東海林太郎
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しょうじたろう
東海林太郎は秋田県出身の歌手。昭和時代戦前から戦後にかけて活躍した。(1898年~1972年)
1898年(明治31年)12月11日、秋田県秋田市に生まれる。
早稲田大学を卒業後、父が勤務していた南満州鉄道(満鉄)へ入社したが、学生時代からの夢だった音楽への道を捨てきれず、1930年(昭和5年)に満鉄を退職。
歌唱の基礎である声楽をじっくり学び、1934年(昭和9年)にポリドールと契約。
既に35歳となっていた東海林だったが、デビュー曲である『赤城の子守唄』が大ヒットする。
その後も『国境の町』『旅笠道中』『野崎小唄』『麦と兵隊』『名月赤城山』など、立て続けにヒット曲を飛ばし、藤山一郎やディック・ミネ等と共に戦前を代表する人気歌手となった。
東海林の歌唱スタイルは、ロイド眼鏡に燕尾服を着用し、直立不動の姿勢で歌い上げるものだった。
しかし、第二次世界大戦終戦直後は、東海林の歌曲が軍国主義・国粋主義に繋がるとしてGHQに睨まれ、一転して不遇の時を迎える。
それでも東海林は戦後第1弾シングル『さらば赤城よ』で復帰すると、どさ回りと言えるような地方公演を続けて徐々に人気を回復させていく。
1951年(昭和26年)より開始したNHK紅白歌合戦では、1951年(第1回)・1955年(第6回)・1956年(第7回)・1965年(第16回)の4回に出場した。
1963年(昭和38年)には、日本歌手協会を設立し、その初代会長に就任。
既に還暦を過ぎていたが、折からの懐メロブームにおいても中心的な人物として歌い続けた。
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