- 人名
- 日本のタレント。本項で解説。
- 日本の漫画家、タモリはタル(たもりわたる)。
- 黒いサングラスをかけた人物の関連イラストに貼られるタグ。
プロフィール
概要
世界中のあらゆる言語を操るかつてのお昼の顔。
鉄道マニアとしても有名であり、笑っていいとも!で「電車でGO!(アーケード版)」の腕前を披露したり、タモリ倶楽部でも鉄道を話題にした特集が多い。明石家さんま、ビートたけしと並ぶBIG3の一人。
1983年には、デビュー8年目にして『第34回NHK紅白歌合戦』(NHK)の総合司会を務めた。NHKアナウンサー以外が紅白の総合司会を務めたのは彼が初めて。
略歴
太平洋戦争終戦から一週間後の1945年8月22日に福岡県福岡市に生まれる。本人曰く、本名の「一義」の由来は、祖父が尊敬していたという政治家の田中義一から名前をもらおうとしたところ、上下の画数の差が大きく「頭でっかちな子供になる」という理由で上下ひっくり返して「一義」にしたという。
小学3年生のとき、下校途中に電柱のワイヤに顔をぶつけ、その際に針金の結び目が右目に突き刺さって失明。2か月休学して治療したものの、視力は戻らなかった。その為、少年時代は眼帯を着けながら生活し、大人になってから義眼を付け加え、それ以降から今のサングラスを掛けながら生活するようになった。
少年時代はお笑いよりジャズ等の音楽に興味を持っており、その他にもアマチュア無線クラブにも入ってアマチュア無線技士の資格も取得していて個人無線も開局し、船の無線通信士にもあこがれた。さらに居合道場も通い、二段を取得するなどやりたい事だらけの日々だったという。また、自身が料理をするきっかけを作ったのは祖母であり、「今の内から男も料理ができるようにならないと、後々奥さんがいざと言うときに困るでしょ。私が料理をしている姿を見ていなさい」と言われたことから、度々祖母の調理姿を見ており、次第に見様見真似で作り始め、学生時代に友人らと料理を作る際には、一人で大体の料理を作ったり、出汁の取り方まで全部覚えていたと語っている。
高校卒業後は一浪を経て早稲田大学に進学。しかし、当の本人は全く勉強に興味は無く、所属したモダン・ジャズ研究会に入り浸りとなり、アルバイトで稼いだ金の殆どはトランペットやサックス等の楽器購入に使い込み、実家から仕送りされて来た学費も全て研究会の旅行やライブ費用として使い込んでしまう。結局学費を払うことができなくなった事から3年次に中退。
しかし、その後もモダン・ジャズ研究会のマネージャー役を続行し、都内のクラブなどを回りながら持ち前の音楽披露やバンドの司会などで月60万円というかなりの収入を得ていた。
だが、そんな生活に家族中は呆れ返り、間もなく上京してきた叔父に福岡に引き戻され、朝日生命の外交員として強制的に就職させられる。
それでも仕事の傍に旧知の仲間と共に密かにバンド活動を続け、あるキャバレーで音楽披露した際にそこへ偶々出入りしていた下記の赤塚不二夫と出会い、それがきっかけに30歳で芸能界入り。芸能界での活動初期の頃、その特異な芸風のため中々所属事務所が決まらなかった時に放送作家の高平哲朗の紹介で現・所属事務所田辺エージェンシー社長、田辺昭知(元ザ・スパイダーズリーダー兼ドラマー。堺正章など元メンバーもかつて同事務所に所属)と出会い、彼から「芸風は自由にやらせるからウチに来てくれ」と口説き落とされ同事務所に所属することとなる。なお、いいとも!とタモリ倶楽部以外の番組サイトでは顔写真が載っている。
赤塚不二夫達に見出されてテレビに出る様になった。
その関係もあって一時期赤塚不二夫宅で居候しており、住居は家賃17万円で4LDKのマンションで車はベンツのスポーツタイプが乗り放題、赤塚からは月に20万円の小遣いが渡されるという破格のものだった。タモリが考える居候の秘訣は「卑屈になるな」。
ただし赤塚がその家にいることは滅多になく、実際には居候というより家を家財含めてまるごと貸し出されていると書いた方が近いような状態であったとされる。
まさに大恩人とも言える赤塚の葬儀では、白紙を持って8分弱の弔事を読み上げ、その弔事の最後に「私もあなたの数多くの作品の一つです」と締めくくっている。
喫茶店のマスターをやっていたころ、ウィンナーコーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すというギャグマンガでやりそうなことを実際にやっていたなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。
性格
好きな言葉は「妄想」で嫌いな言葉は「等身大の◯◯」「自分らしさ」、座右の銘は「適当」「現状維持」「やる気のある者は去れ」など多数。
仕事も何でも「反省はしない」。「反省ばかりしてるとバカバカしくてこれから先、やっていけない」「過去を振り返らない」と語る。自ら出演している番組は恥ずかしくて一切観ない。『週刊朝日』の取材に答えた際、『いいとも!』の長寿の秘訣について、「番組についての反省を一切しないこと」と述べている。
芸能界入りする際、次の4つの戒律を自らに掲げたと言われている。
- だれの弟子にもならない。
- 組織には属さない。
- 頭をなるべくさげずにカネをもうける。
- 色紙にサインをするときは、名前の横に添えるモットーのようなものは持たない。
適当さ・ゆるさ・自由さ
やる気の無さや収録の適当さを前面に出しており、あまりのやる気の無さに時折「やる気を出せ〜」などと突っ込む共演者にも、「俺は名前を貸しているだけだ」と全く悪びれない。
一部では「多くの番組を持つタモリは番組の収録を一番楽しんでいるのではないか?」と言われている。スタッフによれば「タモリさんの肩の力を抜いたスタンスだからこそ20年以上も多くの番組が長続きしており、長寿番組を数多く持っている」のだという。
但しあまりにやる気の無い、適当極まりない態度を取る者の事は良く思わず、笑っていいとも!の放送中にそのような態度を取っていたトミーズ健にその場で怒りをあらわにし、周囲を大いにビビらせた事もある。
身体的特徴
小柄であり「年を取ってくると背が縮むんだよ」とよく言っている。なで肩であり、ショルダーバッグなどを肩に掛けるとすぐにズレ落ちると自ら語る。小学校時代のあだ名は「矢印」だったという。
身長を上にサバを読むことがあり、他のタレントと背を比較する時には「俺が182cmあるから」「昔は180cm以上あってわざと整形してお笑いサイズにしたんだよ」「180cmあったんだけど年がいって縮んだんだ」「遠近法で小さく見える」などと、ウソをつく。一方で長身の芸能人や歌手(例えば布袋寅泰)と並ぶと「俺が子供のように見えてしまうので嫌だ」などと発言する事も。
髪型は当初からオールバックというスタイルは変わらないが、時期によって分け目が変遷している。デビュー当時は真ん中分けにし、『いいとも!』出演時は番組開始時から7:3に分け、1990年の事故をきっかけに、現在の分け目のないスタイルに至っている。
自ら肌が綺麗なことや肌が白いなどと主張している。両腋毛は2本しかない「オバQ」だと言っている。
小学生の頃に右目を怪我で失明しており、現在も隻眼である。それもあってか、デビュー当初はキャラクター付けの一環としてアイパッチを装着していた。トレードマークのサングラスも隻眼と関係しているのではと言われる事があるが、出典が無いため真相は不明。
実は芸能界で一二を争うほど腕相撲が強いという。
芸風
番組内でよく「俺は昔○○(例えばダンサー、歌手、外国籍、モデル 、ラッパー、子役など)だったんだよ」といった冗談を言う。特に、「俺はジャニーズシニアの一員だ」「俺は『ZOO』にKAZU(カズ)の名前で所属していた」などとコメントするのがお約束となっている。後者の件は、ZOO解散前の最後のテレビ出演となった『ミュージックステーション』において、タモリも曲中のダンスに参加したことに由来する。また、元ZOOのHIROがリーダーを務めるEXILEで新メンバーを募集した際には、『ミュージックステーション』にて自ら「KAZU」の加入を推奨していた。
特徴のある芸能人や素人(一般出演者)、効果音やBGMなどをすぐにそこで覚え、ものまねをして披露したり、同じく特徴のある芸能人や素人の顔をフリップボードなどに似顔絵として描くことを得意としており、実際に似ていることも多い。
テレビドラマや映画の長くて読みにくい題名になると、無理矢理短文にしたり、アルファベットの頭文字をとって略したりする。
「戦後最大の素人芸人」を自称していたデビュー当時は、常にアイパッチを使用していた。お笑いタレントでありながら愛想笑いやヨイショ芸をせず、どこかインテリ風で何を考えているか分からないという革命的な芸風だった。サブカルチャー好きの若年層には好評を博すが、中高年層には強い印象を与えつつも「薄気味が悪い」と不評であり、「恐怖の密室芸人」という評も与えられていた。そのため、かつては深夜にしか見れない芸人だった。本人曰く「俺は江頭2:50みたいなヤツだったんだよ」。すなわち、型破りなスタイルを貫く地下芸人の先駆者でもある。
密室芸
デビュー当時の芸を「密室芸」と称し、「中洲産業大学芸術学部・西洋音楽理論教授」や「タモリ教授」、「森田一義助教授」といった架空の肩書きをしばしば名乗り、「ハナモゲラ語」「イグアナのモノマネ」「4カ国親善麻雀」などを披露するというものだった。当時はあまりモノマネの対象とされていなかった朝鮮語(北朝鮮のアナウンサー)やベトナム語も取り上げている。
特に評価の高いモノマネに「寺山修司」がある。これはしゃべり方や身振りの模写のみならず、話す内容自体はタモリ自身が考えたものでありながら「いかにも寺山修司が語りそうな物言い」をするという点(寺山自身が生前、喋る内容や論理の組み立て方が自分と同じと語っていた)で画期的であり、それ以前の政治家のモノマネや歌手の歌真似を中心とする「声帯模写」芸とは題材やアイデアの面で一線を画し、後の「モノマネ」に多大な影響を与えた。
こうした芸は「思想模写」と称され、レパートリーとして「野坂昭如」や「竹村健一」などがあった。他では田中角栄、大橋巨泉、永六輔、横井庄一、浦辺粂子、久米明、安藤忠雄など他多数存在する。このタモリの密室芸は、『徹子の部屋』の年末のゲスト出演で、黒柳との打ち合わせ(練習)もなく本番、一発勝負で披露している。筒井康隆は「奇人タモリの演じる文化人たちの物真似が受けるのは、何を言っているのかわからないことは本物とまったく同じでありながら、何よりも本物より面白いことだけははっきりしているからである」と評した。
モノマネでは他に、麻生太郎(衆議院議員・内閣副首相)の口と声マネ、森山周一郎(声マネ)、滝口順平(声マネ)、笑福亭鶴瓶、石原良純、おすぎ&ピーコ、三宅裕司、横山弁護士、GACKT、DAIGO、ボビー・オロゴン、渡部陽一、コカドケンタロウ(ロッチ)のアゴまね、生まれたての子馬、バグパイプ、携帯電話のバイブ、ジャングルにいるオランウータン、毛玉が喉に詰まった猫、童謡の女性の歌い方、北京放送、トロを食う男、ハエ、ハイエナ、コンドルの着地など、多彩なレパートリーがある(動物の芸に関しては、動物園関係者から「タモリのものまね芸の御蔭でイグアナの知名度が上がった」と言う証言がある)。
著名人との芸
片岡鶴太郎...タモリと「キューちゃん」のマネを必ず行う。ちなみにこれは『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』(フジテレビ系列)に出てきた九官鳥がモデルとなって現在でも続いている。
間寛平...お互いに猿の真似をしながらスタジオ中を駆け回るのが恒例の芸である。(いいとものゲストで来ると、コーナーぎりぎりまでやることがある。)
小松政夫...「製材所」である風景をネタとしてしばしば披露する。
見立て芸
見た目に特徴のある共演者や一般出演者(素人)をイジることが多く、特に若手芸人と共演した際には、特出すべき特徴を瞬時に捉え「○○みたいだよね」と何かに見立ててイジることがある。
(主な人)
- 河本準一...河本の顔に対して、「のりしろ?」と聞く(顔の大きさに比べて目や鼻などのパーツが中央に寄っており、周りが余っていることから)。
- 岩尾望..「カピバラ?」と聞く。
- 三村マサカズ...顔が日に焼けて黒いので「濡れ煎餅」とイジる。
- 福田充徳...「さつまあげ」といじる。
- ユースケ・サンタマリア...「常に顔が必死」と評す。また、「テレフォンショッキング」でユースケから花が届くと「カタカナの人」「私、カタカナが読めません」「カタカナが多い、こんなにカタカナが多い人はこの人ぐらいだよ」と茶化す。
口癖
主に『笑っていいとも!』で使用していた。
- 髪切った?
- 一旦、コマーシャルでーす
- これ貼っておいて(近年は語尾に「ちょうだい」を付ける)
- んなこたない(そんなことはない)
- 来てくれるかな?
- 見てくれるかな?
- 行ってもいいかな?
- そうやって食うのが一番美味いんだよね
- あーそう。
- へぇー(感心する時)
- スタイルいいよね(モデル系のゲストに対して)
- 顔小っちゃいよね(同上、もしくは安室奈美恵に対して)
- それは言いますまい
- 友達の輪ッ!!
- 安産スッポン
- 今が一番、眠い時なんだよ。(『FNSの日』の『増刊号生スペシャル』の冒頭で必ず口にする)
など。
なお、上記の口癖のうち一部はあまり使わなくなっている。原因は不明だが、近年コージー冨田などがものまねのセリフとして多用したことが影響していると見られる。また、冨田と共演しないのは亡くなったマネージャーの意見を尊重してだ、と笑福亭鶴瓶がラジオで語っていた。
博多人のウンチク
他の都道府県人が博多人に抱くイメージに対し、「実際の博多人はこうである」と以下のように話す。
- 辛子明太子をほとんど食べない。
- 博多ではラーメンよりうどんの方がよく食される。そのうどんの麺にコシは全くなく、唇で噛み切れるほどやわらかい。
- 他の都道府県人は博多の人が何でも語尾に「たい」を付けると思っているが、「この魚は鯛たい」とは言わない(「たい」を付ける場合もあるが、全てに「〜たい」が付くわけではないという意味)。
BIG3
お笑い界の大御所、ビートたけし、明石家さんまと共に「BIG3」と呼称されたが、『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』、『タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀のゴルフマッチ』(両方はフジテレビ系列)などの番組終了後、2012年現在は「BIG3」を冠した番組はない。
2008年度にタモリ・たけし・さんまが日本テレビ開局55年記念として3夜連続でバラエティ番組に登場した(タモリは『タモリ教授のハテナの殿堂?』に出演)。
“BIG3”の歴史を語る上で、欠かすことのできない人物が、元フジテレビアナウンサーの逸見政孝である。ちなみに1993年度の『NHK好きなタレントランキング』ではタモリ、たけし、さんま、所、そして逸見の5人がベスト5を占めていた。
2012年に久々に3人の鼎談が実現、さんまの昔の家やゴルフ対決の頃の思い出に花を咲かせ、視聴者は大満足した。
ビートたけし
BIG3以前に1977年に赤塚らと結成した『面白グループ』にたけしも入っていたが当時のたけしはタモリの芸風を嫌って、すぐに脱退した。その後いいともにたけしと共演したことで本格的に交流することになる。
BIG3の名物の一つである車庫入れではたけし(+逸見)のおふざけの片棒を担いでさんまのレンジローバーの鍵の差し込み場所を教えたりするなど、さんまを弄りまくっていた。
ある日たけしが楽屋に戻ると、スタッフから「先程タモリさんが見えました」と言われたので、「なんだろう?」と思いつつタモリの楽屋へ行った。するとタモリは、「たけちゃん、引退する時は俺に言ってくれ。一人で(芸能界に)残るのは寂しいから」と述べており、これに対したけしは「その時は必ずタモちゃんに話すよ」と語っている。
ちなみに、横澤氏は、「笑っていいとも!」の司会を当初はたけしに託そうとしていたが、たけしに断られたため(躁鬱の気があるため、毎日同じテンションを維持するのは無理、という本人の弁)、タモリに託したという。
明石家さんま
かつて、いいともレギュラーでありタモリと共に立ち談話するタモリとさんまのトークコーナーは、テレビで初めて雑談と言うコーナーを作った。いいともレギュラーを降板してからもテレフォンショッキングでゲストとしてたびたび出演しており、その際コーナーがいつもより長くなるので後のコーナーがなくなったりする。
さんまの自宅で開催された餅つき大会に招待されたことがあるが、タモリは前髪を下ろし、サングラスではなく普通のメガネをかけるという出で立ちで、来るや否やさんまの自宅のこたつに入り、ただ餅つきを静観していたという。さんまや大竹しのぶもその男がタモリと気付かず、長男に至ってはタモリの目の前で「ねぇ、タモリどこにいるの?」と大声でさんまに尋ねた。するとタモリは「(来るのは)もうすぐだよ」と言ったという。この時、当時さんまの妻であった大竹しのぶが「何、あの人」と初めて他人の悪口(?)を言っていたとさんまが語っている。
余談
特徴的な外見から漫画、アニメ、ゲームなどにタモリが元ネタと思われる外見のキャラクターが登場することが黒柳徹子以上に多い。
主な主演番組
出演中
- ミュージックステーション(1987年~)
- ブラタモリ(2008年~、現在は不定期放送)
- 世にも奇妙な物語(1990年~、不定期特番で今も放送中)
放送終了
- スター誕生!(1980年~1981年)
- 今夜は最高!(1981年~1989年)
- 笑っていいとも!(1982年~2014年)
- タモリ倶楽部(1982年~2023年)
- タモリの音楽は世界だ(1990年~1996年)
- ボキャブラ天国(1992年~1999年)
- ジャングルTV タモリの法則(1994年~2002年)
- トリビアの泉(2003年~2012年)
- ジャポニカロゴス(2005年~2008年)
- エチカの鏡(2008年~2010年)
- ヨルタモリ(2014年~2015年)
関連タグ
エージェント・スミス、T-800:レイバン繋がり。