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西竹一

にしたけいち

西竹一は日本の陸軍軍人にして華族(男爵)、1932年 ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト。愛称・通称「バロン・ニシ(西男爵)」
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生涯編集

1902年明治35年)7月12日、東京市麻布区麻布笄町(現在の東京都港区西麻布)にて生まれた。


1917年大正6年)9月広島陸軍地方幼年学校に入校。

1920年(大正9年)、陸軍中央幼年学校本科に進む。同期に辻政信ら。

1921年(大正10年)4月、陸士陸幼の制度改編で中幼本科を半年で修了、新設の陸軍士官学校予科へ第36期で入校。

1924年(大正13年)7月、陸軍士官学校(本科)を第36期生として卒業、見習士官として原隊の騎兵第1連隊附となり同年10月には陸軍騎兵少尉に任官。

1927年昭和2年)9月、陸軍騎兵学校(乙種学生)を卒業し同年10月には陸軍騎兵中尉に昇進。

乗馬は華族として嗜んでおり、自身もそれを好んでいたことから兵科は帝国陸軍の花形である騎兵を選んだ。


1930年(昭和5年)3月、軍務として欧米出張中の折イタリアにて、後に終生の友とも言うべき存在となる愛馬ウラヌス(ウラヌス号)と出会う。ウラヌスは馬としても体躯が大きく気性も荒かったため元の飼い主も持て余していたが、西が人づてに聞いて関心を持ち会いにいったところウラヌスもすぐに彼に懐き購入を決意、の予算が下りなかった事から自費で購入。ウラヌスをまともに乗りこなせたのは西だけであった。


1932年(昭和7年)、ウラヌス号と共にロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリストに。2024年(令和6年)のパリオリンピックにおいて総合馬術団体で銅メダルを獲得するまでの92年もの間、馬術競技で日本人選手メダルを獲得した唯一の記録であった。


4年後ベルリンオリンピックにも出場したが競技中落馬棄権


大東亜戦争勃発後、戦車として戦車第26連隊の連隊長として満州、そして硫黄島へ向かう。

戦車補充で一旦東京に戻った時、年老いて馬事公苑で余生を過していたウラヌスに会いに行く。

ウラヌスは西の足音を聞いて狂喜して、を摺り寄せ、愛咬をしてきたという。


1945年、硫黄島を攻撃したアメリカ軍は「馬術のバロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と投降を連日呼びかけたが、応じることなく3月22日に戦死した。享年42歳。


それから約1週間後、陸軍獣医学校に居た愛馬ウラヌスも主の後を追うように息を引き取った。


ウラヌス号について編集

イタリア留学中の騎兵学校教官から「いい馬がいる」と連絡が入ると西はすぐさま動いた。「自分が買う」と連絡したうえで半年間の休暇を願い出て、欧米へと旅立つ。すべて自費。まずロスの会場を見ておくために渡米、そこからイタリアに赴いて教官に紹介された馬を買い入れた。かけがえのないパートナーとなったウラヌス(天王星)号である。


西は戦争で戦馬の調教をしていたが馬が生きた消耗品兵器として扱われることに葛藤を感じていたという。


余談編集

硫黄島の戦いにおいて、米軍が西を名指しして投降を呼びかけたことは、スポーツマンシップが戦争を超えた美談として語られることが多いが、西が硫黄島に赴任していたことを米軍がどうやって知ったのかという疑問から、後世の創作ではないかとする見方もある。

事実であったとしても、米軍は趨勢が決してからは、できる限り降伏を勧めており、西だけが特別視されたわけではない。


上記の通り、2024年パリオリンピックにて、馬術日本代表が団体部門で銅メダルを獲得し、ベルリンオリンピック以来実に92年ぶりにメダルを獲得したことが話題となり、79年ぶりに西の業績も再評価されることとなった


関連項目編集

帝国陸軍 軍人 華族 男爵

馬術 オリンピック 金メダリスト

ウラヌス

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