概要
日露戦争および第一次世界大戦における指導者。個人としては、よき家庭人で誠実な人柄だったとされる一方でロシア国内政治では革命を弾圧する等の保守的な側面が目立ち、自らが指揮した第一次大戦での苦戦もあってロシア革命を引き起こすきっかけとなった。そして…。
プロフィール
本名 | ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ(Николай Александрович Романов/Nikolai Aleksandrovich Romanov) |
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愛称 | ニッキー |
性別 | 男性 |
生年 | 1868年5月18日 |
没年 | 1918年7月17日(50歳没) |
出身地 | ロシア帝国サンクトペテルブルク(現ロシア連邦サンクトペテルブルク) |
死没地 | ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国エカテリンブルク(現ロシア連邦エカテリンブルク |
身長 | 170cm |
父 | アレクサンドル3世 |
母 | マリア・フョードロヴナ |
経歴
生い立ち
ロマノフ王朝第13代目皇帝アレクサンドル3世とデンマーク王女マリア・フョードロヴナ(出生名マリー・ソフィー)の長男。
元々マリアはアレクサンドル3世の兄(ニコライ2世の伯父)の婚約者だったが、軍事演習中の事故の後遺症で亡くなったため、アレクサンドル3世と急遽結婚することになった。
しかし夫婦仲はよく、未来の皇帝として厳しくも愛されながら育った。
ところが1881年、祖父のアレクサンドル2世が革命派が引き起こした爆弾テロにより逝去。
この事件がきっかけで、親子共々保守的な思想を固めることになった。
皇太子時代
皇太子として見聞を広げるために10か月の世界旅行に出かけることになった。
旅行の中心地はエジプトやインドといったイギリス領や中国といった極東であり、最終目的地は日本だった。
長崎や鹿児島、神戸、京都、大津と九州から近畿地方を巡り、とても喜んでいたという。
だが大津から京都に帰還する際、事件が起きる。
警察官の一人がニコライをサーベルで切りつけた。
幸い命に別状はなかったものの、頭蓋骨に裂傷を負ったニコライは人力車を降りて逃げ、加害者の警察官は車夫2人(後にロシアから勲章を授けられた)に取り押さえられ御用となった。これが後の大津事件である。
この事件は自殺者が出るほどの衝撃を日本中に与え、ニコライへの謝罪の意と加害者への憎悪で満ち満ちた。
日本側も明治天皇が直接面会する、大津の目撃者たちが膝をつき手を合わせて謝罪する等誠実な態度をとったため、ニコライも東京訪問の意を見せたり感謝状を送ったため事なきを得た。
しかしアレクサンドル3世の判断により、東京訪問は見送られることになった。
ちなみに加害者の警察官がこのような凶行に及んだ理由については、事件後に本人が「以前より北方諸島に対するロシアの強硬姿勢を快く思わなかった」と供述したものの、直接の動機を裏付ける供述が得られなかったこともあり現在もはっきりしない。そのため「ロシアとの不平等条約に不満を持っていたため」というものから、「ニコライ一行が日本人の車夫を跪かせて説明させていたことに憤りを感じたため」「『西郷隆盛がニコライと共に帰国して明治天皇が西南戦争功労者に授与した勲章を剥奪する』というデマを信じたため(加害者は勲章を授与されていた)」まで諸説が唱えられている。また、「一本(一太刀)献上したまで」という意味の供述をしたことから、衝動的な犯行で殺意までは無かったとも言われる。
警察官に対し、当初日本政府は大逆罪(旧刑法116条及び現刑法73条に規定されたもので、天皇などの皇族に危害を加えたものを死刑に処すというもの。1947年に後者が削除されたことで廃止)を類推適用するよう裁判官に圧力を加えたが、大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島惟謙が「刑法に外国皇族に関する規定はない」と反発したことで、一般人に対する謀殺未遂罪(旧刑法292条)を適用されて無期懲役の判決が言い渡された。そのため「司法権の独立」が守られた事件として有名となった他、日本が近代法を運用する主権国家として受け止められたことから不平等条約改正に影響を与えたといわれている(ただし大津事件では裁判官の独立などに問題があったともされる)。
なお、無期懲役判決を受けた加害者は釧路集治監(監獄の一種。現在は標茶町博物館の一部)に収監されたが、2か月後に急性肺炎で獄中死した。
即位
そんなニコライは、叔父セルゲイ・アレクサンドロヴィチの結婚式で、ヘッセン大公国の大公の末娘であるヴィクトリア・アリックスという少女に一目惚れする。
セルゲイの妻がアリックスの姉エリーザベトだったため参列していたのである。
出会った当初こそアリックスからそっけない態度を取られていたが、親戚同士だったため顔を合わせる機会が何度もあり、やがて親しくなった。
ニコライは恋人だったバレリーナのマチルダ・クシェシンスカヤとは手を切り、アリックスにプロポーズした。
ところがアレクサンドル3世とマリアは浮かない顔をしていた。
アリックスは敬虔なプロテスタント教徒だった。つまりニコライとの結婚にはロシア正教への改宗が必要となる。
改宗に関してはニコライの説得によりアリックスが快諾、洗礼を受けてアレクサンドラ・フョードロヴナとなった。
1894年11月1日、アレクサンドル3世は腎炎の悪化により逝去(列車事故による後遺症とされる)。葬儀、結婚式、戴冠式と目まぐるしく、26歳のニコライはニコライ2世として即位した。
…が、「民の声と願いに耳を傾けてほしい」という地方議会の願いとは裏腹に、ニコライ2世は専制君主主義を徹底すると演説。
更に即位祝賀式会場に押し寄せた観客が将棋倒しになり、多くの死傷者が出たにも拘わらず(会場に因んでホディンカの惨事と呼ばれる)、祝賀行事に出席してしまい、国民の心は少しずつニコライ2世から離れていった。
日露戦争と血の日曜日事件
1900年前後は列強諸国が極東に目を付けていた時代である。
ロシアもまた、安価で鉄道を敷くために清に、海上航路の確保のために朝鮮に目を付けていた。
日本はイギリスと日英同盟を締結してロシアに対抗しつつも、ロシアとの交渉を諦めていなかった。
極東の支配にはロシア国内でも、朝鮮支配を諦め、満州に集中すべきというセルゲイ・ウィッテら融和派と朝鮮も中国も支配する強硬派に分かれてしまった。
最終的にニコライ2世は後者、即ち対日強硬派に傾くことになる。
当時のロシアは日本と争う余裕があったかと言うと、そんなことはなかった。
経済危機によるリストラや不作が続いていたため、ウィッテは戦争への発展は防ぎたかったのだ(最終的に日本への賠償金が支払われなかったのもそのため)。
ところがイギリスとロシアの対立を目論むドイツの思惑と、日本なんて楽勝だよねーとニコライ2世が楽観的に構えていた矢先の1904年2月9日、日本が旅順に攻撃。
宣戦布告なしの開戦に、ニコライ2世は唖然としたという。
詳細は日露戦争を参照のこと。
日露戦争の敗北は朝鮮を手ばなしたのみならず、国民の不信感も買った。
莫大な戦費と戦役に苦しんだ民衆は、日露戦争の中止と議会の設置等を求めてデモを開始。
あまりの人数(デモ行進者だけでも6万人いた)に軍隊はデモ隊に発砲、大勢の死傷者を出すことになった。
更に上述したニコライ2世の叔父のセルゲイが暗殺され、ゼネストに発展するほどの混乱を見せ、ウィッテは十月詔書を発布。
事実上の立憲制が開始されたかのように思えたが、ニコライ2世はこれを屈辱として幾度も拒否権を発動し、折角設立された国会も言論の自由も形骸化することになる。
ウィッテは初代首相を務めたものの、ニコライ2世と対立し辞任(1915年にウィッテが死亡した時も、葬儀に花輪一つ供えなかったという)、3代目首相のピョートル・ストルイピンを重用した。
ラスプーチンの台頭
日露戦争中の1904年、ニコライ2世一家に待望の男児アレクセイ・ニコラエヴィチが誕生した。
ロシア皇帝は直系男子のみに継承権が与えられるため、4人娘が続いた中生まれた待望の皇太子だったのだ。
ところがアレクセイは血友病を患っていた。
アレクサンドル3世とマリアが懸念していたのは、改宗だけではなかった。
アレクサンドラがイギリス女王・ヴィクトリアの孫娘である(即ち、将来産まれてくる男児が血友病を患ってしまう可能性がある)ことを危惧したためであった。
当時、血友病は不治の病として扱われていたが、流石に2世代も続くと「ヴィクトリア女王の孫娘には気を付けろ」と周知されてしまうのは無理からぬことだった。
ほんの少しの怪我がアレクセイを苦しめることになり、家族は皆アレクセイの将来を心配するのだった。
アレクセイが産まれた翌年、一人の男が宮廷に呼ばれた。
怪僧グレゴリー・ラスプーチンである。
ラスプーチンが祈祷を施すと、アレクセイの痛みが次第に和らいだのである(これは当時医学界で流行していたアスピリンの投与を自然派のラスプーチンが止めるよう助言したしたことが原因。出血を促すアスピリンは血友病患者との相性が悪く、投薬を止めれば血友病の症状は改善される)。
これを目の当たりにしたアレクサンドラはすっかりラスプーチンに入れ込み、ニコライ2世も我らの友と呼ぶほどラスプーチンを信用したのであった。
その信用の程度は、ラスプーチンがクリスト派であること(ロシア正教の宗派のひとつ。実際にはそうではなかったようだが)を告発されても尚揺るがなかった。
第一次世界大戦と帝政崩壊
詳細は第一次世界大戦を参照のこと。
ロシアはドイツとの交渉に失敗し、ロシア軍総動員令を発布し連合国側につく。
ところが、
- 兵力だけは一丁前だが、20万相当の軍が壊滅(タンネンベルクの戦い)。
- 近代機器を利用したドイツに次々と大敗。
- 自ら前線に出ていた最高司令官のニコライ・ニコラエヴィチ(ニコライ2世の従叔父)を罷免し顰蹙を買う。
等々失政が目立つようになった(一応オーストリア=ハンガリー帝国に辛くも勝利したが、それすら霞んだ)。
更に皇帝自らが前線に赴いた(これは政治家・軍人だけではなくアレクサンドラやラスプーチンですら反対したほど)後はアレクサンドラとラスプーチンが国政に口出しを始め、気に入らない人物を次々と大臣から罷免し、遂にロマノフ家からもニコライ2世一家は訝しく見られるようになってしまった。
大戦中の1916年6月、フェリックス・ユスポフとドミトリーによりラスプーチンは暗殺。
ダメ押しと言わんばかりに民衆どころか軍も蜂起し、第一次世界大戦を続ける余力は最早ロシアになかった。
やがて国会もニコライ2世の退位を求め、1917年3月15日ニコライ2世は退位。
本来なら帝位継承法に倣うところだが、上述したようにアレクセイは重度の血友病だったためニコライ2世の弟のミハイル・アレクサンドロヴィチが皇帝の座につくことになった。
…が、ミハイルは臨時政府に「我々では貴方を守り切れないと」拒否され(そもそも民衆から歓迎すらされていなかった)、辞退。
かくしてロマノフ王朝は崩壊した。
監禁生活
臨時政府監視下ではツァールスコエ・セローで過ごしていた一家は一旦シベリアのトボリスク(ラスプーチンの故郷)に移動させられる(※)。
※当初はニコライ2世一家に関連のある国に匿ってもらう計画もあったが、アレクサンドラの生まれ故郷のドイツは論外、イギリスは当時社会主義運動が勃発しており受け入れを拒否されてしまった。
とはいえ、この頃はまだ革命からニコライ2世一家を保護するという名目であり、臨時政府の監視はあったものの精々軟禁レベルでありガーデニングをしたり庭を散歩する自由はあった様子。
ところが十月革命により臨時政府が倒されロシア帝国は崩壊、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国となった。
一家はエカテリンブルクにあるイパチェフ館に移され、地獄のような監禁生活を送ることになる。
その程度は
- 窓の開け閉め禁止。外を見ることも許されず、新聞紙で覆い隠され、最終的に石灰を塗られた(四女アナスタシアは換気口から外を覗こうとして発砲されかけた)。
- 館は4メートルの柵で二重で覆い、内外から確認させないようにした。
- 移動する際には衛兵たちにベルで知らせなければならない。但し衛兵たちは勝手に部屋(娘たちの自室であっても)の出入りができる。
- 朝食は紅茶と黒パン、昼食はカツレツと脂身の入ったスープのみ。時折修道女が差し入れに訪れたことはあったものの、衛兵にすべて没収された。
- 面会および手紙のやりとり禁止。
- 外出禁止。日曜ミサで教会に行くことも禁止。
- 柵に卑猥な言葉を書き、その言葉を娘たちに浴びせて楽しんでいた。これには三女のマリアも毅然と忠告した。
等々、最早かつての皇族どころか人としての尊厳すら与えられなかった。
ニコライ2世は日記を認めることを趣味としていたが、やがてその頻度も減少し、やがてぱったりと途切れてしまう。
1917年7月半ば、かつてのロシア帝国がチェコおよびスロバキアの捕虜によって結成した軍団がシベリア鉄道を守るべくエカテリンブルクに迫っていた。
それを聞いたウラジーミル・レーニンは、ボリス・エリツィンをしてロシアの犯罪史史上最悪の事件と言わしめた判断を下す。
処刑
1917年7月17日の深夜、秘密警察のヤコフ・ユロフスキーにより一家と使用人たちは「より安全な場所に避難する」と無理やり起こされ、地下室に全員集められた。
ユロフスキーは「ニコライ・アレクサンドロヴィチ。あなたの親族がソビエト・ロシアに対して攻撃を続けているという事実を考慮し、ウラル・ソビエト執行委員会はあなたの処刑を決定した」と読み上げた。
アレクサンドラと娘たちは泣き叫び、ニコライ2世は「一体どういうことだ!」と問い質すも、一斉射撃を決行。
最前列にいたニコライ2世は主治医のエフゲニー・ボトキンが盾になったものの、何発も銃弾を浴びて即死した。享年50歳。
一家と使用人たちの遺体は衣服や貴重品を剥ぎ取られるだけに留まらず、顔を砕かれ、硫酸で顔を溶かされ石灰を撒かれた状態でエカテリンブルクのガニナ・ヤマに埋葬された。そして74年の月日が経過し…。
名誉回復
1991年、ソビエト連邦が徐々に崩壊の兆しを見せる中ニコライ2世一家の遺骨が見つかったという衝撃のニュースが発表された。
実際に見つかったのは1979年だったが、ソビエトに揉み消されるのを恐れて一旦遺骨を元の場所に戻すことになった(石膏はちゃっかりとった)。
見つかったのは使用人たち全員と、マリアとアレクセイ(2人は証拠隠滅のため別の場所に埋葬された)を除く一家全員の遺骨である。
遺骨および遺伝子鑑定を行ったところ、1993年に98.5%の確率でニコライ2世一家および使用人たちであると結論付けられた。
1998年7月17日、一家の故郷サンクトペテルブルクで葬儀が挙行された。ロマノフ家の末裔たちと使用人の家族、そして当時のロシア連邦大統領のボリス・エリツィン夫妻が参列した。
ロシア正教会はニコライ2世一家とその使用人たちを新致命者(所謂殉教者のこと)に列し、2008年には名誉回復の裁定が下された。
マリアとアレクセイは2007年に遺骨が発見された。
ようやくニコライ2世は、90年ぶりに家族の再会と名誉回復に漕ぎつけたのであった。
人物
当時のヨーロッパの君主としては珍しく同盟国には忠実な態度をとっていた。
実際フランスを出し抜いてドイツとの密約を破棄させたり、ハーグ条約の締結に成功したこともある。
またシベリア鉄道の鉄道網の拡大にも尽力した。
このように功績がないわけではないが、日露戦争の敗北と第一次世界大戦の失政、そして要所要所の行動が民の心象を悪くしてしまった。
特にラスプーチン絡みではアレクサンドラと娘たちが風評被害を受けるまでに至っている(アレクサンドラに関しては後述するように社交界からのヘイトが大きかったのも原因)。
ラスプーチンとの関りは諸説あり2、3度会っただけだとする説もあるほどだが、神秘主義者のアレクサンドラが傾倒していたことと、何よりアレクセイの身を案じたが故、彼を遠ざけることもしなかった。そのため夫婦共々入れ込んでおり、彼の傀儡となっているという風評が流れてしまっている。
日露戦争へ発展した理由として、大津事件によって日本への心象が悪くなったため、とされている。
実際にウィッテも自伝でそのように述べているが、威仁親王とは文通を続けていたため個人としては親日だったという説もある。
尚、来日した際に龍の入れ墨を右腕に彫ってもらった。来日した王侯貴族たちのちょっとした嗜みだったらしく、ハプスブルク家のフランツ・フェルディナントも来日した際に龍と蛇の入れ墨を彫ってもらっている。
語学に堪能であり、母国語であるロシア語の他にフランス語、英語も日常生活に困らない程扱えた。
ロシア語に不慣れだったアレクサンドラとは英語で会話していた。
勉強態度はあまり真面目とは言い難く、鼻糞をほじって怒られたことも。
プライベートでは誠実な家庭人だったが、一方で上述したように自分より優れた人物を遠ざける傾向が強かった。
国会の設立に尽力したウィッテや憲法を発布したイワン・ゴレムイキンが罷免されたのもそのせい。
家族
妻:アレクサンドラ・フョードロヴナ(Александра Фёдоровна/Alexandra Feodrovna)
出生名はヴィクトリア・アリックス。全名はアリックス・ヴィクトリア・ヘレナ・ルイーゼ・ベアトリーツェ(Alix Victoria Helena Louise Beatrice)。
ヘッセン大公国の第4代大公ルートヴィヒ4世の第四女。
母のアリスはヴィクトリア女王の次女だったが、アレクサンドラが6歳の頃にジフテリアを患って亡くなったため祖母ヴィクトリア女王の元で育てられた(プロテスタントを信仰していたのもそのため)。
自ら看護師資格を獲得し、第一次世界大戦では負傷兵の手当てを率先して行っていた。
良妻賢母でもあったが、内気でヒステリックな性格が災いしてヘイトを買ってしまう。
なお、夫妻の子供達のうちアレクセイを除く4姉妹は出生順に自分達の名前の頭文字から取った「OTMA」の愛称を使用していた。
長女:オリガ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ(Ольга Николаевна Романова/Olga Nikolaevna Romanova)
教養深く読書好きな、姉妹の中で最も聡明な長女。
父であるニコライ2世に似ており、本人も父をとても慕っていた。
一方で率直すぎる傾向があり、母のアレクサンドラとはよくケンカしていた。
ルーマニアやイギリスから縁談が持ち込まれていたが、いずれも断っている。
趣味は乗馬。
次女:タチアナ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ(Татьяна Николаевна Романова/Tatyana Nikolaievna Romanova)
姉妹の中で最も美しく、控えめな次女。当時の人々の証言および遺骨鑑定の結果から、姉妹で最も高身長だったとされる。
アレクサンドラと最も仲が良く、姉妹との潤滑剤だった。
セルビアから縁談が持ち込まれていたが、第一次世界大戦の影響で流れてしまった。
趣味は刺繍。
オリガとタチアナも看護師資格を獲得し、アレクサンドラと共に負傷兵の手当てをしている。
三女:マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ(Мари́я Никола́евна Рома́нова/Maria Nikolaievna Romanova)
穏やかで愛らしく、ちょっぴり悪戯好きの三女。
細身で背の高い姉2人と比べてやや肉付きがいい。
心優しい娘だが気丈な一面もあり、タチアナに卑猥な言葉を浴びせた衛生兵に反論したこともある。
趣味はスケッチ。
四女:アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ(Анастаси́я Никола́евна Рома́нова/Anastasia Nikolaevna Romanova)
姉妹一のお転婆娘。
悪戯好きで、雪玉に石を詰めてぶん投げた話は有名(運悪くそれがタチアナの顔面に直撃して彼女を失神させてしまったため、泣いて謝った)。
四女だったため当時は注目度が低く、それが却って生存説を作り上げてしまった。
趣味は自撮り。
ちなみにニコライ2世も写真を嗜んでいたようで、従兄弟のギリシャ皇太子とふざけ合ったり変顔をしていたりという大変愉快な写真が残っている。アナスタシアの趣味は父親由来なのかもしれない。
長男:アレクセイ・ニコラエヴィチ・ロマノフ(Алексей Николаевич Романов/Alexei Nikolaevich Romanov)
家族全員から愛された末っ子にして、待望の皇太子。
重い血友病に苦しみながらも、皇太子としての自覚はきちんと持ち合わせていた。
心配する人がいれば変顔をして笑わせる等、四姉と同じく悪戯好きなところも。
関係者
グレゴリー・ラスプーチン(риго́рий Ефи́мович Распу́тин/Grigorii Efimovich Rasputin)
言わずと知れたロシア末期を代表する怪僧。
先述の通り、ニコライ2世と彼がどれくらい親しかったは諸説あり、「われらが友」と呼んだとする説や、2、3度会ったことがあるだけとする説も。
いずれにしてもアレクセイの血友病の症状を緩和出来たため、皇后アレクサンドラからは絶大な信頼を得ており、特に第一次世界大戦が勃発しニコライ2世が前線に向かった後は彼女を通して政治的な影響力を持ち始める。
アレクセイの血友病については後継者問題に発展することを恐れたため、政府上層部ですら知らされていないほどの機密となっており、そのため民衆にはなぜラスプーチンが厚遇されているか分からず彼についてのありもしない噂が流れた。
余談
- 遺伝子鑑定を行ったのはイギリスの法医学研究所だったが、ロマノフ家が没落した際にニコライ2世の亡命を断ってしまったために、ニコライ2世の兄弟から協力を拒否されたこともある。協力者の中にはエリザベス2世の夫エディンバラ公フィリップがいる。
- 最期の地となったイパチェフ館は事件後観光名所となっていたが、1975年、デタントの進行に伴いニコライ2世一家を処刑した証拠の隠滅を急いだソビエト連邦共産党中央委員会の命令により、当時スヴェルドロフスク(エカテリンブルグを改名したもの)州共産党委員会第一書記だったエリツィン指揮の下解体されてしまった。エリツィンも拒否できない立場だったとは言え、これについてはとても後悔していたという。2003年、イパチェフ館の跡地には血の上の教会が建立された。
- 毎年7月17日になると血の上の教会からガニナ・ヤマへ巡礼する追悼行事が開催される。
関連イラスト
別名・表記ゆれ
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外部リンク
ニコライ2世一家追悼ページ 遺骨等の写真が掲載されているため閲覧注意