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中野昭慶

なかのてるよし

中野昭慶とは、日本の特技監督である。「しょうけい」とよむ場合もある。
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概要

1935年、中国満州安東県(現丹東市)に生まれる。
父が満州鉄道関連会社国際運輸に勤務していたため裕福な少年時代を過ごし、中国の安東大和在満国民学校に通う。

1945年、日本敗戦のため愛媛県新居浜市に引き上げ、小学校卒業まで過ごす。

1948年に中学校進学のために京都府に引っ越し、1955年に京都市立日吉ヶ丘高等学校を卒業と同時に日本大学芸術学部映画学科脚本コースに入学する。
1959年に日本大学卒業後、助監督志望で東宝砧撮影所に入社。しかしいきなり「円谷組に行け」と命令され転属になり、円谷英二に師事。特殊撮影技術班の助監督となる。

1969年、クレージーキャッツ主演の『クレージーの大爆発』で助監督デビュー。1971年に退社した有川定昌に代わり東宝三代目特技監督に就任する。
1981年からはフリーになり、東映戦争三部作を演出。
1984年の『ゴジラ』で9年ぶりにゴジラを演出し、1985年には金正日に招かれて北朝鮮の怪獣映画『プルガサリ』の特撮監督を務める。
以後は1987年の『竹取物語』まで特技監督として活躍。その後は東京ディズニーランドのエレクトリカルパレード等テーマパークや博覧会の映像作品を手掛けている。

作風

「爆発の中野」と呼ばれるほど爆発に定評があり、ダイナミックかつ鮮やかな大爆発が特徴。
ゴジラに関しては「何でもかんでも熱線でというのには抵抗があった」と語っている通り、世の中がヒーローもの全盛期でゴジラもそういう路線に入っていたこともあって殺陣を導入。肉弾戦をメインにした演出を手掛けていた。参考として『ゴジラ対メガロ』では時代劇、『ゴジラ対メカゴジラ』では西部劇をイメージし、怪獣の動きの美しさを見せるために歌舞伎を参考にしていた。
反面合成に関しては「よくわからない」と語っており、後輩の川北紘一に一任していた。

ゴジラ対メガロ』では特定の見せ場に集中的に力を入れ、全体を盛り上げる「一見豪華主義」という手法をとり、大規模なダム破壊シーンを撮影した。

日本沈没』を始めとしたパニック映画にも強く、アジアの映画祭で賞を獲得したほか、荒れた海の表現として撮影用のプールに「水が泡立ち、やや粘りもでる」としてビールを混ぜて表現したという。(その結果プールが酒臭くなり、酔ってしまうスタッフもいたとか)

人物像

  • シネマスコープ大好きおじさんを自称している。
  • 非常に気さくで人のいい性格で、80年代のリバイバルブーム時、自身の撮影したゴジラ映画が酷評された時も甘んじて受け入れていた。
  • ゴジラ対メカゴジラの撮影初日に大遅刻し、周囲の緊張をよそに「本番スタート」の声をかけたらしい。
  • いつか撮ってみたい映画として、特撮を使った2、3時間笑いっぱなしというスラップスティック映画を上げている。


主な作品

助監督

ガス人間第一号』(1960年)
椿三十郎』(1961年)
モスラ』(1961年)
妖星ゴラス』(1962年)
キングコング対ゴジラ』(1962年)
マタンゴ』(1963年)
海底軍艦』(1963年)
モスラ対ゴジラ』(1964年)
宇宙大怪獣ドゴラ』(1964年)
三大怪獣地球最大の決戦』(1964年)
フランケンシュタイン対地底怪獣』(1965年)
怪獣大戦争』(1965年)
フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ』(1966年)
ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(1966年)
キングコングの逆襲』(1967年)
怪獣島の決戦ゴジラの息子』(1967年)
怪獣総進撃』(1968年)
ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』(1969年)
『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』(1970年)

特技監督

ゴジラ対ヘドラ』(1971年)
地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン』(1972年)
ゴジラ対メガロ』(1973年)
流星人間ゾーン』(1973年)
日本沈没』(1973年)
ゴジラ対メカゴジラ』(1974年)
メカゴジラの逆襲』(1975年)
惑星大戦争』(1977年)
火の鳥』(1978年)
西遊記』(1978年)
ゴジラ』(1984年)
竹取物語』(1987年)
プルガサリ』(2000年)

関連タグ

特技監督

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