生涯
嘉永2年11月11日(西暦1849年陽暦12月25日)、江戸六本木の長府藩(長州藩毛利家の支藩)上屋敷で生まれる。
幼名は無人(なきと)であり、元服して源三と名前を改めてもなお妹などから「泣き人」と揶揄されたという。
慶応2年(1866年)、第二次長州征伐が開始。奇兵隊の山縣有朋指揮下に合して幕府軍と戦う。
明治維新後、陸軍に入って軍歴を重ね、明治10年2月に西南戦争が始まると、乃木は連隊を率いて熊本に進軍し、西郷軍との戦闘に入った。
緒戦(植木坂の戦い)において連隊旗を奪われ、その責任を取ろうとするかのように勇戦奮闘し、左足に重傷を負いながらも、かごに乗って指揮を執り、銃弾を受けてから10日あまりの後、ようやく久留米病院に入院した。
連隊旗を奪われた悔恨は後年まで忘れることはなく、その後すぐさま乃木は退院復帰して連隊の指揮を執り、今度は左腕を撃たれて重傷を負った。
4月、政府軍の熊本城入城が果たされた後、乃木は山縣有朋に「待罪書」を提出したが、そこには乃木が抱いていた悔恨の念が切々と吐露されている。山縣から「連隊旗喪失は不可抗力であった」という旨の返信を受けてもなお乃木の自責の念は収まらず、自殺を図ったところを児玉源太郎少佐(当時)に見つかり、諫められている。
少将への進級とドイツ留学を経て、日清戦争(明治27~28年)では歩兵第一旅団長として従軍。旅順要塞を1日で陥落させる、桂太郎率いる第3師団を包囲した敵軍を撃破するなどの武功を挙げて陸軍中将となり、「将軍の右に出る者なし」とまで評された。
続く日露戦争(明治37~38年)においては第三軍司令官として出征し、大陸上陸直後に陸軍大将に任ぜられた。
しかし、旅順攻囲戦においては日清戦争時とは逆に非常な苦戦を強いられ、多大の犠牲を払ってなかなかこれを陥落させられず、批判された(第三軍が多くの犠牲を出した原因の1つとして海軍が攻略を急がせたことがある。これに関しては旅順に本腰を入れなかった陸軍にも問題があるがメンツの為にぎりぎりまで支援要請をしなかった海軍にも責任がある)。だが5ヶ月後に遂に旅順要塞を攻略し、敵将の降伏を以て要塞を陥落させた。
この戦争では彼自身、長男と次男を失っている。
すなわち日本陸軍は甚大な被害を出しながら、明治37年5月末にロシア軍の重要拠点である金州を占領したが、長男勝典もこの戦い(南山の戦い)で戦死し、また旅順港争奪戦の際の二〇三高地の激戦では次男保典を失った。
結局乃木は自分の指揮で二〇三高地を落とすことはできず、児玉源太郎が指揮を交代して陥落させた、とする説もあるが、児玉が二〇三高地攻略を指揮をしたと言う明確な一次資料は確認されていない。これが事実で満洲軍総司令官の大山巌元帥が許可したとしても、本来満州軍総参謀長は諸部隊の上官ではあるが、直接の命令権までは持たされていないため、総参謀長だった児玉が乃木の代理の任を大山に裁可されて臨時に指揮を執って二〇三高地を陥落させたのであれば、命令系統を超えた緊急指令を発動せざるを得ないまでに満州軍は追い詰められていた非常事態となる。
降伏した将軍ステッセルと水師営で会見、ステッセルが悔やみの言葉を述べると、乃木は「これぞ武門の面目」と答えたと言う。また、ステッセルに帯剣を許す、降将の敗北した姿を写真に撮影させないなど武士道に則った措置を取っている。唯一残る記念写真は友情の証にと撮影が許されたものである。
要塞攻略後に行われた奉天会戦においても、乃木は第三軍司令部を最前線にまで突出させ自らの身を置くなど勇猛さを見せ、第三軍の奮戦は日本軍に勝利を齎した。
しかし、旅順攻略戦で多大な犠牲を出したことは終生まで彼を苦しませており、自責の念から帰国を嫌がったり、自殺願望を抱いていた節もあった。特に自殺願望に関しては深刻であり、それを見抜いた明治天皇に「自分が生きている内は自殺は許さない」旨の勅命を賜り、思いとどまったというエピソードもある。
戦後、明治天皇の勅命によって宮内省御用掛、学習院院長に就任。
学習院に入学された皇孫裕仁親王(後の昭和天皇)の御養育にも関わっている。
大正元年9月13日夜、7月30日に崩御した明治天皇の大葬の夜、夫人と共に殉死した。満62歳没。
裕仁親王(後の昭和天皇)には殉死の意図に感づかれていた節があり、この時裕仁親王は「閣下はどこかへ行かれるのですか?」と聞いたという。彼はその時思い止まるべきであった。
彼の死後陸軍が暴走したことを考えると、ここで死ぬべきではなかった。
東郷平八郎が昭和十年代まで生き続け神様のような存在になっていたことを考えると、生きていれば青年将校も軍部も暴走などできなかった可能性は高く、政府が軍部の代弁者に成り下がることは無かったかもしれない。
少なくとも、有力な重臣の一人としてあるいは重臣が頭を下げる存在として抑えには十分なったであろう。
文武両道に優れた彼の事跡は唱歌や講談で伝えられ、国民的英雄として尊敬された。
また、ダグラス・マッカーサーは「日本は乃木将軍のような立派な人物が出る国なのだから、必ずまた発展するだろう」と語っている。
また第二次世界大戦後には、とある作家のせいで無駄死にを多数出したド無能扱いされてきたが、近年旅順攻略戦に関する研究が進むにつれて修正がされてきている。
そもそも、彼が担当した旅順要塞は日清戦争の時点で、「60隻余りの堅固な戦艦と10万の陸軍を動員しても攻略までに半年はかかる」と言われたほどの大要塞であり、ロシアは日露戦争までの間に20万樽以上のセメントと無数の大砲・機関銃で武装すると言う大工事を行っている。
加えて、要塞には名将コンドラチェンコ少将が実質的な司令官として着任しており、苦戦は必至であった。
むしろ、機関銃陣地に対して塹壕を掘って対応するなど後の第一次世界大戦に見られる戦いをしているあたり、経験豊富且つ先見性に優れた指揮官だったと考えるのが妥当である。
何より、多くの兵を死なせたために無能とされるのであれば明治陸軍の知略と言われた児玉源太郎も、騎兵の報告をまともに聞き入れなかったために、遼陽会戦や黒溝台会戦で敵陣の状況やロシアの攻勢を見極めきれず窮地に追いやられると言う失態を犯している。
また、「旅順攻略は乃木ではなく児玉がやるべきであった」と人事ミスを指摘されることも多いが、乃木は日清戦争時も旅順攻略を担当しているので、必ずしも人事ミスとは言えない。
そもそも児玉源太郎自身が「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と一貫して主張している。
元を辿れば、旅順攻略が急ピッチにならざるを得なかったのはほとんど海軍のせいであり、事前の準備期間などを考えれば正直誰が行っても結果は変わらかったと思われる。
乃木は現代においても毀誉褒貶の激しい人物である。
しかし、乃木を無能と毀損する根拠として引用される一次史料として、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を挙げる人も居るが、これはただの娯楽小説であり、従軍記者の報告ですら無いフィクションを「史料と言うのは適切では無い」、重ねて言うが「空想と現実は区別しよう」。
また近年の研究により司馬遼太郎が用いた機密日露戦史は、乃木の第三軍や満洲軍と対立した大本営からの視点でのみ戦争の推移を評価編纂しており、公正で客観的史料ではないことが明らかになっている。
このように、歴史家ではなく娯楽として衆人を楽しませる小説家でしかない司馬遼太郎の歴史観が司馬史観として権威を持ったことにより、乃木愚将論に箔がつく形となってしまった。
また、近年では仮想戦記作家佐藤大輔が「レッドサンブラッククロス」作中で司馬よりもはるかに露骨に乃木たたきをやっており、近年のオタク層への影響はむしろこちらのほうが大きいかもしれない。
ただし、台湾総督としての治績では完全に児玉源太郎の後塵を拝する。台湾に妻と母を伴い伝染病をも恐れぬ姿勢を見せる、官吏の綱紀粛正を図る、台湾人の教育に取り組むなど精神的な面では立派であったものの、殖産興業についての理解や内政手腕に乏しく、配下の官吏との対立も激しくなり職務遂行困難から辞職を余儀なくされる。
だが乃木の遺産である綱紀粛正は児玉の台湾統治に大いに役立ち、彼の教育者としての手腕、武士としての精神の素晴らしさを示している。
東京都港区赤坂他各地に鎮座する乃木神社のご祭神となっており、山口県下関市の乃木神社にも「乃木大将御夫妻像」がある。
乃木大将の肉声(2:54頃~)
「私は乃木希典であります」