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西住小次郎

にしずみこじろう

西住小次郎とは、大日本帝国陸軍の軍人(左の人物)。最終階級は大尉。戦車隊の指揮官として有名であるが、意外なことに歩兵科の士官である。
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概要編集

1914年1月13日熊本県上益城郡甲佐町生まれ。

父・三作は台湾の抗日勢力鎮圧や日露戦争で活躍し、祖父・深九郎もまた西南戦争で薩軍熊本隊の一員と代々軍人の家系だった。

1934年に陸軍士官学校の養成課程を終えて大日本帝国陸軍の歩兵士官になり、翌年戦車兵への転属を願い出て教育を受け、戦車搭乗員になった。

冒頭にあるように歩兵科だったというのは意外に感じるかもしれないが、当時はまだ戦車発達期であり、戦車は歩兵の支援装備とみなされ歩兵科に所属していた。


1937年、日中戦争の第二次上海事変で戦車第5大隊第2中隊の戦車小隊長として大陸に出征。その後も八九式中戦車に戦車長として搭乗し、負傷した中隊長の代理を務めるなど、多くの激戦を戦い抜いて武勲を挙げた。

1938年5月の徐州会戦のさなか、斥候に出たところを敵の狙撃兵に撃たれて致命傷を負い、懸命な応急処置を受けるも敢え無く戦死する。同じように斥候に出たところを狙撃されて戦死した戦車長は多かったといわれている。

死後は一階級の特進の他、彼の功績から軍部によって公式に最初の「軍神」として指定された。


なお、西住が乗っていた戦車には1,300発以上の銃弾の命中痕があったという。西住と共に帰国した戦車は終戦まで靖国神社に展示されていた。

また追贈された勲章は熊本県護国神社に奉納されている。


人物像編集

部下には優しいが公私混同はせず軍規には厳しい人物で、手柄を決して誇ることなく戦果の報告は控えめだった。

中学時代は柔道を行っており4級の腕前だった。

得意教科は英語、苦手教科は物理化学。教師によると「あまり特徴のない生徒」だったらしい。

また大変な読書家で中学校時代は図書委員だった。愛読書は岡谷繁実の「名将言行録」。

尊敬する人物は吉田松陰。士官学校時代は暇さえあれば松陰伝を紐解き、従弟を連れて松陰神社に参拝していた。

特技は詩吟と口上。自分でも時折詩を作っていた。

中学時代には身長183cmの長身で「背高ノッポ」、「トウボシ柿」などのあだ名があった。


西住戦車長傳編集

1939年に東京日日新聞・大阪毎日新聞で連載されていた菊池寛の小説。

1940年に松竹で映画化された。監督は吉村公三郎、主演は上原謙。陸軍省からの要望で制作が決まったため制作陣はあまり乗り気ではなかったが、主演の上原謙はそれまでの二枚目役からの脱却を目指し人間味のある戦車隊長を演じた。

撮影はなんとほぼ全編中国ロケで、実際に前線で活躍している八九式中戦車を撮影に使用していた。そのため砲塔上面のハッチがトルコ帽型から大型展望塔になった甲前期型など珍しい形態の八九式中戦車も見られる。

同年には同じく菊池寛脚本で歌舞伎も上演された。主演は二代目市川猿之助


楽曲編集

1939年には西住を題材にした楽曲が確認できるだけでも6曲発売された。


余談編集

ガールズ&パンツァー』の主人公である西住みほの名前の由来となっており、戦車道では名門である西住流という流派が存在する。

ちなみに、軍神のあだ名は彼女に受け継がれている


関連タグ編集

大日本帝国陸軍 軍人 八九式中戦車

ガールズ&パンツァー 西住みほ

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