概要
金正日(キム・ジョンイル、김정일、Kim Jong-il)
1941年2月16日〜2011年12月17日午前8時30分。 金日成の息子で北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国の第二代最高指導者。公式名『偉大なる将軍様朝鮮労働党総書記で、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長、朝鮮人民軍最高司令官の偉大な金正日同志』廟号『偉大なる将軍様』また、金日成が提唱した主体思想をさらに発展させた先軍政治を提唱したことで知られる。
後継者になるまで
1941年2月16日ソ連で生まれたとされる(北朝鮮の公式発表によると1942年の白頭山で生まれたとされるが神格化するための捏造の可能性が高い)。出生時の名前はユーリー・イルセノビッチ・キム、愛称はユーラで、北朝鮮に帰国後もしばらくはキム・ユーラと呼ばれ、金正日という名前を使うようになったのはしばらく経ってからの事とされている。
第二次世界大戦終結後の1947年に弟の金万一(キム・マニル)、1949年に母である金正淑(キム・ジョンスク)を相次いで亡くし、1950年に朝鮮戦争が始まると中国へ疎開で父と離れ離れになるなど少年期から前途多難な人生であった。
18歳になると金日成総合大学に入学。大学在学中に朝鮮労働党に入党。叔父の金英柱(キム・ヨンジュ)が部長を務める党中央組織指導部で働くことになった。その後は、組織指導部中央機関指導課の責任指導員、党組織指導部部長、宣伝扇動部文化芸術指導課長などトントン拍子で出世を重ねていった。
そして、1972年に後継者として推戴。その後も後継者争いは続いたが、1982年2月に最高人民会議代議員に就任するなど要職を歴任。最終的に1994年7月8日の金日成の死去に伴って、亡くなるまで本格的に第二代最高指導者として統治を開始することになる。
主な政策など
先軍政治
金正日の政策の中でも代表的な政策の一つ。軍を重視して国家政治を運営とするというもので、主体思想と双璧をなす政治方針の一つ。現在にも繋がる核兵器開発の問題や武力をチラつかせて交渉を行う瀬戸際外交もこれによるものである。
主体農法
元々、日本の統治下に置かれた朝鮮半島は地形の特徴から、北朝鮮の地域は工業地域、韓国の地域は農業地域として区分が行われた。よって、北朝鮮独立後も自給率の問題で悩まされていた。そこで中国のとった大躍進政策を真似て金日成と金正日が行ってきた農業政策のことである。
具体的には、国民に耕地拡大及び農業生産をの向上のために、山を切り崩して段々畑造りを指示するなどを行ったが水害が多発、それに伴って当然自給率の悪化飢饉までも起こるようになり、苦難の行軍と呼ばれる飢饉を乗り越えるためのスローガンが新聞に出される事態までになった。また、それらの責任を部下になすりつける形で部下の粛清を行った事件を深化組事件という。
当時TVニュースでは主体農法の農業としての完成度の低さが指摘されており、農業の本を図書室で読む習慣のある当時の現役小学生から「金正日は日本の小学生レベルの農業の基礎が分からないのか」と唖然とされたと伝わる。
対外政策
元々は旧東側陣営とのを外交活動を展開してきたが、2000年6月に太陽政策(北風と太陽に因んだ韓国による温情による政策)を取る韓国の金大中大統領と南北首脳会談を行い、それに伴って南北共同宣言が発表、6.15南北共同宣言が採択された。
その後、2000年7月、北朝鮮はASEAN地域フォーラム(ARF)に参加。その年から立て続けに西側諸国と積極的にと二国間で国交樹立をした。日本もその動きにあやかって当時の総理大臣であった小泉純一郎氏は北朝鮮に訪問。金正日の頃からの問題であった拉致問題を公式に認めさせ、初の日朝首脳会談を実現し、17日には平壌宣言に調印した。
また、北朝鮮の核問題を巡り、北朝鮮は2005年9月に行われた六者会合における共同声明においてすべての核兵器及び既存の核計画を放棄することを約束した。
今後は諸外国との関係が少しずつ進展するように思われたが、太陽政策むなしく2006年に核実験実施。結果的に手助けする形となった。太陽政策の打ち切りや、その後の拉致問題や核問題の交渉難航化から制裁が続き、世界から孤立化を深めた。
金正日の死
2011年12月17日の午前8時半、金正日総書記は列車で平壌の郊外へ現地指導に向かう途中に死亡した。死因は心筋梗塞。部下による虚偽報告によるストレス説(さしもの金正日もブチ切れたらしい)、元々の精神的・肉体的過労による説、現地の医療不足によるものなど多くの説が囁かれている。現在、遺体は父と同じく平壌近郊の錦繍山記念宮殿に安置・保存されている。
しかし本当に列車内で死亡したのかについては疑問の声もあり、韓国の国家情報院によれば死亡したとされる時間に金正日の特別列車は平壌市内にいたこと、17日ではなく16日の夜に官邸で死亡した可能性があることが指摘されている。
朝鮮中央テレビでは正日の訃報を聞いて泣き崩れる平壌市民の様子が放映され、日本でもその映像が流された。
金日成や金正日以外は誰の死を悲しんだり笑ったりすると死刑とされており
彼の死から12年経つと沈黙は12日に引き上げている
余談
- 愛人の名前の中には、金玉という日本名にすると吹き出してしまいそう名前の女性もいるが、日本のマスコミは正式名称でない「金オク」と表記し、慣例上失礼な行為をしている。
- 金正日の名前を冠した金正日花という花の品種が存在する。(また、父の名を冠した金日成花も存在する)
- 映画好きと知られており、前述した宣伝扇動部にいた際は積極的にプロパガンダ映画を製作している。好きな映画は「男はつらいよ」シリーズで、専属料理人として仕えた藤本健二氏によると映画の音声を吹き替えるための声優の学校も作らせたという。1985年には韓国人の映画監督やゴジラのスタッフを招待して怪獣映画「プルガサリ」を製作している。
- 映画好きは少年時代からである。学校が終わるとすぐに普及所(映画を吹き替える政府機関)へ向かい、一般人民には禁制のアメリカ映画などを好んで鑑賞していた。世の中全てが父の作った物であったため、外の世界に興味があったとされる。
- 無論その分学業が疎かになったため、金日成のパルチザン時代の同志により、精神を叩き直されたと言ったエピソードもある。
- 親が指導者であると言う点を除いても、少年時代よりクラスの人気者であったとの証言が多い。たびたび友人達を招いて家でパーティを行うなど、社交的な少年時代であったとされる。
- 意外であるが、独裁者的存在ながらも、自身の顔色を窺ってゴマをすってくる人間を大変嫌っていたとされている。その為か、日本から派遣されてきた日本料理人の藤本健二が正日から料理の謝礼を彼の足下に投げられた際に不快な反応を見せた時は、意外性のある人物に見えたらしく、専属料理人として採用しただけではなく遊び相手や息子達の世話人として側に置いた程。
- 北朝鮮の学校では彼の偉業やエピソードも学ばれており、一例として少年時代はサッカーが得意であり、全てのシュートは彼(正日)によって決まったという逸話や、幼稚園の頃に先生の「1+1は2です」という発言に対して立ち上がり「1+1は1です」と主張。2つの粘土を手に取ると一つに固めてこれを証明し、水を混ぜても一つになることを例として挙げてみせた、戦闘中に山中から小石を投げて小船に乗った日本兵を一撃で仕留めたというものがある。
参考サイト及び外部リンク
最後に頼ったのは「ほれた娘」“影の後継者” 死の間際に知った正恩らの失敗と裏切り
関連タグ及び関連人物
金日成...父親
金正淑...母親
金正男...長男。3代目指導者で父の跡を継ぐことになる
金正哲...次男
金正恩...三男
金与正...長女
藤本健二...金正日お気に入りの専属料理人
李春姬...北朝鮮の女性アナウンサー。正日の死去を彼女は涙を流しながら報道した。