概要
本名エドワード・デイビス・ウッドJr.
1950年代のハリウッドで幾つかの珍妙な映画を製作し、死後『史上最低の映画監督』と言う称号を与えられた。彼の手掛けた作品は、どれも商業映画とは思えないほどに完成度が低かったため、生前は全く買い手がつかず、常に極貧生活を強いられていた。
死後、生前に手掛けた映画『プラン9・フロム・アウタースペース』が一部の映画ファンの間でカルト的な人気を集め、再評価されることとなった。ちなみに悪名高いZ級映画『死霊の盆踊り』の脚本を書いたのも彼である。
『ハリウッドの反天才』『映画界のゴッホ』『芸術の突然変異』などの数々の不名誉すぎる異名を持つ。
人物
女装癖があった。これは彼が子供の頃、女の子を欲しがっていた母親に、よく女の子の格好をさせられていたことが影響しているという。
第二次世界大戦に従軍した際にも、軍服の下に、女性もののブラジャーとパンティーを着込んでいた。
かなりのイケメンであり、その上口達者であったため、悪名が知られるまでは映画制作のための資金集めにはさほど苦労しなかったようである。
作風
凄まじいまでの早撮りで知られる。
映画界きっての早撮りで知られるスティーブン・スピルバーグよりも、遥かに早く、1日で20〜30シーンは余裕だったとか。
これは一つのシーンに1テイクしか撮らず、よっぽどのミスが無い限り絶対にNGを出さなかったためである(通常、映画と言うのは一つのシーンを何回か撮影するのが一般的である)。現代ハリウッドの巨匠にも通じた作成手腕だが、あちらが自身の60年近くに及ぶキャリアと熟練のスタッフで固めているのに対し、こちらはお察しくださいな状態であった。
そのため、完成した作品では役者がセリフを棒読みだったり、何を喋っているのか全然聞き取れなかったり、墓石がどう見てもダンボール製だったりと、挙げ出したらキリがないほどに作りの粗さが散見された。
また、シナリオ構成も非常に雑で、メチャクチャな科学考証や破綻しまくったストーリー、中身の無いトークが延々とダラダラ続く会話シーンなど、これも完成度の低さに影響している。
つまり彼の映画は「早い・安い・つまらない」──凄まじい早撮り・超低予算・非常に退屈なシナリオ──の三拍子揃った、弁解の余地も無いクソ映画なのである。
彼の作品を表現する上でこんな言葉がある。
ゴミのような映画は数あれど、映画のようなゴミはエド・ウッド作品だけだ
影響
彼の熱狂的なファンに、映画監督のクエンティン・タランティーノ、サム・ライミ、ティム・バートンらが挙げられる。
このうちティム・バートンはウッド好きが高じて、彼の伝記映画を作ってしまった。
しかも主演はジョニー・デップ。映画ではデップがエド・ウッドの役を演じている。
ウッドの影響を受けた映画監督は、いずれも映画好きが高じて映画界入りを果たした、コアな映画オタクが多い。
評価
一般的にウッドの映画がクソである事実に異論を挟む者は極めて少なく、現在でも評価対象以前の問題とさえ言われてしまっている。彼の熱狂的なファンでさえ、彼を史上最低の映画監督として扱っている。
ただし史上最低と呼ばれてはいるが、まさに「文字通り」史上最低なのかという点については注意が必要だろう。そもそも本当になにも見るべき点がないのであれば、今のように一定のカルトファンが付き、才能ある映画監督らにこぞって偏愛されるというのもおかしな話である。
少なくとも黄金期のエド・ウッド作品にはウッドのやりたいこと、撮りたいものがある程度表現されている。例えばプラン9はどう贔屓目に見てもまごうことなきクソ映画だが、見る側にある程度クソ映画耐性があれば、街がUFOに襲われるような古臭いSF映画をウッドが好きで、金も才能もないなりに頑張って作品を作ったんだろうなというのを見ていて何となく察せられるわけである。
むしろそれが分かってしまうからこそ、情熱と結果のあまりのギャップ、「出来ていなさ」が心に刺さり史上最低と呼びたくなるのであって、何かを表現しようという気概すら感じられない文字通りの史上最低とは、似ているようで全く違うものだということは理解しておくべきだろう。たとえ普通の人にはどちらも等しくクソ映画であるとしても。
買い手も全くつかず、評価もされず、映画で全く成功しなかったにもかかわらず、それでも貧困に耐えながら映画を作り続けた彼の姿勢は後の再評価への兆しとなった。
彼は映画を作る才能こそ無かったが、「映画への愛」という才能は他の巨匠達に引けを取らなかったのかも知れない。
備考
このままだとただの美談で終わってしまうのだが、現実は非情である。「プラン9」の大失敗でプロデューサーが失意の中死亡し、その前には素人集団の中でほぼ唯一まともな俳優であったベラ・ルゴシが死亡するといった事態が起きて精神的に打ちのめされ、エドは酒に溺れるようになったという。
その後の彼が作る映画はただ単に退屈な映画と評価されるにとどまり、晩年は映画製作にもろくに関わらず(というか関われなかった)、エロ小説の執筆などでどうにか食い繋いでいる有様だったと言われている。
エドの将来的な破滅を予期していたのか、恋人のドロレス・フラーは彼の女装癖の発覚と飲酒の悪化を機に交際を打ち切り、作曲家として成功を修めて幸せな人生を勝ち取った。
また、あえてもう一度言うが、彼の映画は本当に最低最悪のクソである。それでも見たいと言う方は、以下の準備(注意)をしておくことをお勧めする。
というかやれ。絶対。
事前に映画について情報収集してから見る
何の予備知識も持たずに見ると、本当にただの駄作という印象しか受けないので、事前にネットなどでどこがどうヒドいのかを下調べした方がいいだろう。少なくとも『ネットに書いてあった通りだ(笑)』と言う程度にはつまらなさも緩和されるだろう。
ティム・バートンの映画『エド・ウッド』をあらかじめ見ておく
最も効率的な方法と言われている。この映画を見た後なら、ウッドの人物像と映画への姿勢を理解し共感できて、彼の映画を100倍くらいは楽しめるとかなんとか(ただし映画そのものの質が変わるわけではないので人にもよる)。
ちなみにウッドの映画は、既に一部の作品がパブリックドメイン(知的財産権が消滅している状態)になっているので、ニコニコ動画などで気軽に視聴できる。
もし視聴する際には、コメントを表示した状態で見ることをお勧めする。そうすれば少しは楽しめる……はずである。
映画『エド・ウッド』
エド・ウッドを敬愛して止まないティム・バートンが彼の人生そのものを映画化した作品。1994年製作の映画だが、エド・ウッドの活躍(?)した1950年代の雰囲気を表現するために敢えてモノクロ映像で撮影したり、エドの映画製作現場を可能な限り忠実に再現するなど、並々ならぬ拘りを感じさせる怪作である。
ティムらしいセンスの良いシニカルなギャグもさることながら、映画への愛情は人並み以上にあるのに肝心の才能がまるで無かったエドの哀しさも含めて「世間に認められなかった者達の悲哀」を巧みに描き出しており、喜劇と悲劇が合わさったような作風となっている。
本作のもう一人の主役とも言えるベラ・ルゴシ(ドラキュラ伯爵のイメージ像を確立させた俳優。晩年は不遇を囲い薬物中毒で死亡)とエドとの奇妙な友情も見所であり、悲哀に満ちたルゴシを演じた俳優マーティン・ランドーはその年の助演男優賞を総なめにしたほどである。
概ね史実通り・・・というか下手な脚色よりエドの人生そのものの方が余程面白いので、誇張はあれどエドの映画人生はウソ偽りなく描き出されているが、一つだけ映画オリジナルの脚色が加えられている。それは制作に行き詰まってやけ酒を飲みに行ったエドが、出向いたバーで天才映画監督オーソン・ウェルズに偶然出くわすという場面である。非才の人エドに天才ウェルズが語りかけた言葉は、”才能”というものに価値観を縛られた人全てに響くものであり、本作が掲げるテーマの一つともなっている。
ある意味、「彼が撮った映画より、彼を撮った映画の方が面白い」と言われる所以を作ってしまった映画とも言える。まぁ、事実だから仕方が無いんだけど。