概要
艦名は奈良県にある三笠山にちなんで命名された。
ロシア帝国に対抗するために軍拡を進める日本海軍による『六六艦隊計画』(戦艦を6隻、装甲巡洋艦を6隻配備する計画)の一環として、1899年8月10日にイギリスのヴィッカース社にて建造され、1902年3月に竣工。日本へ回航され5月18日に横須賀へ到着した。
船体構造は他の3隻と同じだが、本艦はクルップ鋼(クルップ・セメントクロム・ニッケル鋼)が使われ、防御力が強化されている(ほか3艦はハーヴェイ鋼(ハーヴェイ・ニッケル鋼)を使用)。また、主砲もアームストロング社の新設計の「アームストロング 1898年型 30.5cm(40口径)砲」が使用されたが、三笠のみ砲架は新型のBVI型となり、揚弾筒は2段階となって防御効果が高まり、装填機構の改良により発射速度は約2割ほど速くなった。
またほかの3艦は45.7cm魚雷発射管を水線下に片舷2門ずつの水中発射管と艦首水線部に水上発射管1門の計5門を装備したが、三笠は水上発射管を装備していない。
三笠の最大の特徴は、クルップ・セメンテッド(通称:KC鋼)構造となっていること。これは当時としては最新鋭であり、約3割の防御力向上となった。このため、甲板部は防御力を落とさずに102mmから76mmに減厚できた。また、艦首と艦尾の水線部は102mmから178mmへと増厚され、舷側装甲も152mm装甲は上甲板部まで装甲範囲が増やされて防御力が高まった。15.2cm速射砲も装甲隔壁で区切られた個別の砲室を持っており被弾時の被害軽減を図っていた。
1903年12月28日、前述のように日本海軍主力である敷島型戦艦の中でも強固な防御力を持つ最新鋭艦である事から三笠は連合艦隊旗艦となった。
1904年2月6日から日露戦争に本格的に参戦し、司令長官東郷平八郎大将の指揮下で黄海海戦でロシア太平洋艦隊(日本での通称旅順艦隊)、日本海海戦でロシア第二太平洋艦隊、第三太平洋艦隊(日本での通称バルチック艦隊)との交戦に参加した。
前者では三笠は20発程の砲弾を被弾して戦死33名、負傷92名の損害を出し、後者では敵艦の砲撃が集中した三笠は30.5㎝砲弾10発、15.2㎝砲弾21発を被弾した為に中破し113名の死傷者を出すも、共に旗艦として勝利の栄誉を占めた。だが、日露戦争終結直後の1905年9月11日に、佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のため沈没した。この事故では339名の死者を出した。
この爆発事故の原因は、弾薬庫前で当時水兵の間で流行していた「信号用アルコールに火をつけた後、吹き消して臭いを飛ばして飲む」悪戯の最中に、誤って火のついた洗面器を引っくり返したのが原因とする説や下瀬火薬の変質が原因という説もある。事故当時、東郷は上陸していて無事であった。
10月23日の海軍凱旋式は、敷島が三笠に代わって旗艦となった。三笠は予備艦とされ、1906年8月8日浮揚、佐世保工廠で修理され1908年4月24日第1艦隊旗艦として現役に戻った。1914年8月23日、日本が第一次世界大戦に参戦すると、戦争初期に三笠は日本海などで警備活動に従事した。その後、1918年から1921年の間、大戦中に誕生した社会主義国ソ連を東から牽制するシベリア出兵支援に参加した。
1920年の尼港事件の際には砕氷艦見島とともにニコラエフスクへ救援に向かったが堅氷に阻まれ入港できなかった。このため約700名の日本人と数千名のロシア人は救助されることなく赤軍パルチザンに惨殺された。1921年、ウラジオストック沖で座礁・着底。その後、浮揚・修理が施されて警備艦として活動を再開するも、ワシントン海軍軍縮条約に基づいて廃艦が決定し、除籍。条約に基づき現役に復帰できない状態にすることを条件に、記念艦としての保存を許され、下甲板以下が土砂で埋められて横須賀の岸壁に固定され、三笠の船としての生涯はこの時点で終わった。
現在の三笠
第二次世界大戦中、横須賀は米軍機の空襲を受けたが、三笠の被害はまったくなかった。
敗戦後はロシア帝国の後身であるソビエト連邦のクズマ・テレビヤンコ中将からの要求で解体されそうになったものの、アメリカ陸軍のチャールズ・ウィロビー少将らの尽力でこれを免れた。
しかし記念艦として管理していた帝国海軍の解体により放置された三笠は、侵入した金属泥棒により艤装が剥がされ、見る影もないほど荒廃した。取り外せそうな金属類はガス切断によって全て盗まれ、マストや艦橋も失われて、ほぼ原型をとどめない状態になった。さらに荒廃した三笠の残骸には、アメリカ軍によってダンスホールや水族館が設置された。三笠の惨状を知ったアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ提督は激怒し、自伝の売り上げを寄付するなどして復元・保存が進められた。
現在の三笠の艤装類は建造当時のオリジナルはほとんど残っておらず、後付けで設置されたレプリカや1959年に横須賀で解体されたチリ海軍の戦艦「アルミランテ・ラトーレ」から寄贈され取り付けられたものである。
上述の通り戦後の改変が著しく、下甲板以下は土砂で埋められ、事実上戦艦の形をした資料館と成り果ててはいるものの、現在も三笠公園に「記念艦三笠」として残され、多くの人が訪れている。復元部分が多数ではあるが、現存する前ド級戦艦は極めて希少である。なお、戦闘で破損した主砲の鋼材の一部は後に日本刀の材料に使われ、銘を「三笠砲鋼秀明」と名付けられた。
日本海海戦の日である毎年5月27日には、普段は入館料がかかる三笠艦内を無料で開放。海上自衛隊による演奏など関連するイベントなどが開催されている。
関連動画
YouTube 横須賀市公式chより
登場した映画・ドラマ
日本海海戦を再現した映画として、新東宝が1957年に『明治天皇と日露大戦争』、東宝が1969年に『日本海大海戦』、東映が1983年に『日本海大海戦 海ゆかば』をそれぞれ製作、いずれも特撮で描写している。
GHQの占領から解放されて数年後の新東宝の大作映画『明治天皇と日露大戦争』は当時の大スター嵐寛寿郎が明治天皇を演じ、「国民の5人に1人が見た」と評される大ヒットとなった。
制作当時は三笠はまだ記念館として復元されていないため、三笠を含めた艦艇は実物大セットで撮影している。同型艦の初瀬も三笠と同じセットを使用している。
東宝の『日本海大海戦』は『日本のいちばん長い日』『連合艦隊司令長官山本五十六』に続く「東宝8.15シリーズ」の第三弾として4チャンネル立体音響で公開され、三笠は10m大のミニチュアで再現された。
こちらの制作当時にはすでに三笠は復元が完了しているため、艦内描写などでは実際の三笠で撮影。なんと撮影に際して溶接されていた単装砲を可動式に復元している。
『明治天皇と日露大戦争』では短時間の描写にとどめられていた日本海海戦も本作では緻密に描写され、映画作品としては円谷英二最後の特撮を堪能できる。
ちなみに実際の戦艦三笠を撮影に使用したのは1963年の『青島要塞爆撃命令』が先だが、こちらは三笠ではなく周防という設定である。
東映の『日本海大海戦 海ゆかば』は『二百三高地』『大日本帝国』に続く「東映戦争三部作」の1作に数えられる。
それまでの日露戦争を題材にした映画では乃木希典や東郷平八郎を主題に描いたものがほとんどだったが、三笠に乗り組んで戦った軍楽隊の隊員を題材にした作品である。
三笠の艦内描写は東宝の『日本海大海戦』と同じく本物の戦艦三笠を使用している。
2009年からNHKで放送された歴史ドラマ『坂の上の雲』では、原寸大のオープンセットでの撮影が行われた。本物の戦艦三笠はなんと三笠ではなく日清戦争時の戦艦定遠や旅順港閉塞作戦における福井丸の艦内描写で使用されている。
外観などは全てCGで再現され、海上を航行する海上自衛隊の護衛艦の映像を加工している。
余談
日本海海戦の生き残りの艦艇は三笠の他にはロシアの防護巡洋艦アヴローラのみである。
ちなみにこちらは動態保存されている。
諫山創の漫画『進撃の巨人』に登場するミカサ・アッカーマンの名前はこの戦艦三笠に由来する。pixivではミカサを描いた作品に「三笠」タグをつけたものが多い。
また、アニメ『蒼き鋼のアルペジオ』の第4話に登場、海面上昇によって旧横須賀市街地と共に水没し朽ち果てていたが、ハルナ・キリシマを倒すため、思わぬ形で活躍することになった。
2024年時点で実装されていないが『艦隊これくしょん』絡みの作品も多い。現時点では同型艦の朝日が練習特務艦/工作艦として実装されている。
艦これ風のMMDモデルが存在する。
元となったイラスト
2017年11月11日に、街頭広告の掲示という先行告知が成され『アズールレーン』にて実装が決定、艦船擬人化ゲームへの登場は有名なタイトルの中ではこちらが最初となった。
関連タグ
三笠(無印)
海軍記念日…日本では日本海海戦の日である5月27日が該当する。
お台場・船の科学館にて保存されている記念艦。こちらは建造から70年を過ぎたいまも海に浮いており、航行可能な「生きている船」である。