来歴
1919年3月30日、佐賀県鳥栖市出身。一部資料では大正12年(1923年)生まれと記載されている。
1943年に日本大学専門部美学科を卒業。同年に海軍航空隊に入隊。
1944年に『加藤隼戦闘隊』で助監督兼エキストラの空挺隊員役で参加。
1945年に復員し日大に復学。1947年に卒業した。
1948年に東宝の監督部に入社。市川崑、渡辺邦男、松林宗恵、本多猪四郎、稲垣浩、鈴木英夫らの助監督を務めた。
1959年に『頑張れゴキゲン娘』で初監督。
1962年に『ニッポン無責任時代』が大ヒットしたことから、東宝の娯楽映画を多数手がけた。
1970年に東宝を退社。東宝在籍時代から構想していた大作映画『アジアの嵐』を企画していたが実現することはなかった。
1997年1月16日死去。享年77。
人物
海軍航空隊時代にパレンバン空挺降下作戦で一番乗りしたと自称しており、砧の撮影所では「パレさん」という愛称で呼ばれていた。しかし実際に古澤が海軍航空隊に入隊したのはパレンバン空挺降下作戦より後であり、同じく海軍で従軍経験のある松林宗恵も「あれはでまかせ」と語っている。
一説には『加藤隼戦闘隊』参加時にパレンバン空挺降下作戦の隊員役でエキストラ出演していたことを誇張していたといわれている。
クレージー映画や若大将シリーズのタイトルバックで画面の奥からタイトルロゴやクレジットが飛び出してくるド派手なオープニング演出や、空撮・俯瞰ショットの多用、なにかと「軍艦行進曲」や「人生劇場」を流すなど独特の作風で知られる。
特に『クレージー作戦』シリーズでは独自のカラーが出ており、坪島孝がスローモーな技法で谷啓の主演作や長尺の海外ロケものが強かったのに対し古澤は特撮やカーアクション等の犯罪アクションものが強かった。
前述のパレンバンの逸話のほかにも「原節子は俺に惚れていた」などのホラ話を吹き、いつも黒ずくめだった岡本喜八に対抗したのか白ずくめで現場に立ったり監督になっても大声で時計を撮ったりし岡本を呆れさせるなど奇抜なエピソードも多い。故に、同期同然だった岡本も古澤には一目は置いていた。
夏木陽介によると白ずくめは助監督時代からトレードマークだったそうで、『密告者は誰か』で川の中を走るシーンでスーツが汚れるのもいとわず演技指導を行ったことに感心して仲良くなったと語っている。
ちなみにその後夏木は『今日もわれ大空にあり』で古澤に結婚を勧められたが、古澤が連れてきたのは本作で共演し当時東宝に入社したばかりの酒井和歌子(当時15歳)だったという。
また声の大きい監督としても知られた。撮影中はとにかく大声で指示を出し、佐藤允によると演出のこだわりの強さから厳しい指導をしたこともあったらしい。
さらに撮影中に怪我をすることも多く、オープンカーの移動撮影中に車から転げ落ちて松葉杖をつく大怪我を負ったこともある。『日本一のゴマすり男』では飛行場から反対されたにも拘らず、セスナの着陸シーンを古澤自らカメラマンを乗せたリヤカーを引っ張り撮影を強行。その結果、実写で迫力のある映像を撮り上げた。
「なんでもいいからキャメラを回せ」、「動きがないと勢いが生まれない」と勢い任せな言動も目立つが、中野昭慶によると意外と繊細な一面があり勢い任せな撮影はしなかったという。
ただ前後に脈絡のない「中抜き撮影」を多用したことは出演者も困惑し、困り果てた浜美枝が疑問を呈すると「何も考えなくていいんだ!」と返されたという。
関西の拠点だった宝塚映画の『海の若大将』では「観覧に来てくれれば、賞金がもらえ加山雄三の歌を聴かせる」と新聞広告を出し、観覧に押し寄せてきた関西の加山のファンにエキストラとして参加してもらったなどアイデアマンめいた逸話もある。
特に人見は初期は大変だったといい、『ニッポン無責任野郎』では他愛のない顔の演技で苦労をしトラウマになったという。映像は、「お察しください」。また『ホラ吹き太閤記』では柴田勝家を演じたが、役で気が大きくなったのか古澤に意味なく怒鳴られたら人見は逆に反論したという。それ以降は、坪島孝にも使われ古澤とも『日本一のヤクザ男』まで担当作全てでコンビを組んだ。
クレージーの犬塚弘もソリが合わなかったというが、『クレージーのぶちゃむくれ大発見』では後楽園ホテルの観覧車を自身の意思で本当によじ登り逆に古澤を見返したという。
特撮映画『青島要塞爆撃命令』では「特撮は迫力がない」と円谷英二と対立。円谷から「特撮なしでやってみなさい」と言われて挑戦するが結局円谷に詫びを入れに行ったという。その後『今日もわれ大空にあり』で困った個所が出て、古澤は機器をこっそり持ち出しインチキ特撮をやるも失敗し合成でごまかした。故に再コンビ作の『大冒険』は、上層部の要請と自身のしくじり教訓からの顛末だった。
だが円谷も古澤の手腕を軽視しておらず、古澤の特技である空撮技法を特撮でも応用。ミニチュア・セットと共に、ソリの合わぬ者同士でのリアル感のある映像を撮り上げた。
また古澤初のシリーズものである『アワモリ君乾杯!』では大作にしてメイン格の『世界大戦争』の併映と知ってか、カバンの取り違えで銀行ギャング団に命を狙われたアワモリ・大学の凸凹コンビと追撃戦で巻き込んだ白バイ隊員らは東宝の砧撮影所に乱入し『世界大戦争』での主人公の田村家に一家の面々がいる中で逃げ込んだニセ警官のギャング団を見つけるや滑り台がある田村邸の裏庭の勝手口から土足で卓袱台を乗り越えて突撃侵入し乙羽信子と星由里子は唖然呆然とし家主の田村茂吉…じゃなくて『社長』シリーズの怪漢や『駅前』シリーズの坂井次郎ばりの顔で「何だい?!どうなってんのこれ?」とフランキー堺や松林監督らスタッフ達を激怒させるわ小道具・美術倉庫へ行ったら『大坂城物語』の大仏は出るわ『日本誕生』のヤマタノオロチが出てアワモリをビビらせるわ『宇宙大戦争』のナタール星人が出た挙句にモスラによってギャング団をやっつけて警官隊に包囲され御用という特撮班を巻き込んだ大騒動なクライマックスを撮り上げ『世界大戦争』を先に観て真っ暗な気持ちになっていた観客達のド肝を抜いた。
古澤がチーフ助監督で坪島が作品係で参加し2人を大いに感化させた『あっぱれ一番手柄 青春銭形平次』を撮った市川崑は、助監督時代の古澤を「純情だったり寂しがり屋だったり、右寄りだったり左寄りだったり不思議な男なんですよ」と語っている。
政治思想においては松林宗恵が「ホントの右翼」と称したほどで、『アジアの嵐』は東京裁判を批判するかなり右寄りの企画だったという。自身の作品のタイトルロゴが赤かったのも日の丸にちなんでのもので、現像所ではこの赤のことを「パレ赤」と呼んでいた。
また古澤作品は必ずこの「パレ赤」のタイトルロゴが出てから「終」が表示されるようになっていた。
東宝退社後は名を「全隠(まさとし)」と改め消火器の販売や駐車場の管理で生計を立てていた。しかしある日消火器を売り付けに行った相手が左翼映画の巨匠でもある山本薩夫だったために慌てて引き返したという。
「古澤監督の評判は他社の撮影所でも相当知れ渡っていた」と言われた通り、正に波乱万丈な生涯だった。
オープニングでの空撮シーンも後に「日進月歩で変わる東京の街並み等をカラーフィルムで残した事は歴史的意義が大きい」と言われ出した上に、『ホラ吹き太閤記』で試みた空撮の合戦シーンを稲垣は「時代劇でヘリコプターを使うのはおかしい」と言っておいて自作の『風林火山』でちゃっかりパクって後の映画・TVの合戦シーンにも技法として多用されるなど変革を起こした事も最大の偉業だった。
クレージー映画等で坪島孝共々再評価されていったように、古澤もまた「伝説の職人監督」として永遠に語り継がれるだろう…。
ありがとう…。パレさん…。
監督作品
映画
- 頑張れゴキゲン娘(1959年)
- アイ・ラブ・ユウ(1959年)
- 僕は独身社員(1960年)
- 大空の野郎ども(1960年)
- サラリーマン 奥様心得帖(1961年)
- 青い夜霧の挑戦状(1961年)
- アワモリ君シリーズ
- アワモリ君売出す(1961年)
- アワモリ君乾杯!(1961年)
- アワモリ君西へ行く(1961年)
- 重役候補生No.1(1962年)
- クレージー映画
- ニッポン無責任時代(1962年)
- ニッポン無責任野郎(1962年)
- 日本一の色男(1963年)
- 日本一のホラ吹き男(1964年)
- ホラ吹き太閤記(1964年)
- 日本一のゴマすり男(1965年)
- 大冒険(1965年)
- 日本一のゴリガン男(1966年)
- クレージー大作戦(1966年)
- 日本一の男の中の男(1967年)
- クレージーのぶちゃむくれ大発見(1969年)
- クレージーの大爆発(1969年)
- 日本一のヤクザ男(1970年)
- 若い季節(1962年)
- 青島要塞爆撃命令(1963年)
- 今日もわれ大空にあり(1964年)
- 続・若い季節(1964年)
- 西の王将・東の大将(1964年)
- 若大将シリーズ
- 海の若大将(1965年)
- アルプスの若大将(1966年)
- 南太平洋の若大将(1967年)
- 幕末てなもんや大騒動(1967年)
- 蝦夷館の決闘(1970年)
- ユートピア(1972年)
- どてらい男(1975年)
- おしゃれ大作戦(1976年)
テレビドラマ
- 流星人間ゾーン(1973年)
- どてらい男(1973年-1975年)
- 小さなスーパーマン ガンバロン(1977年)