金大中
きむでじゅん
1925年~2009年
朝鮮半島南部の島嶼群・新安群の生まれで、若い頃は「豊田」と名乗っていた。運送業を経て韓国国会議員に立候補し、落選はしたが民主党スポークスマンとなった。李承晩政権の政策に反対の立場をとり、1961年に補欠選挙で国会議員に初当選できたが、朴正煕が起こした軍事クーデターで無効に。
野党の代表的政治家として頭角を現し、1971年の大統領選挙に臨むが落選。政権に危険視され、暗殺未遂に遭った。朴政権の独裁政治に挑むため、日本とアメリカで民主化活動していたが、1973年に日本のホテルで滞在中に韓国の情報部・KCIAに拉致されて韓国へ連れ出され、海上で殺害されそうになったが、自衛隊が駆けつけて威嚇したため殺害されずにすみ、そのままソウルで軟禁状態にされた。
1978年に解放され、出入獄を繰り返し、1982年にアメリカへ亡命。1985年に帰国して、1992年の大統領選落選後は一時隠遁し、その後に政界復帰。
1997年に第15代大統領に就任。IMF(国際通貨基金)の介入を受け入れて、アジア通貨危機で経済の建て直しに努め、韓国企業の国際飛躍に貢献。その一方で新自由主義による貧富の格差の拡大を招くことになった。
1998年に小渕恵三総理と「日韓共同宣言」を結び、それまで韓国では禁止されてきた日本文化を解禁して推進させ、2002年開催の日韓サッカーFIFAワールドカップを実現。表立って親日的行動はとらず、対日批判的姿勢も見せたが、比較的に反日的ではない。1998年に訪日した際に今上天皇と会談し、天皇の「日王」呼ばわりをやめた。
1998年ベトナム訪問の際、ベトナム戦争における残虐行為を認め、韓国の大統領としては初めて謝罪の意を表明した(金の発言は保守派の強い反発を招いたが、2001年にベトナムの国家主席が訪韓した際、改めて公式に謝罪している。謝罪発言を撤回したという事実はない)。ただし韓国内の反発から、補償を進めるとした約束は事実上反故にされている。
北朝鮮に対しては関係回復に努め、宥和政策「太陽政策」を掲げた。2000年には北朝鮮を訪問して金正日と対面し、史上初めて南北首脳会談を実現させた。この功績が立てられてノーベル平和賞を受賞。ハン・ガンがノーベル文学賞を受賞した2024年まで韓国人唯一のノーベル受賞者だった。しかし、会談実現のために現代グループを通じて北朝鮮に送金した疑惑がある。
2003年に大統領職を退任し、2009年に肺炎を患い、83歳で亡くなった。
カトリック信者で、洗礼名は「トマス・モア」。
漢字復活論者で、韓国での漢字使用を推進した。
小ネタ
- 韓国映画では「誰かに命を狙われていたり重大な秘密を知ってしまった人物が乗った車が交差点に差し掛かると、横から大型車(主にトラック)が突っ込んで来る」と云うシーンが良く有るが、韓国が軍事独裁政権だった頃、金大中は本当にこの方法で暗殺されかかった事が有る。