ハンガリー王国
はんがりーおうこく
1000年にローマ教皇から授かった冠を用いて建国された。
1240年にはモンゴル帝国による侵攻を受け、敗北するもモンゴル軍が撤退したことによって滅亡を免れた。
16世紀になると、南部はオスマン帝国に、北部はハプスブルク帝国に支配された。そして18世紀にはほぼ全域がハプスブルク帝国領となった。
1848年の独立運動は抑えられたものの、1867年にはオーストリア=ハンガリー帝国(以降、澳洪帝国と呼称)を構成するようになる。
1914年、サライェヴォ事件をきっかけに澳洪帝国はセルビア王国へと宣戦布告。これにより第一次世界大戦が勃発。澳洪帝国は中央同盟国として戦うも、敗戦。その結果、ハンガリーを含む構成国が次々に独立した。
その後、ハンガリー人民共和国が建国され、ハンガリーもオーストリアから完全な独立を果たした。しかし、後に極左の共産主義者により国を乗っ取られ、ハンガリー評議会共和国が成立した。だが、共産主義政権はハンガリー・ルーマニア戦争に敗北したために瓦解した。
その後、元海軍所属のホルティ・ミクローシュが摂政へと就任(ちなみに、ホルティ本人は軍人であることを意識していたため政界入りは拒否していたのだが、周辺の同調圧力により渋々就任した)。
その後、第一次世界大戦における連合国主導によるトリアノン条約が成立。賠償金や石炭・家畜などを連合国へと無償提供させられ、さらには多数の領土をチェコスロヴァキア、ルーマニア王国、ユーゴスラヴィア王国、オーストリアへと割譲させられた。
この結果に、ハンガリーの大多数の世論は反発。ハプスブルク家復活の動きもあったが、小協商によって阻止された。だが、ハンガリーはトリアノン条約の破棄や大ハンガリーの復活を諦めてはいなかった。
そんな中、1927年にハンガリーは極右のファシスト・ベニート・ムッソリーニ政権率いるイタリア王国と友好関係を締結。さらには1933年に成立したナチ党率いるドイツ第三帝国とも友好関係を樹立した。特にハンガリーとドイツは、同じ第一次世界大戦における敗戦国であり、チェコスロヴァキアを敵視していたために利害が一致していた。
まず、ハンガリーはオーストリアを巡って悪化していた独伊関係を改善させることに成功。その後、ドイツがミュンヘン会談によりチェコスロヴァキアからスデーテン地方を併合すると、ハンガリーはドイツ主導で行われた第一次ウィーン裁定、さらにはカルパト・ウクライナ共和国やその後のスロヴァキアへの侵攻によって南部スロヴァキア及びカルパティア・ルテニアを獲得した。(ちなみに、残りのスロヴァキアにはドイツの傀儡政権・スロヴァキア共和国が樹立され、チェコはドイツにより併合された)。
その後、1939年にドイツとソ連によるポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。そして1940年ハンガリーは再びドイツ主導で行われた第二次ウィーン裁定によってルーマニアからトランシルヴァニア北部を獲得した。その後、ハンガリーは枢軸国に加盟。1941年にはユーゴスラヴィア侵攻においてもドイツ側として参戦し、勝利すると東部ヴォイヴォディナ等の領土を獲得した。ちなみに、これが第二次世界大戦における最後のハンガリーの領土拡張である。
ちなみに、この時のハンガリーの体制には多数のトリビアがある。
- 元首・ホルティは元海軍提督なのにハンガリーは(領海がないため)海軍を有していない。
- 領土問題を抱えている国々(ルーマニア王国、ドイツ⦅領のオーストリア⦆、スロヴァキア共和国、クロアチア独立国、セルビア救国政府)とは同盟関係にある(これらは全て枢軸国である)。
- ハンガリー「王国」なのに王がいない。
というものである。
その後、ドイツ率いる枢軸国はソ連へと侵攻。ハンガリーもイタリア、ルーマニア、スロヴァキア、クロアチアやフィンランド共和国と共に参戦し、序盤は勝利を続けていった。しかし、スターリングラード攻防戦にて敗北したため枢軸国は劣勢となり、ホルティは大戦からの脱却を計り、1944年には連合国と休戦交渉を開始。しかしこの動きをドイツに察知され、同国によるパンツァーファウスト作戦により失脚。
その後、ハンガリーはファシスト政党・矢十字党率いるハンガリー国民統一政府が支配するようになる。ちなみに、かつて枢軸国だったルーマニアやブルガリアはソ連に降伏して連合国側へ寝返っており、ノルマンディー上陸作戦もあって枢軸国は完全に劣勢になっていた。それでもハンガリーはドイツと共にソ連及びルーマニアを相手に戦うも、ドイツが降伏したことにより敗北。ちなみに、この時ハンガリーの首都・ブダペストは独ソ両軍による戦闘によって荒廃していた。