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スターリングラード攻防戦

すたーりんぐらーどこうぼうせん

独ソ戦において、ソ連領スターリングラードで行われた戦闘。独ソ戦、ひいてはW.W.II規模で見ても最大級の地上戦であり、同時に独ソ戦の趨勢を決する重要な戦闘となった。
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概要

ドイツ軍のスターリングラード侵攻

1942年6月28日から始まったドイツ軍の夏季攻勢「ブラウ作戦」は、工業都市であるスターリングラードとソ連最大の産油地であるバクー油田を目指して順調に進んでいた。
スターリングラード市街をめぐる戦闘は、8月23日のドイツ空軍による猛爆撃とそれに続くフリードリヒ・パウルス大将指揮の第6軍による攻撃から始まった。しかしソ連軍ワシーリー・チュイコフ中将を司令官とする第62軍を中心とした部隊が激しくぶつかり合い、スターリングラード市内の寸土の土地でさえも奪い合う熾烈な市街戦が行われ、市を見下ろす要衛である高地ママエフ墓地には激しい争奪戦のなか絶えず砲弾が撃ち込まれ、その熱により攻防戦の間中には雪が降り積もる事は無かったと言う。
また28日に避難許可を得て、空襲などで多くの犠牲を出しながらも住民の多くが去った市街はドイツ空軍のこれまでの絨毯爆撃で大半が廃墟と化したが、それを防戦するソ連軍は遮蔽物として大いに利用し、スナイパーとして多数のドイツ兵を射殺したヴァシリ・ザイツェフや、後に「パヴロフの家」として知られるアパートに立て籠もり、孤立しながらもドイツ軍の攻撃から最後まで守り抜いたヤーコフ・パヴロフ軍曹率いる部隊などの例の様にドイツ軍に対して頑強に抵抗し、地下道・下水道を利用して後方に浸透し、またボルガ河対岸からもドイツ空軍の妨害を受けながらも、夜間を利用するなどして増援部隊を送り続けた。
だが、本来市街を占拠するだけの戦力は無かったドイツ第6軍も増援を得て、本来市街戦に用いるべきでない装甲部隊、精鋭の突撃工兵等も投入してこれらにも多大な犠牲を出しながら、9月18日に中央駅を占拠して第62軍を南北に分断し、22日には穀物サイロを制圧して南部をほぼ手中におさめ、10月14日には北部のトラクター工場を占領して一部はボルガ河に達し、11月11日には赤い10月工場を占領して第62軍を三つに分断するなど着実に市街を制圧していった。

やがて、当初はブラウ作戦の主攻であるA軍集団によるバグー油田占領の為の東の側面防禦とボルガ河の海上交通の妨害としての意義に過ぎなかったスターリングラードは、10月末までにはバグー油田攻略が頓挫し、またアフリカ戦線でもエル・アラメインの会戦に敗れ、11月4日にはドイツアフリカ軍団は全面後退するなど八方塞のドイツ軍の中で、10月半ばには一部はボルガ川までまで浸透し、市街も大半を占拠するドイツ総統アドルフ・ヒトラーにとっては国民に自軍の優勢をアピール出来る都合の良い戦線となっており、この地の価値を持ち上げる演説なども行っていたが、ヒトラーに冷水を浴びせるかのようにソ連首相ヨシフ・スターリンやソ連軍最高司令官代理ゲオルギー・ジューコフ元帥の立案による反攻作戦の準備が進められていた。

ソ連軍の反攻作戦

9月、ソ連首脳陣は大規模包囲作戦によってスターリングラードを攻撃する枢軸軍を一挙殲滅する基本方針を決め、攻勢兵力の集積を始めた。
11月19日、ソ連軍は三個方面軍、兵力110万、戦車800両からなる「ウラヌス作戦」を発動。19日にまず南西方面軍・ドン方面軍がスターリングラード北側を守るルーマニア第3軍を攻撃、さらに20日には南側を守るルーマニア第4軍をスターリングラード方面軍が攻撃した。これに対してろくな対戦車兵器を持たない14万名ほどのルーマニア2個軍は瞬く間に壊滅し、ルーマニア第3軍の予備兵力のドイツ第22装甲師団は兵力不足で阻止できず、軍集団予備の完全兵力の第29自動車化師団は南部で反撃してソ連第51軍に大損害を与えるも、状況を把握してないパウルス司令官が増援を送らなかったために戦果を拡大できなかったばかりか、上層部により第6軍に編入されて防禦に徹する事となり、ソ連軍の包囲を食い止めることができなかった。23日にカラチで南北より突破してきたソ連軍の二重包囲が完了し、第6軍30万の将兵が包囲下に置かれることになった。

ドイツ軍の開囲作戦と挫折

ヒトラーはスターリングラードでの敗北を認めず、第6軍には撤退を禁じ、空軍による補給を講じたが、悪天候とソ連空軍の妨害で必要量の20%しか輸送できなかった。更に新設のエーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥のドン軍集団からヘルマン・ホト上級大将の第4装甲軍の第57装甲軍団を主力とする救出作戦「ヴィンター・ゲヴィッター(冬の嵐)」も兵力不足ながら12月12日から行なわれ、当初は順調な滑り出しを見せるも、16日にソ連南西方面軍がコーカサスとウクライナの付け根であるロストフを攻略することでコーカサスのA軍集団を分断・包囲する目的の攻勢「マールイ・サトゥルン(小土星)」作戦を開始してイタリア第8軍に襲い掛かった事で事態は一変した。この攻勢に対応しながらの救出作戦は不可能であると判断したマンシュタインはヒトラーに第6軍の撤退許可を求めるも拒否され、次に独断での第6軍への救出作戦と連動してのスターリングラードからの自力脱出を命令しても司令官パウルス上級大将は総統命令と燃料不足からこれを拒絶した。マンシュタインとしても30万余りの第6軍と100万名のA軍集団とを天秤にかければ、ロストフの維持を最優先してA軍集団の後退の援護に全力を投じざるを得ず、22日に第6装甲師団がチル河方面に転出となり、衝撃力を失った「冬の嵐」作戦の続行は立ち消えとなった。

こうして1943年を迎え、第6軍は孤立し飢えと寒さに苦しんでいたが、それでも60万名のソ連軍を拘束しており、早々と降伏してこれらの兵力を解放していればドイツ軍の戦線は後日、マンシュタインが後手からの一撃で立て直す事も不可能であったと思われ、ソ連軍もこの事態に包囲軍を解放する為にもスターリングラードの早期攻略を望んだ。
こうして1月10日に「コリツォー(鉄環)」作戦を発動し、第6軍を圧迫していった。21日にはグムラク飛行場を占拠され空からの脱出は不可能となり、22日にはソ連軍の最終攻勢も始まった。26日には南北に分断されるに至った第6軍であるが、ここまで敵戦力を拘束してきた彼等対してすらヒトラーは降伏を許さず、30日にはパウルスを元帥に昇進させ、ドイツ軍元帥に降伏をした者は一人もいないという事実で軍の英雄的玉砕を望んだが、翌日にパウルスは第6軍司令部だけでと言う形で降伏し、2月2日までには第6軍全てが降伏。最終的にはソ連軍が勝利し、ナチスをはねのける事に成功した。
更に、スターリンの名がつけられたこの地での勝利によりソ連軍はドイツ軍の一個軍以上を完全に消滅させただけでなく、世界にその大敗北を大いに印象付けた。またこの勝利によって穿たれた戦線の大穴はマンシュタインの奮闘で塞がれてしまったものの、1943年のドイツ軍夏季攻勢クルスクの戦いでもドイツ軍が敗れ、それ以降東部戦線での主導権を失ったナチスドイツが敗走を続けて最終的にベルリン陥落による敗戦への道を突き進むことになる契機となった戦いでもあった。
現在でも、太平洋戦争におけるミッドウェー海戦と並び、第二次世界大戦のターニングポイントとして語られることが多い。


余談

●東部戦線とは無縁なフランスパリ地下鉄に、「スターリングラード駅」という駅が存在するが、これはスターリングラード攻防戦でのソ連軍の勝利を記念して命名された。

●ウラヌス作戦におけるソ連軍による両翼からの二重包囲は教科書通りの見事なものとされる。その鮮やかな勝利から、その後もソ連軍は二重包囲を試みるも、ウラヌス作戦ほどのものを再現する事は出来なかった。

●ウラヌス作戦発動時のドイツ軍の予備部隊であった第22装甲師団は、第140装甲擲弾兵連隊と第204装甲連隊第3大隊が第2軍に送られ第27装甲師団に編成され、51両の38(t)戦車は第700装甲補充大隊編成に使われ、装甲工兵大隊はスターリングラード市街で戦闘中と完全な状態ではないうえ、第204装甲連隊は戦車を土塁に入れ、偽装と寒気対策の為に藁で覆っていたが、燃料不足で二ヶ月あまり待機中にエンジンを動かす事無く、手入れを怠った為に棲みつくようになった鼠にエンジンの配線などを食いちぎられ、ルーマニア第3軍の機動予備となる命令を受けて移動中にエンジンが始動しない、進軍中にエンジンが動かなくなる、ショートして炎上する、履帯滑り止めが無い為に横に滑るなどの被害で、目的地に辿り着いたのは104両中40両だけであった。(Ⅱ号戦車2両、38(t)戦車5両、Ⅲ号戦車22両、Ⅳ号戦車11両)
この為にウラヌス作戦が発動した折に連隊長オッペルン=ブロニコフスキー大佐が率いたオッペルン戦闘団は24両の戦車が稼働するのみであったという。
この報告に激怒したヒトラーは第22装甲師団が所属する第48装甲軍団の司令官フェルディナント・ハイム中将を解任し、逮捕してモアビットの独房に入れたという。(ウラヌス作戦の敗北の原因を同盟国ルーマニアに求めない為のスケープゴートに利用されただけとも言われる)
第22装甲師団は1943年3月に解体され、西方から東部戦線に送られて一年余りで蒸発した事から香水師団と呼ばれたという。

●ソ連のアレクサンドル・スヴェチンの提唱による戦略・作戦・戦術を階層とし、戦略と戦術を繋げるものとして作戦を位置づけ、複数の目的を決めた戦役を行う為に作戦をそれぞれ立案し、それらの成功をもって戦略を成功させるなどの理論である「作戦術」であるが、独ソ戦初期にはソ連軍部への大粛清の影響などにより個々の作戦が噛み合わなかったものが、スターリングラードの戦いではスターリングラードで防戦する第62軍を餌に第6軍主力を市街に誘い込み、「ウラヌス」作戦で手薄な側面を衝いてまるごと包囲し、「冬の嵐」作戦に対して防戦する一方で「マールイ・サトゥルン」作戦を発動して「冬の嵐」作戦を結果的に中止させるなど噛み合うようになり、以後、戦略を成功させる為に複数の作戦を駆使するソ連軍に対して「作戦術」の理論を持たないドイツ軍は次第に先手先手をとられるようになっていく。

関連項目

独ソ戦 東部戦線 第二次世界大戦
ルドル・フォン・シュトロハイム:本編終了後、この戦いで戦死した設定になっている。

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