概要
敷島型戦艦は、ロシア海軍に対抗するために作られた戦艦である。日本海軍が日清戦争後イギリスに発注し、1900年から1902年にかけて建造された。構成、技術の高さから当時世界最大の戦艦と言われた。
戦記などでは「前弩級戦艦」と呼ばれることがある。
解説
富士型の完成により近代戦艦を手に入れることのできた日本海軍であったが、仮想敵であるロシア海軍に比べるとまだまだ戦力不足であった。そこで、日本海軍は戦艦6隻、巡洋艦6隻の六六艦隊計画を海軍力整備の基準と定め、イギリス・ロンドンのテムズ鉄工造船所で建造された。これが1番艦「敷島」である。敷島は、第一期拡張計画にて完成された戦艦である。
ちなみに設計はイギリスのマジェスティック級に基づいて改良・建造されたものである。
残りの3隻もイギリスにて建造され、ジョン・ブラウン社で2番艦「朝日」を建造。3番艦「初瀬」はアームストロング社、4番艦「三笠」はヴィッカース社にて建造が進められ発注することとなった(ちなみに三笠が造られたヴィッカース社は、後の金剛型戦艦1番艦金剛を建造した造船会社である)。
敷島型の速力は18ktで富士型よりは若干低下している。
主砲は「アームストロング 1898年型 30.5cm(40口径)ライフル砲」を楔形の連装砲塔に収めて艦首甲板に1基、その背後に司令塔を下部に組み込み両脇に船橋(ブリッジ)を持つ操舵艦橋の背後に単脚式の中段部に見張り所を持つミリタリーマストが立つ。敷島と初瀬は、船体中央部には等間隔に並んだ3本煙突が立つが、朝日と三笠は2本煙突であった。そのためか、それらのような数の違いからそれぞれ準同型艦と分類する場合もある。
副砲は新設計「1895年型 15.2cm(40口径)速射砲」を採用した。その性能は45.4㎏の砲弾を仰角20度で最大射程9,140mまで届かせられる。この砲を単装砲架で14基配置した。砲架は砲身を仰角20度・俯角5度の間で上下でき、150度の旋回角度を持っていた。毎分5~7発の間隔で発射できた。他に近接火器として「アームストロング7.6cm(40口径)速射砲」を採用している。その性能は1.5kgの砲弾を仰角40度で10,740mまで届かせられ、俯仰は仰角65度・俯角10度で発射速度は毎分15発だった。他に主砲では、敷島、朝日、初瀬は45.7cm魚雷発射管を水線下に片舷2門ずつの水中発射管と艦首水線部に水上発射管1門の計5門を装備したが、三笠のみ水上発射管を装備していない。
本艦の最大の特徴として、防御力があげられる。本艦は、急激に発達する造船技術を取り入れた為に中身は遙かに進化していった。装甲板にニッケル合金を使用し富士型の半分の厚さでありながら遙かに防御力は上回っており、三笠に至ってはニッケル合金を改良したクルップ鋼を使用し、さらに防御力を高めていた。これは、富士型に次ぐ防御力である。また、本艦以降の日本戦艦は艦幅の増加によりスエズ運河を航行できなくなり、ロシア海軍はこの戦艦群に対抗できる戦艦をアフリカ南端の喜望峰回りで太平洋まで回航させねばならなくなった点も見逃せない。そのため三国干渉の時のような欧米列強諸国の艦隊による武力威嚇を抑止することになる効果も持ち合わせていた。こうした最新鋭の戦艦はまだイギリス海軍でも保有しておらず、名実ともに当時としては世界最大最新鋭の戦艦であった。
旅順封鎖作戦時に初瀬は機雷で失われたが、残り3隻は、富士とともに黄海海戦・日本海海戦で、主力として十分な働きをした。ただし、三笠には攻撃が集中し大損害を受けてもいる。その後旧式化して、戦艦籍から離れて行ったが、ワシントン海軍軍縮条約で、残った3隻はいずれも戦闘能力を奪われ、敷島は練習艦、朝日は工作艦(当初練習艦)、三笠は記念館(陸地に埋められたため建物に変化した)となった。
同型艦
No | 艦名 | 工廠 | 起工 | 進水 | 竣工 | 戦没 |
一番艦 | 敷島 | テムズ | 1897/03/29 | 1898/11/01 | 1900/01/26 | 1947(解体) |
二番艦 | 朝日 | ジョン・ブラウン | 1897/08/18 | 1899/03/13 | 1900/07/31 | 1942/05/26 |
三番艦 | 初瀬 | アームストロング | 1898/01/10 | 1899/06/27 | 1901/01/18 | 1904/05/15 |
四番艦 | 三笠 | ヴィッカース | 1899/08/10 | 1900/11/08 | 1902/03/01 | 1926/11/12(記念艦) |