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ニコライ1世

てっけんにこらい

ニコライ一世は、ロシア帝国の皇帝である。生没年1796年~1855年。在位1825年~1855年。
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概要編集

ロマノフ朝11代ツァーリ。9代・パーヴェル1世の三男。長兄の10代・アレクサンドル1世は崩御時に存命の子がおらず、次兄コンスタンチンは貴賤結婚を望んで帝位継承を放棄したため、彼にお鉢が回ってきた。


鉄拳ニコライヨーロッパの憲兵のあだ名で知られる、帝政ロシアの雷オヤジ。

祖母エカチェリーナ2世のもとで開明的な教育を受けるように育てられた兄2人に対し、祖母の最晩年に生まれたため、両親のもと保守的かつ厳格な教育を受けたが、父は彼が5歳にもなっていない時期に暗殺されてしまっている(兄達は同母兄だが20歳近くも離れている)。兄が2人もいたことから当初は皇帝後継者として見られておらず、軍人としての経歴を積むかにみえた。こうした背景から、ニコライ1世はあらゆる変革の試みに対し、軍人らしい保守性と厳格さで徹底して認めようとしなかった。


農奴制廃止、ロシア帝国の法整備と多くの功績を残している。

反面、デカブリストの乱(十二月党員の乱、社会改革を掲げた青年将校によるクーデター未遂)で多くの逮捕者を容赦なくシベリア送りにしたり、クリミア戦争を仕掛けておいて大敗(敗戦が確定するのは彼の死後だが、既に勝敗は決しようとしていた)するなど、見掛けだおしな面も目立つ。

遠征して上手くいった康熙帝とはまるで対照的。


クリミア戦争の最中、プチャーチンを幕末の日本に派遣し、1855年、日露和親条約を締結した。

ムラヴィヨフを東シベリア総督に任命するなど、東方進出にも意欲的だった。

1855年、インフルエンザの症状悪化で死去。息子のアレクサンドル2世が後継となった。


人物編集

『高い額、輝きと威厳に満ちた目、やや皮肉な表情の口、英雄を思わせる分厚い胸、巨大な身長、そして威厳のある足取りが、この君主に並外れた外見を与えた-パッシ伯爵』

身長は約204センチと、ロシア皇帝の間ではピョートル大帝に並ぶ身長。あと眼力が凄かった様で家臣の証言にも眼についてのものがよく残されている。

臣下に厳しく、家族に優しかった。



参考資料編集

ロシアンビヨンド・ニコライ一世7つの事実

世界史の窓


関連タグ編集

ロシア帝国 雷親父 ロシア ツァーリズム

ニコライ

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