概要
本名ブラシュコー・ベーラ・フェレンツ・デジェー(Blaskó Béla Ferenc Dezső)。
1931年の『魔人ドラキュラ』で大人気を博す。強烈なハンガリー訛りとエレガントな物腰でドラキュラを演じ切り、現在も続く黒マントと燕尾服をまとい、黒髪を後ろになでつけた貴族然としたドラキュラ像を確立させた。
しかし、高齢と英語下手、加えてドラキュラのイメージがあまりに強すぎたために回ってくる役が限られ、怪奇映画ブームが終了した40年代には人気を失い、B級映画やセルフパロディにせっせと出演する日々が続くことになる。しかも、戦傷を癒すために使っていたモルヒネ中毒にも悩まされるようになってそれがマスコミのネタにされるなど、決して恵まれた晩年ではなかった。
それでも、現在ルゴシは生前のライバルにして天敵であったボリス・カーロフを上回る知名度を得ている。あのエド・ウッドの映画に出演したためである。出演した映画は興行成績はもちろん評価対象以前のゴミだったが、ところどころで見せる老優としての名演技、ウッドとの奇妙で温かく、そして悲しい友情などがコアな映画ファンの間で知られるようになると「忘れられた怪奇俳優」の再評価が始まっていった。
特にティム・バートンというメジャーな映画監督が作成した伝記映画によりルゴシの名声は比較的ライトな層でも復活し、現在でも様々な媒体で彼が出演した映画を観ることができるようになった。
1956年8月16日に心臓発作で死去。遺体は椅子に座ったまま眠るようにこと切れており、膝には楽しみにしていたウッドの次回作が置かれていたという。遺言に従い、遺体は自分に最大の名声をもたらしたドラキュラの衣装を着せられて葬られた。
しばしば「ドラキュラで当てた一発屋」的俳優として語れることが多いが、実際はハンガリーでデビューした頃から多くの映画や舞台で大活躍した売れっ子俳優であり、役者として落ちぶれてしまったのは最後の10数年だけの話であった。
ジャンルもアメリカ時代以外は豊富で、シェイクスピアの舞台を踏んだほどの本格派でもある。
吸血鬼蘇る
ユニバーサル映画のドラキュラ伯爵は、『フランケンシュタインの館(The House of Frankenstein)』(1944年)で復活登場し、『ドラキュラとせむし女(House of Dracula)』(1945年)にも引き続き登場。
ただしこの二作品ではジョン・キャラダイン(John Carradine)がドラキュラ伯爵を演じている。
これとは別に、コロンビア映画が1943年に公開した『吸血鬼蘇る(The Return of the Vampire)』にはアルマン・テスラ(Armand Tesla)という吸血鬼が登場、これをベラ・ルゴシが演じている。
権利の問題でドラキュラとは別個のキャラクターということになっているが、吸血鬼アルマン・テスラは狼男のアンドレアス・オブリー(Andreas Obry)を配下において使役しており、アルマンが斃されたことでアンドレアスの呪縛が解け人間となり、アルマンが蘇るとアンドレアスは再びその支配をうけてしまう。この設定は後年のドラキュラ像に少なからず影響を及ぼしている。
余談
Lugosi という芸名は、彼の出生の地であるハンガリー王国テメシュ城県ルゴシュ市に肖ったもの。
この土地はトリアノン条約(1920年)でルーマニアに割譲されており、現在の表記はティミシュ県ルゴジ市。
『魔人ドラキュラ』撮影時はほとんど英語が話せず、伯爵の台詞は言葉の意味ではなく音で覚えて暗誦していたとも言われている。強い東欧訛りはドラキュラ伯爵を演ずる上では有利に作用したものの、多くの俳優が直面したいわゆるタイプキャスティングの問題は、ルゴシに対しては一層深刻なものとなった。
『フランケンシュタイン』の怪物役はルゴシにオファーがあったものの、最終的にはボリス・カーロフが演じた。怪物役を嫌ったルゴシがオファーを蹴ったとする説と、ルゴシが演じて見せた怪物にジェイムズ・ホエール監督が納得しなかったとする説がある。
ともに欧州からの移住者であり、同時期に怪物役でスターとなったという共通点から、ルゴシとカーロフはしばしば対比されている。一部では初代ロン・チェイニーを加え、怪奇映画界のビッグスリーとして扱うこともある。
ルゴシの方がカーロフをライバルとして強く意識していたようで、両者が共演した作品ではカーロフの名前が先にクレジットされる(つまり役者として格上の評価を得ている)ことなどをかなり気にしていたらしい。
『フランケンシュタインの復活』『フランケンシュタインの幽霊』ではイゴールという映画オリジナルのキャラクターをルゴシが演じ、『フランケンシュタインと狼男』でついにルゴシの怪物役が実現した。
関連タグ
名前の由来がベラ・ルゴシだと著者の板垣巴留がコミック第1巻で語っている)