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概要編集

ハプスブルク家の君主が統治した、中東欧の多民族連邦国家である。

1867年にオーストリア皇帝とハンガリー国王を兼ねることに双方が合意し、軍事・外交・財政を共有することで二重帝国として誕生した。


当時はオーストリア=ハンガリー帝国は、イギリスドイツフランスイタリアロシアと並ぶ列強と見做されていたが、第1次世界大戦に敗れて求心力を失った皇帝カール1世が国外逃亡したことで崩壊した。



その領土は広大で、現代のオーストリアハンガリーのみならず、ボヘミア・モラヴィア・シュレジエン・ガリツィア=ロドメリア(ルテニア)・スロバキア・トランシルヴァニア・バナート・クロアチア・クライン・キュステンラント・スラヴォニア・ブコヴィナ・イストリア・ダルマティア・ボスニア・ヘルツェゴビナなどを含む。最盛期の人口は5000万人を超えていた。


首都はウィーンブダペストで、民政においては2つの政府が置かれていた。


表記。編集

ドイツ語表記は、Österreichisch-Ungarische MonarchieまたはKaiserliche und königliche Monarchieである。

マジャル語(ハンガリー語)表記はOsztrák-Magyar Monarchiaである。

日本語では一般に「オーストリア=ハンガリー帝国」と呼ばれるが、別称として「オーストリア=ハンガリー二重帝国」、「オーストリア=ハンガリー」、「オーハン」というものが存在する。


正式名称はドイツ語で

Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone

マジャル語(ハンガリー語)で

A birodalmi tanácsban képviselt királyságok és országok és a magyar Szent Korona országaiである。


これらを日本語に訳すと帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦となる。

帝国議会において代表される諸王国および諸邦がオーストリア帝国を、神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦がハンガリー王国を表している。


オーストリア帝国の衰勢編集

二重帝国にいたる前提として、ハプスブルク家の支配していた領地は領邦と王国の連合体であることを指摘しておく必要がある。すなわち「オーストリア皇帝」はボヘミア国王であり、オーストリア大公であり、ハンガリー国王であり、そのほか諸地域の公・伯であり、その根拠は各領邦・王国においてそのように認められていること、にあったのである。

かつて神聖ローマ帝国に属し、長きにわたりハプスブルク家が君主という状況が定着していた領土西側の領邦ではこれに大きな問題はなかったとはいえ、ハンガリーにおいてはのちに大きな問題になった。すなわち、ハンガリー王国はハプスブルク家を君主として認めるという点においては国内貴族層の合意を得ていたが、あくまでそれはハンガリー王国の古くからの法と国制と自治を認める、という前提のうえであり、しかもオスマン帝国占領下から主要部分が回復してから100年程度しかたっていなかった。ましてやハンガリーは最盛期には神聖ローマをも脅かした大国としての記憶も存在した。かくして、ヨーゼフ2世以降、ハプスブルク家がハンガリー王国領の国制の権限を回収しようとする度に、反感と自治運動を巻き起こすことになった。

(なお、ハンガリーが大国?と疑問を持たれる方もいるかもしれないが、後の帝国崩壊に至るまで「ハンガリー王国領」といえば現在のハンガリーに加えスロヴァキア・クロアチア主要部・トランシルヴァニア・オーストリアの一部をさす、多民族が混住する地域であった)


1848年革命ヨーロッパ中に波及し、ウィーンでも暴動が起こるなど混乱の中、フェルディナント1世の後を甥の若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が継いだ。

しかし、すでに帝国は衰退傾向にあった。


1853年、不凍港獲得を目指すロシア帝国は、オスマン帝国との間に戦端を開く。

これに対し、バルカン半島におけるロシアの影響力増大を恐れたオーストリアは、オスマン帝国を支持した。

このため、ウィーン体制の成立以来友好を保っていたロシアとの関係が悪化した。

これは神聖同盟の完全な崩壊を意味し、ロシアの後押しを失ったオーストリアは、ドイツ連邦内における地位を低下させた。

1859年にはイタリア統一をもくろむサルデーニャ王国との戦争に敗北し、ロンバルディアを失った。

1866年にもプロイセン王国の挑発に乗って普墺戦争を起こし、大敗を喫した。

その結果オーストリアを盟主とするドイツ連邦が消滅してその面目を失うなど、徐々に国際的地位を低下させていった。


そして、この帝国の衰退に希望を抱く人々がいた。帝国内の諸民族である。

オーストリア帝国は、数多くの民族を抱える多民族国家であった。しかし中心都市ウィーンの多数派であるドイツ人・ドイツ語話者が特権的地位を有していることは否めず、19世紀の民族形成の中、ドイツ人以外の民族の自治獲得・権利獲得の運動が各領邦であったが、帝国軍に鎮圧されていた。しかし、衰退傾向にあるこの時期、諸民族は活発に動き出した。

そもそも民族運動が活発なのは、ドイツ人が国内における人口の過半数を占めていないことも原因にあげられる。ドイツ人は帝国内の総人口の24%にすぎず、諸民族が力を持てばどうにも抑えようがなかった。

帝国は改革を余儀なくされたが、改革路線として2つの道があった。

  1. ドイツ人支配をあきらめ、諸民族との平等な関係にもとづく連邦国家とする。
  2. 帝国内人口20パーセントを有するマジャル人(ハンガリー人)と友好を結び、ドイツ人とマジャル人で帝国を維持する。

だが、特権的地位を手放したくないドイツ人達の抵抗、諸民族による支配で帝国の様相の劇的変化を恐れる、皇帝をはじめとする支配者の存在などの要因、さらに前述したハンガリー王国のハプスブルク全領邦中最大勢力であることがあいまって、後者の方針が採られた。

その結果1867年、帝国を「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」と「神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」に二分した。

このドイツ人とマジャル人との間の妥協を「アウスグライヒ」という。

君主である「オーストリア皇帝」兼「ハンガリー国王」と軍事・外交および財政のみを共有し、その他はオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政治を行うという形態の連合国家が成立した。

これが「オーストリア=ハンガリー帝国」である。


軍備編集

陸軍編集

陸軍は自国製のシュタイヤー=マンリッヒャーM1895ライフルを用い、第一次世界大戦時には、サラエボ事件による急な宣戦布告であったにもかかわらず対ロシアと対イタリアの二方面作戦にも対応できる兵力を有し、連合国にも対等かそれ以上の評価に値する近代陸軍だった。


海軍編集

海軍は1910年代までにドレットノート級戦艦「テゲトフ級」を4隻、前弩級、準弩級戦艦を含めれば19隻にも上るドレットノート級戦艦を保有しており、巨大海軍として中欧に君臨していた。

第一次世界大戦では、圧倒的物量で迫る連合国軍に対し現存艦隊主義に基ずく艦の温存によって何とか艦隊を持ち堪えていたが、戦争の長期化で徐々に各個撃破されていった。

それでも1917年初夏のオトラント海峡海戦では、数に勝るフランス海軍イタリア海軍を相手に、優勢な戦いを見せた。


空軍編集

まだ第一次世界大戦頃では、飛行機による戦法を重視する国は少なく、オーストリア=ハンガリー帝国もその一つだった。

それでも、戦争も中盤に突入すると飛行機には敵の塹壕の正確な構造を偵察ないし攻撃するという重要な任務が担われるようになり、オーストリア=ハンガリー帝国でもドイツ帝国からアルバトロスD.II戦闘機を導入し、1918年の終戦まで使用している。


第一次世界大戦と帝国の崩壊編集

東部戦線、緒戦の圧勝編集

第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国は主に対ロシア、イタリア戦線を担い、東部戦線の初戦はオーストリア第3軍がケーベス兵団と共にロシア第3軍や第8軍と戦火を交えた。

プシェムィシル包囲戦で要塞を失う敗北を積みながらも、ゴルリッツ=タルヌフ攻勢でドイツ軍の大規模な増援を得て形勢が逆転、ドイツ、オーストリア軍は1915年6月2日プシェムィシル要塞を奪取した。その後は勢いに乗ってロシア軍をフロドナ・ブレスト=リトフスクの要塞線に後退させ、ワルシャワ、イヴァンゴロドの都市をドイツ軍が占領した。


俗に「ロシアの大撤退」と呼ばれる大勝で、1915年の戦況は中央同盟国の勝利で一段落を告げた。


ブルシーロフ攻勢 東部戦線初にして最大の敗北編集

3月12日の連合軍軍事会議において、ヴェルダンでフランス軍と激戦を繰り広げているドイツ軍に対してイギリス軍とロシア軍が牽制攻撃することが決定される。

ロシア軍は5月15日頃攻撃に出ることとなった。仏ジョフル将軍の要請により3月以降66個歩兵師団、9個騎兵師団半をもってリガ方面で牽制的攻勢を実施したが、思うような戦果を得ることができなかった。さらにロシア南西方面軍は6月4日ガリツィアにおいて、ロシア西方正面軍は6月18日ピンスク北方地域において一大攻勢を実施した。


こうしてブルシーロフ将軍率いるロシア南西軍は6月4日ガリツィアのオーストリア軍に対して大規模な攻勢を慣行、ブルシーロフ攻勢が幕を開けた。

オーストリア軍はロシア軍の小休止を挟む不定期な砲撃によって砲撃拠点の位置を掴めず、航空写真によってオーストリア側の拠点、塹壕の位置などがロシア側に露呈してしまっていた。


こうしてロシア軍はオーストリア軍に対して効果的な攻勢を実施、6月12日までに捕虜約20万人、火砲216門、機関銃645挺を獲得して大成功をおさめ、逆にオーストリア軍はこの大規模な敗北によって徐々に東部戦線での影響力を失っていくこととなる。


ルーマニア参戦 束の間の勝利編集

当初は中立の立場を保っていたルーマニアだったが、オーストリア軍がブルシーロフ攻勢で甚大な損害を被ったことに刺激され連合国側に立って参戦した。

だが、戦備の不足、軍隊の訓練不足の慢性化、装備の旧式化に矢面に立たされていたルーマニア軍はドイツ、オーストリア連合軍に大きな敗北を喫することとなる。

8月27日のトランシルヴァニアへの進軍では、戦力差を有しながら、オーストリア第1軍を相手にシビウ付近の山系で敗退、この間に独マッケンゼンの多国籍軍がブルガリア方面よりドブロジャに北進し、またドイツ第9軍がシビウに逐次兵力を集中して反撃を開始した。ドイツ第9軍はシビウ付近山中においてルーマニア第1軍を殲滅して、さらに同第2軍を蹂躙。マッケンゼン軍はこれに呼応してドナウ河を渡河し、12月6日独墺軍はついにルーマニア首都ブカレストを占領した。悪天候とロシア軍の救援によってシレト川の線でようやく膠着したが、ルーマニア軍は全軍の4分の3を失い、また国土の大半を失うこととなった。この作戦によってドイツ、オーストリア等同盟軍はルーマニアの豊富な小麦と石油を獲得、連合国側にもルーマニアを獲得したことへの大きな地理的、そして心理的アドバンテージを得る。


ケレンスキー攻勢の敗北編集

1917年に突入、独墺軍はルーマニアの領土を得たが、ドイツ軍はともかくオーストリア軍はまだブルシーロフ攻勢の傷跡を抱えていた。


5月に入り、東部戦線で先に攻勢を仕掛けたのはロシア軍の方からだった。

ケレンスキー陸海軍相がブルシーロフ将軍に依頼したこの攻勢はレンベルクの占領を目的としたものだった。

29日にロシア軍は650万を超える軍勢で東ガリシアの独墺軍陣地に迫った。

独墺軍側は頑固に抵抗したが圧倒的な物量差はどうにもならず、陣地は瞬く間にロシア軍の手に落ちた。


その後独墺軍は人数の不利を装備の質で補い攻勢に出る、戦線はまた東ガリシアまで前進したが、1億を超える人口を有するロシアはともかく、ドイツとオーストリアは人数の補充が利き辛くなっていた。


コルニーロフ事件とリガ攻勢 アルビオン作戦編集

ブルシーロフの後任ラーヴル・コルニーロフ将軍は独墺軍に対して圧倒的な物量差で勝ってるにもかかわらず戦力の温存を決断、攻勢を中止してしまう。

これを機にドイツ軍はまた攻勢に転じ、ズロチョフに迫り、ロシア軍を20㎞も後退させ、オーストリア軍もガリシア東部で攻勢を重ね、7月末にはタルノポリを占領する。


こうして十分な戦力を得た独墺軍はガリへの侵攻を開始、迫撃砲と毒ガスを巧みに扱い、殆ど抵抗を受けることなく4日間でガリを占領する。



またロシア政府へのダメ押しで実行されたアルビオン作戦で独墺軍はリガ近郊の諸島群を押さえ、9月21日までに占領し、数千もの捕虜を得た。


ロシア革命によるロシア帝国の崩壊とそれによる東部戦線の終結編集

第一次世界大戦でドイツ、オーストリアと戦火を交えていたロシア帝国だったが、それ以前に共産主義社会主義を主張するボリシェヴィキと内戦状態に陥っており、日本を始めとする連合国がロシア政府(白軍)を支援していた。

だが、皇帝ニコライ2世の圧政と農村の食糧難、戦争の脅威などでロシア政府は既に民衆の信用を失いかけていた。


これに十月革命が加わり、ロシア政府がボリシェヴィキの手に落ち、ソビエト政府(後のソ連が樹立した。


樹立した新政府は独墺の同盟軍と講和を採択した。

内容はドイツ側はソビエト政府に対し、ウクライナ・バルト海沿岸地方・フィンランドの独立を承認し(実質的にドイツへの割譲)、ポーランド・リトアニア・白ロシアの一部をドイツに、カルスとバトゥムをオスマン帝国(ドイツの同盟国)にそれぞれ割譲し、賠償金60億マルクを支払うという過酷なもので、ボリシェヴィキ内部でも激論が戦わされた。

「正規軍が戦えずとも、農民や労働者がゲリラになって戦えば良い」と言う主張もあったが、結局レーニンの即時講和論が押し通される形で党委員会で採択された。


こうして3年余りに続いた東部戦線は事実上、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国の勝利として終わりを迎えた。


イタリアの参戦、二方面作戦へ編集

東部戦線でドイツ、オーストリア=ハンガリー連合軍が善戦してる5月イタリア王国が、南チロル、イストリア、ダルマチアの奪還を目論み、連合国側に立って中央同盟国へ参戦する。


これは、当初「オーストリア=ハンガリーの攻勢にイタリアが参加する義務はない」と中立を保っていたイタリアが参戦することはないだろうと目論んだオーストリア=ハンガリー帝国にとっては予想外の事態で、このイタリアの参戦によってオーストリア=ハンガリーは対ロシアと対イタリアの二方面作戦を余儀なくされる事になる。


こうして1915年5月23日ビアンカの戦いがオーストリア軍とイタリア軍の間で勃発、対イタリア戦が始まった。


イゾンツォの戦い(前半戦)編集

1915年6月13日イタリア軍はイゾンツォ川の都市「ゴリツィア」の占領を狙ってアルプス沿いのオーストリア軍陣地に攻勢を掛ける(第一次イゾンツォの戦い)、オーストリア軍は強固に守られた防衛線で輸送能力や兵站に貧弱なイタリア軍を打ち破ったが、これは後に十一回にも及ぶイゾンツォの戦いのほんの始まりに過ぎなかった。

7月までにイタリア軍は砲兵火力を増強、7月、10月、11月と攻勢を掛け、10月と11月には1300にも上る重砲を投入したが、全て無残に失敗に終わった(第二次、第三次、第四次イゾンツォの戦い)。


そして1915年12月6日イタリア軍の最後の気力を振り絞ったイゾンツォへの攻勢が失敗(第五次イゾンツォの戦い)、オーストリア軍大きな戦果を挙げ、逆にイタリア軍は大損害を被り、三々五々に戦力が分散してしまった。


アジアーゴの戦い編集

オーストリア軍はトレンティーノを基地として、アジアーゴ高原を横切って平野部を目指す反撃作戦「討伐」(ドイツ語: Strafexpedition)を計画した。この作戦は1916年3月11日に始まり、15個師団のオーストリア軍がイタリア軍の防衛線を突破した。オーストリア軍の攻勢について差し迫った警告があがっていたにもかかわらず、イタリア軍の現地司令官は防御準備を行う代わりに局地的な攻勢作戦の実行を選択したため、準備のできていなかったイタリア軍拠点は打ち破られた。


その後イタリア軍は他戦線から引き抜いた兵力を投じ、東部戦線でブルシーロフ攻勢(前述)が開始されたことでかろうじてオーストリア軍の攻勢を凌ぐことができた。


イゾンツォの戦い(後半戦)編集

1916年後半にはイゾンツォ川をめぐってオーストリアとイタリアの間で4回もの戦闘が発生、このうち8月の第六次イゾンツォの戦いでは、オーストリア軍はブルシーロフ攻勢によって多くの部隊を東部戦線へ引き抜いていた為に大きな被害を被ってしまう。

この第六次イゾンツォの戦いでオーストリア軍は数に勝るイタリア軍に対して撤退を重ね、ゴリツィアの町をイタリア軍側に手渡す形となってしまった。


続く第七次・第八次・第九次のイゾンツォの戦いでゴリツィア方面のオーストリア軍は一時壊滅に近いレベルの損害を被った。だが、イタリア軍も同様にこれまでのイゾンツォの戦いで、オーストリア軍同様大きく消耗してしまっていた。

だが、工業力に優れるアメリカやイギリスをバックに取ったイタリアは時間を掛ければいくらでも増援を呼ぶことが可能だった。


第十次イゾンツォの戦いと第十一次イゾンツォの戦いでバインジッツァ高地に立てこもる僅かなオーストリア軍は北と東からイタリア軍の大部隊に包囲され、東方では圧倒的物量差のイタリア軍を大きく抑え込む事に成功したが、北方では9月12日ルイージ・カペッロ将軍率いるイタリア軍がバインジッツァ高地を占領。


こうして一年以上にも続いたイゾンツォの戦いはオーストリア軍がバインジッツァ高地を失うことで幕を閉じた。

この敗北は膠着していたイタリア戦線において大きな戦況の転換点となった。


カポレットの勝利とピアーヴェ川の大敗編集

イゾンツォの戦いの後イタリア軍は脆弱な兵站による補給線の崩壊からせっかく手にした領土を手放して撤退する羽目になる。

これに機としたオーストリア軍はイタリア軍に追撃を掛け、喉から手が出る程欲しがっていた増援をドイツ帝国から確保、ドイツから教わった浸透戦術でイタリア軍に攻勢を掛けるが、所詮焼石に水だった。

攻勢のうちのカポレットの戦いで独墺軍はイタリア軍の背後から攻撃を行い、イタリア軍をヴェネツィア近くのピアーヴェ川まで押し戻しオーストリア=ハンガリーの崩壊をすんでのところで押し留めるが、1918年にドイツ帝国が西部戦線の春季攻勢の為にイタリア戦線からも部隊を引き抜き始めるとオーストリア軍はピアーヴェ川の戦いで敗北、トナーレ峠への陽動作戦も脱走兵や捕虜が情報を漏らした事で失敗。


補給線が連合国の爆撃機に破壊され、イタリア軍の増援が到着し、オーストリア軍の勝算はほぼ皆無になった。


敗北したオーストリア軍は15万名の戦死・戦傷者と2万5000名の捕虜という甚大な損害を受け、これによりオーストリア軍がイタリア軍の防衛線を突破できる見込みは殆ど失われ、形勢は大きくイタリア側に傾いた。


ヴィットリオ・ヴェネトの戦いの敗北 対イタリア戦線の崩壊編集

ピアーヴェ川で大規模な損害を被ったオーストリア軍に最早攻勢を仕掛けられる余力などなかった。

イタリア軍はオーストリア=ハンガリー帝国粉砕の為に着実に戦力を蓄え、1918年の10月には伊軍51個師団、英軍3個師団、仏軍2個師団、米軍1個連隊にも及ぶ大戦力をもって10月23日疲弊しきったオーストリア軍に対し大規模な作戦行動を開始した。

こうしてイタリア軍は大した損害を受けることなくオーストリア軍を粉砕、ヴィットリオ・ヴェネトが陥落しサチーレ近郊でオーストリア軍の戦線の隙間を突いて攻勢を仕掛けることによりオーストリア軍を粉砕。


このヴィットリオ・ヴェネトの戦いで、オーストリア軍は50万もの兵員を失い、遂にイタリア軍をオーストリア=ハンガリー帝国領内への侵入を許す結果となった。

更にはオーストリアの盟邦、ハンガリー人勢力がオーストリア=ハンガリー帝国の解体を求めてブダペストで暴動を起こし、アスター革命に発展する。音を立てて崩れゆく中欧の大帝国にイタリアと戦争をする余力などなくなっていた。

国内では暴動が頻発し、軍内でもイタリア側に亡命を求める脱走兵が続出した。

オーストリア=ハンガリー帝国には最早和平の道を探る以外に対応がなくなってしまった。

もう戦争続行が不可能となったオーストリア軍の残存兵力は11月3日タリアメント川のイタリア軍に白旗を挙げ休戦を求めた。

これがイタリア側に受理されヴィラ・ジュスティ休戦協定が締結。


こうしてオーストリア=ハンガリー帝国の対イタリア戦線は文字通り崩壊した。


帝国の崩壊 ハプスブルク家の終焉編集

1918年半ばのオーストリア=ハンガリー帝国は最早奪回不可能となった戦争や、爆発する国内の民族主義と独立運動によって崩壊の瀬戸際を迎えていた。

こんななか、遂にチェコスロヴァキアが独立を連合国に宣言、これに端を発した独立の連鎖を押さえつける事は不可能となり、帝国内の様々な民族、国家が独立を宣言、そしてオーストリアと共に二重帝国の一役を担ってきた盟邦ハンガリー王国がオーストリアから完全分離独立を宣言、もはやオーストリア=ハンガリー帝国は国として成立しなくなっていた。


皇帝カール1世はこれをつなぎとめようとしたが果たせず、1918年秋に「国事不関与」を宣言して国外へ亡命した。


ここに650年間、中欧に君臨したハプスブルク家の帝国、オーストリア=ハンガリー帝国はもろくも崩壊した。しかし、その継承諸国の辿った歴史は、いずれも悲惨なものであった。


崩壊後編集

第2次世界大戦後、オーストリアは永世中立国を自称しながらも西側諸国と深い関係を持った一方、ハンガリーはソ連の衛星国として組み込まれて東側諸国であり、2つの国は「鉄のカーテン」によって分断された。


ソ連が崩壊すると、民主化したハンガリーは西欧諸国に接近し、EUに加盟。国境の移動が簡易になったことで再びオーストリアとの関係は深まった。


現代、オーストリア=ハンガリー帝国の復活を望む声も一部にみられるが、政治運動にまでは至っていない。


関連タグ編集

オーストリア ハンガリー ヨーロッパ

ハプスブルク家 連合王国 シュタイヤー=マンリッヒャーM1895

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