プロフィール
本名 | 戸川順子 |
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生年月日 | 1961年3月31日 |
出身地 | 日本 東京都新宿区 |
職業 | 女優 歌手 |
ジャンル | 歌謡曲 アート・ポップ アバンギャルド ニュー・ウェイヴ テクノポップ |
活動期間 | 1979年 - |
著名な家族 | 戸川京子(妹、故人) |
共同作業者 | ゲルニカ ヤプーズ 東口トルエンズ |
人物
日本の女優・歌手。1980〜90年代にかけて活躍し、芸能活動から遠ざかっていた時期もあったが、現在は歌手や文筆業を中心に活動を続けている。
独特のスローペースなトークスタイルや後述する音楽性から「不思議ちゃん」というイメージが強いが、本人はその手の性質の女性たちが近寄ってくることや、周囲から「変わっている」と言われることをあまり好んでおらず、自身の方向性についても「ミーハーでメジャー志向」と言及したことがある。
また、インタビューなどでは理知的で落ち着いた一面を見せており、「理路整然と物事を考えるタイプ」と自己評価している。
音楽性
凄まじい迫力の巻き舌と、高い歌唱力を持ちながらあえて音を外したシャウト、学童帽にランドセルの小学生姿やベビードール、大きなリボンなど奇抜なコスチュームを着こみ、トランス状態に陥ったかのように目をむいて歌い狂うライブパフォーマンスが有名。1980年代当時は「ビョーキ」と言われていた。
さらに、自身の作詞では「愛してるって言わなきゃ殺す(「好き好き大好き」)」、「滴る生き血に飢えるわ(「肉屋のように」)」といった過激で猟奇的な歌詞が見られるため、ヤンデレキャラの祖も言われる。その他にも月経がテーマである「玉姫様」など、女性ならではの表現も取り入れている。
特異なパフォーマンスは話題作りのための色物的なネタではなく、当時のニューウェーブやパンクのバンドがこぞって行っていた前衛音楽の実験の一種(そのため、制作側としては楽曲も戸川のパフォーマンスも全て大真面目だった)。
また、高音を活かし「森の人々」やみんなのうたで放送された「ラジャ・マハラジャー」など可愛らしい曲も歌っている。
経歴
女優として
輸入果物の販売などを行う会社を経営する父と、専業主婦の母との間に生まれる。父は愛情深い人物であったが、徐々に執着が強くなり、暴力に近い厳しい躾を受けることもあったという。
小学5年生の頃、テレビ番組の影響で芸能界を志し、妹の京子と一緒に劇団ひまわりに所属。子役としてデビューした。その後、学業を心配した両親によって一度は劇団を辞めさせられる。高校では演劇部に所属していた。
大学入学後女優を志し、『しあわせ戦争』のオーディションに合格し、女優としての活動を再開する。
1982年の『刑事ヨロシク』の「西ツヤ」役で初のレギュラーを務める。その後もさまざまなドラマ、映画に出演しており、2000年代以降は舞台への出演が多い。
1982年9月にTOTO・初代ウォシュレットのCMキャラクターに抜擢され、この時の「おしりだって洗ってほしい」のセリフは話題となった。
また、当時松竹のタブーだった『男はつらいよ』と『釣りバカ日誌』両作品出演を初めて果たした人物でもある。
歌手として
1981年ごろから、女優業と並行して音楽活動も開始する。
歌手活動を始めたきっかけは、テクノパンクバンド・「8 1/2(ハッカニブンノイチ)」の熱烈なファンで追っかけをしていたことから。この頃は「NYLON100%」というバンドが出入りしていたニュー・ウェイヴカフェにも入り浸り、そこで李香蘭の『蘇州夜曲』を歌っていた。(この曲は本人の十八番のようで、先述の『刑事ヨロシク』でも、主演のビートたけしとともに『蘇州夜曲』を披露している。)
8 1/2は解散し、「少年ホームランズ」と合体する形で「ハルメンズ」というバンドに改組。戸川はハルメンズのライブでゲストボーカルを務めた。
ハルメンズ解散後、8 1/2およびハルメンズのキーボード担当だった上野耕路に気に入られ、上野と交流のあった作詞家・イラストレーターの太田螢一と共に、1982年に「ゲルニカ」という音楽ユニットを結成。ファーストアルバムをプロデュースしたのは、同じアルファミュージックに所属していたYMOの細野晴臣で、細野はその後も戸川に楽曲を継続して提供している。
戸川がアイドル的な人気を集めるようになったことや、上野の家庭の事情もあり、ゲルニカはいったん活動休止する。当初活動休止は1年間限定の予定であったが、レコード会社との契約や戸川が別プロジェクトに注力したことで、活動再開は1988年まで長引くことになった。
1983年にハルメンズのドラマーだった泉水敏郎らと「戸川純とヤプーズ」を結成。バンドはのちに「ヤプーズ」と改名し、2020年現在まで休止と再開を繰り返しながら活動している。
ハルメンズ時代にボーカリスト・作詞家のサエキけんぞう(パール兄弟)と知り合い、ヤプーズ加入後にサエキから数々の歌詞提供を受ける。またP-MODELの平沢進からも気に入られ、お互いの楽曲に参加しあったり、ラジオなどで対談を行ったりと交流が深かった。また、戸川がテレビ出演した際に、平沢がバックでの演奏を担当することもあった。
当時は細野・上野・泉水・サエキ・平沢のいずれもアルファ所属。
その後アルファが実質的に解散したことからテイチクに移籍。東芝EMI、コロムビアを経て2000年からはインディーズで活動している。
1995年にはテイチク側が戸川に無断でライブビデオを発売したためトラブルとなり、自殺未遂事件を起こした。
事件後、妹の京子に強く諌められたが、2002年には京子が自殺してしまうという悲劇を経験している。
2006年にアルファ時代の音源や映像が復刻販売されるが、足と腰を負傷し入院。その後快復し、復帰。現在は主にインディーズでのライブをメインに歌手活動を続けている。
2020年4月にYouTubeチャンネルを開設。運営は自身の所属する「戸川純事務所」によって行われている。
エピソードなど
- 好きな女優は原節子と李香蘭。また、学生時代はクレオパトラに憧れていた。
- 歌手活動におけるスタイルは、大阪出身のパンクシンガー「Phew」などの影響が強い。また、ドイツの「パンクの母」ことニナ・ハーゲンとは、外見(ロリータ・パンクなファッションなど)、オペラスタイルの歌唱法と地声でのシャウトを同じ曲の中で両方行う、という共通点があるが、戸川本人は指摘されるまで特に意識していなかった様子。
- 独特の間がある喋り方が特徴。戸川自身のキャラクターも手伝って不思議ちゃん的なものだったが、徐々に豪快な喋り方に変わってきている。また、歌い方も1980年代〜90年代初頭はシャウトやダミ声を多用したハード系だったが、2000年代以降はゆったりとして素朴な声での歌唱が多い。
- タモリが司会を務めるバラエティ番組のプロデューサーに中性的な名前から男と間違われ、男性枠のゲストとして出演したことがある。その後も「笑っていいとも!」には継続的に出演しており、コーナー「オレンジスキャンダル」では兵藤ゆきを交えたやりとりも話題となった。
- 代表曲「レーダーマン」(ハルメンズのカバー)は、声優・小林ゆうによるカバーでアニメ『夏のあらし!』の挿入歌として使われた。なお、小林は『さよなら絶望先生』で主題歌を手掛けた大槻ケンヂに「戸川純の再来」と評されており、本人もロックミュージシャンとしての活動を行っている。
- 多くの著名人がファンを公言しており、景山民夫は「戸川純私設ファンクラブ」の会長であったと著書に明記している。また、漫画家の冨樫義博は『幽☆遊☆白書』で何度か戸川について言及しており、特に樹の《明日「ヒットスタジオ」に戸川純が出る》というセリフが知られている。これが縁となってか、「戸川純 with Vampillia」としてリリースされた『わたしが鳴こうホトトギス』ではアーティスト画を手掛けている。
平沢進との関係
平沢進とは交流が深く親友の間柄である。過去や性別などの価値観が合い、お互いの楽曲やツアーに参加したほか、雑誌やテレビで対談を行うことも多かった。
(平沢は「戸川純芸能生活十周年記念」としてのアルバム「昭和享年」にアレンジ楽曲を提供、戸川は平沢の初ソロアルバム「時空の水」と2ndソロアルバム「サイエンスの幽霊」に参加)
また、戸川が音楽番組で歌唱を披露する際に平沢がギターを担当することがあり、バンドプロジェクトであるヤプーズとしての出演でもサポートで入っていることがあった(※実際にはバンドメンバーというわけではない)
平沢は「1番好きな戸川純の曲を定めるのは至難の業」としているものの、『諦念プシガンガ』を「あれは神を作った神であります」とTwitterで言及している。現在も「盟友」として関係は続いており、戸川も自身のライブで平沢のソロ曲「金星」をカバーしたことがある。
周囲への影響
彼女のスタイルは唯一無二だが、それに影響を受けた芸能人も多数見受けられる。
- 鳥居みゆき(お笑い芸人)…熱烈なファンで「戸川純のようになりたい」と公言。
- 椎名林檎(歌手)
- 神聖かまってちゃん・の子
- 蜷川実花(写真家・映画監督)…自身の監督作『ヘルタースケルター』にて『蛹化の女』を挿入歌として採用している。