘と合わせて「事実上の日墺戦争」と称されることもある。

関連タグ編集

第一次世界大戦 ドイツ海軍 イギリス海軍 オスマン・トルコ

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