人物
慶応義塾大学入学後、テレビのワンシーンを見て、映像の道を決断。中退し、円谷プロダクションに入社。映画カメラマンを志望していたものの、当時は映画が斜陽の時代で募集がなく、紹介された円谷プロも当時はテレビの仕事がなく、3ヶ月ほどは単発の仕事を続けていた。
『恐怖劇場アンバランス』で撮影助手として本格的にデビュー後、『帰ってきたウルトラマン』などの作品に参加。『レッドマン』で念願のカメラマンとしてデビューする。
『レッドマン』では、作品の内容的に固定カメラより手持ちカメラが必要なシーンが多くなるだろうという判断から、カメラの取り回しを良くする為に特注のトリガースイッチ付きピストルグリップを用意したり、16ミリフィルムで、スーパーインポーズ(速報テロップとかに使われる技術)の手法を応用して低予算で制作された作品ながら光線技を実現するなどしている。
(※当時は合成カットの揺れや画質劣化を抑える等の観点から、合成シーンでは35ミリ(映画用)フィルムが使用されており、16ミリでは上手く合成できないとされていた。余談だか、16ミリでも精度の高い合成ができる事が業界的に周知されるのは80年代半ばになってからである。)
その後フリーになり、TVや映画等にカメラマンとして参加。平成ウルトラシリーズにおいてはカメラマンとしてだけではなく特技監督としても参加した。
2004年の『ULTRAMAN』を最後にカメラマンを引退。以降は製作統括や監修として円谷プロ作品に参加した。
2008年、それまでの放漫経営と独裁体制がたたって経営難へと陥った円谷プロは子会社化し、社長職を解任された円谷一夫、非常勤取締役の森島恒行に代わって生え抜きという形で円谷プロ10代目社長に就任。「自分の代で問題はすべて解決したい」と苦境に苦しめながらもテレビシリーズの復活や海外作品のソフト化、海外版権問題の解決に大きく尽力した。
また『ウルトラゾーン』や『ウルトラ怪獣擬人化計画』など新規層の開拓にも取り組んだ。
ウルトラシリーズ50周年を迎えた2016年には第35回ベストファーザーイエローリボン賞経済部門を受賞,
2017年、円谷プロ社長の座を塚越隆行に譲り、自身は相談役を務める。
2021年現在は同社の顧問となっている。
主な参加作品
撮影技師・カメラマン
- 『レッドマン』(1972年)
- 『アイアンキング』(1972〜1973年)
- 『ウルトラマンT』「大海亀怪獣東京を襲う!」「親星小星一番星」(1973年)
- 『スーパーロボット レッドバロン』(1973〜1974年)
- 『スーパーロボット マッハバロン』(1974年-1975年、撮影)
- 『少年探偵団(BD7)』(1975〜1976年)
- 『恐竜探険隊ボーンフリー』(1976〜1977年)
- 『恐竜戦隊コセイドン』(1978〜1979年)
- 『西遊記Ⅱ』(1979〜1980年)
- 『ウルトラマン80』(1980〜1981年)
- 『ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士v,s大怪獣軍団』(1984年)
- 『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』(1990年)
- 『ウルトラマンゼアス』(1996年)
- 『ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影』(1997年)
- 『ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』(1998年)
- 『ウルトラマンティガ・ウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦』(1999年)
- 『ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』(2000年)
- 『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』(2001年)
- 『ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET』(2002年)
- 『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』(2003年)
- 『ULTRAMAN』(2004年) - VFXスーパーバイザーも担当
特殊技術(特技・特撮監督)
- 『小さなスーパーマン ガンバロン』(1977年) -全話の特殊技術を担当。また、カメラマンとしても参加
- 『ウルトラマンティガ』(1997年) - 撮影技師としても参加
- 第23話「恐竜たちの星」
- 第24話「行け!怪獣探検隊」
- 第29話「青い夜の記憶」
- 第30話「怪獣動物園」
- 第35話「眠りの乙女」
- 第36話「時をこえた微笑」
- 第45話「永遠の命」
- 第46話「いざ鎌倉!」
- 『ウルトラマンダイナ』(1997〜1998年)
- 第1話「新たなる光(前編)」
- 第2話「新たなる光(後編)」
- 第49話「最終章Ⅰ 新たなる影」
- 第50話「最終章Ⅱ 太陽系消滅」
- 第51話「最終章Ⅲ 明日へ…」
関連動画
本人によるレッドマンの解説。