概要
1911年8月20日、ハワイ・ホノルル出身。本名は灰田稔勝(はいだ としかつ)。
明治政府の移民政策によってハワイに移住した医師・灰田勝五郎の三男として生まれる。
1920年に父が過労で急死した後、納骨のため1922年に帰国し父の故郷広島市に墓を建立する。
しかし関東大震災を機にハワイに戻ることを決意し、荷物をまとめて船の切符を確保したところで震災の混乱で所持品を全て盗まれ、日本滞在を余儀なくされる。
父の遺志を継ぐべく兄の可勝と共に獨協中学に進学し医師への道を志すが、サッカーに熱中し成績は芳しくなく、医学部を諦め1930年に立教大学予科に進学。大学では野球に熱中する一方、在学中の1931年に可勝が主宰した日本初のハワイアンバンド「モアナ・グリークラブ」でボーカル兼ウクレレ奏者として活躍した。
1933年頃から可勝は晴彦、自身は勝彦と名乗るようになる。
1936年に大学卒業後、日本ビクターと正式に専属契約を結び「ハワイのセレナーデ」でデビュー。1937年にハワイ音楽にコミカルな歌詞をつけた「真赤な封筒」が初ヒットする。
日中戦争の影響でレコード業界も戦時色が強くなる中で流行歌も歌唱するが、「雨の酒場」がヒットの兆しが見えてきたころに戦時下に相応しくないとして発売中止の処分を受けてしまう。
このころには俳優として東宝系のJOスタジオと専属契約し、『たそがれの湖』でスクリーンデビュー。
同年暮れに『人生競馬』の撮影中に召集令状を受け取り中国大陸に出征。慣れない生活と気苦労から重度の黄疸を患い、野戦病院で静養した後内地に送還された。
1939年に応召が解除され、同年暮れに歌手として活動を再開。
1940年に高峰秀子と共演した『秀子の応援団長』では、高峰の歌った主題歌「青春グラウンド」のB面だった「燦めく星座」が40万枚の大ヒット。一躍全国的なスターとなる。
戦争映画『燃ゆる大空』では爆撃機のパイロットを演じ、不時着して負傷した上官を背負って「故郷の空」を歌う場面は若い女性の涙を誘う名シーンとなり映画俳優としての人気も確立していった。
その後も「こりゃさの音頭」「お玉杓子は蛙の子」「森の小径」とヒットを連発、日米開戦後も「マニラの街角で」「ジャワのマンゴ売り」「新雪」「鈴懸の径」と絶大な人気を誇る一方、甘く切ない歌声が感傷的で戦時下に好ましくないと当局から睨まれていた。
しかしその中でも「バタビアの夜は更けて」「加藤部隊歌」「ラバウル海軍航空隊」とヒットを連発。『ハナ子さん』、『誓いの合唱』などスクリーンでも活躍を続けた。
戦後傷病兵として復員し、芸名の勝彦を本名とした。
戦後も「新雪」や「燦めく星座」のリバイバルをはじめ「紫のタンゴ」「東京の屋根の下」と大ヒットが続く。
1948年には戦争で関係が引き裂かれていたハワイのフローレンス君子と結婚。
スクリーンでは『歌え太陽』をスタートとし『花くらべ狸御殿』『銀座カンカン娘』『狸銀座を歩く』などミュージカル映画に出演。
自ら企画した『歌う野球小僧』は上原謙、笠置シズ子らの共演で大ヒットし主題歌「野球小僧」は野球好きでもあった自身のテーマ曲になった。
「アルプスの牧場」では見事なヨーデルを披露し、1950年代にも「水色のスーツケース」「新橋駅でさようなら」とヒット曲を連発。
1952年には民放ラジオにおけるCMソング第1号とされる小西六フィルム(現:コニカミノルタ)の「僕はアマチュアカメラマン」を歌唱。NHK紅白歌合戦では初期の常連大物歌手として通算6回出場した。
昭和30年代には人気に衰えが見え始めたが、その後もテレビやラジオに出演、作曲も手掛けるようになる。
晩年には懐メロブームの中で欠かせない存在として活躍し、芸能生活45周年を迎えたころに淡谷のり子とともに現役のエンターテイナーとして健在を示すべく企画を進めていたが、1982年5月21日に銀座の高級クラブで行われたショーの最中に体調不良を訴え数日後入院。
軽度の脳出血だったがその後肝臓がんが発覚。半蔵門病院に再入院する。
治療を続け体調も回復していたが、10月26日に朝食後に容体が急変、71歳で死去した。