加藤隼戦闘隊
かとうはやぶさせんとうたい
エンジンの音 轟々と
隼は征く 空の果て
翼に輝く 日の丸と
胸に描きし 赤鷲の
印は我等が 戦闘機 飛行第64戦隊部隊歌『加藤隼戦闘隊』
加藤隊長着任以前(1938-1941)
1938年8月、河南省安陽の影徳飛行場で飛行第2大隊第1・第2中隊と独立飛行第9中隊が合流する形で編成。初代飛行隊長は飛行第2大隊隊長の寺西多美弥少佐。
この飛行第2大隊は日中戦争初期から活躍しており、これらの武勲から1938年3月には第2中隊が帝國陸軍の飛行部隊において初めて部隊感状を拝受、4月には大隊全体が部隊感状を拝受するなど帝國陸軍有数のエース部隊だった。
加藤達夫大尉は飛行第2大隊第1中隊長を務めていたが、1938年5月に陸軍大学校(専科)への入校と陸軍航空本部員拝命の辞令を受けて帰国しており、飛行第64戦隊の編成当時は内地にいた。
1939年のノモンハン事件では2代目戦隊長横山八男少佐が撃墜される(生存)など激しい戦いを繰り広げた。
加藤隊長着任(1941)
航空本部員として欧米を歴訪していた加藤少佐は1941年4月に飛行第64戦隊の4代目隊長に就任。ここに「加藤隼戦闘隊」が誕生したことになる。
6月には飛行第64戦隊となって初の部隊感状を拝受した。
1941年8月には帝國陸軍最新鋭の戦闘機「一式戦闘機『隼』」への機種改変のため帰国。9月までに多摩陸軍飛行場(現横田基地)で機体を受領した。
ちなみに「隼」を受領した部隊は飛行第64戦隊が最初ではなく、1941年5月に受領した飛行第59戦隊が初。こちらも飛行第64戦隊に負けず劣らずのエース部隊だった。
実は加藤自身は「隼」の採用には当初否定的な見解を示していただけに、機体を受領してからの「隼」にかける情熱は周囲を驚かせている。
南方作戦(1941-1942)
1941年12月、開戦に備えてマレーに向かう山下奉文中将以下第25軍の夜間空中護衛を実施。夜間の洋上、それも悪天候という困難な任務に3機の未帰還を出したが任務を完遂した。
その後もマレー作戦を上空から支援し、作戦を成功に導いた。
この際に本来上層部から指示された範囲を超えて独断攻撃を行い、その結果整備員の派遣が追い付かないという事態を招いた。
1942年2月のパレンバン空挺作戦では、空挺部隊を載せた輸送機の護衛に参加。1機の被害もなく逆に敵ハリケーン戦闘機2機を返り討ちにする(さらに2機が燃料切れを起こして不時着した)活躍を見せた。
このタイトルで知られている軍歌だが、実際に作られたのは加藤が飛行第64戦隊に着任するより前の1940年2月。
第64戦隊第1中隊(隊長:丸田文雄中尉)が部隊の士気高揚を目的に作られたものだが、全隊員の要望を受けて「飛行第64戦隊歌」として部隊歌となった。
1941年1月にニュース映画で国民に向け初公開され、後述の映画で事実上の主題歌として扱われた。
映画公開に前後してレコード化。タイトルは「加藤部隊歌」だったが、もっぱら映画のタイトルと同じ「加藤隼戦闘隊」と呼称されるようになった。
A面 | 加藤部隊歌 |
作詞 | 田中林平准尉(飛行第64戦隊) |
作曲 | 原田喜一軍曹、岡野正幸軍曹(4番のみ)(ともに南支那方面軍楽隊) |
歌唱 | 灰田勝彦、日本音響合唱団 |
B面 | 隊長殿のお言葉に |
作詞 | 佐伯孝夫 |
作曲 | 清水保雄 |
歌唱 | 灰田勝彦、小畑実、貴嶋正一、大谷禮子 |
発売元 | 日本音響(ビクターレコード) |
曲中の「胸に描きし赤鷲」とは当時操縦席側面に描いていた部隊章の意匠なのだが、「隼」への機種変換に前後して部隊章は「垂直尾翼に斜め矢印」に変更されており「隼」には赤鷲は描かれていない。
飛行第64戦隊はその華々しい活躍ぶりから戦時中の1944年に映画化されている。監督は『ハワイ・マレー沖海戦』も手掛けた山本嘉次郎。
原作は飛行第64戦隊隊員だった檜與平中尉と遠藤健中尉。檜は終戦まで生き延びたが、遠藤は原作上梓前の1943年5月に雲南で戦死している。
主演は東宝の俳優で陸軍での兵役経験があった藤田進。前述の軍歌「加藤隼戦闘隊」を歌った灰田勝彦も落下傘部隊の隊員役で出演している。
制作には陸軍省報道部、陸軍航空本部、各陸軍飛行学校、各基地など全面協力を受け、実際の「隼」などの帝國陸軍航空機はもちろんのこと、F2AやP-40といった敵機までも鹵獲した実機を用いて撮影している。一部に東宝の過去作品『翼の凱歌(1942年・山本薩夫監督)』や南方戦線での記録映像の流用も含まれているが、大部分が本作のために新規に撮影したものである。
爆撃シーンはさすがに円谷英二による特撮だが、爆撃で破壊される建物の横を逃げ回るイギリス軍将兵を移動マスク合成するなど非常に完成度の高い映像が見られる。
助監督として参加した本多猪四郎はこの作品で初めて円谷と対面した。
本多は『ハワイ・マレー沖海戦』で円谷の特撮に感銘を受け、現場では撮影よりも円谷に特撮の質問をしていたという。
パレンバン空挺作戦のシーンでは30台ものカメラが動員され、カメラマンも挺身兵の衣装を纏い空挺降下を行った。
カメラマンとして参加した古澤憲吾がこの話を誇張して「パレンバン空挺作戦で一番乗りした」と自称していた話も有名である。
「隼」の飛行シーンは戦後の『太平洋の鷲』に流用されている。