概要
前弩級戦艦とは、イギリス海軍によって建造された画期的な戦艦「ドレッドノート」(この戦艦の特徴としては「単一口径の巨砲」と「蒸気タービン」に代表される)が建造されたことにより、それ以前に設計された旧式な戦艦がひとくくりにされたもの。
前代の装甲艦から発達し、おおむね1890年ごろから1905年ごろまでに建造された戦艦が該当し、特徴としては複数種類の主砲搭載、対戦艦用近距離砲撃用の副砲搭載、衝角の搭載、石炭焚きボイラーで作動する三段膨張式機関などである。
代表的なものとしては、日露戦争に参加した敷島、三笠や第二次世界大戦にまで参戦したドイッチュラント級戦艦などが存在する(そのほかにも北洋艦隊に所属した定遠および鎮遠、反乱を起こしたことで有名な戦艦ポチョムキンなど)。
前弩級戦艦に対し、ドレッドノート以降の戦艦は弩級戦艦、その改良を行った戦艦は超弩級戦艦として分類されている。
おおよそのスペック
排水量は1~2万トン程度、艦体の前後に主砲として30センチ連装砲塔を1基ずつ計2基4門もち、これに加えて水雷艇・駆逐艦を撃退するための小口径副砲を多数舷側に備える。
さらに後期の前弩級戦艦は、主砲の攻撃力を補助するため、主砲よりやや小さい中間砲を混載するようになった。
機関は石炭焚きのレシプロ蒸気機関であり、最大速力は18ノット程度である。
砲の射程距離がまだ短かったため接近戦用の衝角や雷装を備えていたが、実戦でこれらが使い物になったケースは少ない(衝角などは逆に味方にダメージを与えることが多かったといわれる)。
高いマストを通常2本持ち、艦橋構造は観測装置や指揮機能が強化されたあとの時代の戦艦と比べて簡素で、露天艦橋であることも多かった。
戦闘での使用
この種の戦艦は1890年代より製造されたが、しばらくは装甲巡洋艦や防護巡洋艦などとの戦闘しか存在しなかった。日本の最初の前弩級戦艦である富士型戦艦は日清戦争に間に合わず、松島型防護巡洋艦が清国の北洋艦隊が誇る戦艦定遠と鎮遠を撃破した。
前弩級戦艦同士の戦闘は活躍後期の日露戦争まで待たなければならなかったが、日露戦争の終わった1906年のドレッドノートの登場によりこの種の戦艦は一気に旧式化してしまい、列強は弩級戦艦の建造に注力することになる。
以降、主力としては使用されなくなったものの、第一次世界大戦では「割と気軽に使える軍艦」として使用されバルト海の戦いやガリポリ上陸の支援などに活躍した。前弩級戦艦は超弩級戦艦や巡洋戦艦にはまったく歯が立たないと考えられており、いわば捨て石として「失っても惜しくない」という理由から真っ先に危険な戦場に投入されたが、同大戦最大の艦隊決戦であるユトランド沖海戦にも参戦し、想像以上の役割を演じた。前弩級戦艦が本当の意味で活躍できたのは日露戦争を別にすると第一次世界大戦だけだったかもしれない。
終焉
第一次世界大戦後のワシントン海軍軍縮条約によりアメリカ合衆国、イギリス、フランス、イタリア、日本のこの種の戦艦は武装解除、あるいは破棄された。ロシアの所有したこの種の軍艦はソビエト連邦成立前後に除籍されていた。
例外としてドイツの場合、装甲沿岸防備艦として8隻のこの種の軍艦が認められたため、そのうちの2艦が第二次世界大戦において利用された。
また、他国よりこの種の戦艦を購入し、利用した事例も存在する(ギリシャなど)が、それも老朽化のため、1930年代には戦艦としては退役している。最後まで利用されていた前弩級戦艦は1930年代に練習艦とされて1950年まで利用され1953年解体のトルコのトゥルグート・レイスあたりではないかと思われる。
現在は戦艦三笠の船体が記念として残されているのみであるが、戦後の荒廃による改変が著しく、内部は原型をとどめていない。
関連タグ
上位カテゴリー 戦艦
代表的なもの 富士型 敷島型戦艦(敷島、朝日、初瀬、三笠) ドイッチュラント級戦艦 クニャージ・ポチョムキン・タヴリチェスキー級戦艦 インペラートル·パーヴェル1世級戦艦