ここ3年というものは李承晩について聞いたことがなかった。3年の間、南朝鮮のすべての問題はアメリカ軍司令官だけによって指令されており、李承晩は、釜山の奥にいるアメリカ軍の裏庭あたりにおあずけになっていた。……ところが、いま突如として、李承晩はあまりに強大かつ強力であるため、「国連軍司令官もアメリカ大統領も、またアメリカ議会も彼とは太刀打ちできない」と発表されている。ぶざまな茶番劇が上演されているのだ。
1953年7月16日のソ連の新聞『ソヴィエト・ニュース』の記事。( 神谷不二『朝鮮戦争』より)
概要
李承晩ラインでおなじみの大韓民国の初代大統領(3代連続就任した)。
韓国の生みの親にして、用米と用日の基盤を作り上げた張本人。
独立運動家として活動していた甲斐あって、1948年に初代大統領に就任した。
ちなみに真面目なクリスチャンだったらしく、その点も当時のアメリカには好印象だった事も大統領を就任出来た一因。
自分に敵対する者を倒し自分の意思に反する者を消し、多くの支持を集めて大統領になったものの、その2年後にあっさりと国民を裏切る事となった。
第二次世界大戦が終結し、朝鮮戦争開戦から二日後の1950年6月27日、特別列車でソウルから逃亡し、軍人はおろか多くの民間人を置き去りにした。
「周りからの説得で逃げた」という話もあるが、特別列車の用意等の準備期間を考慮すれば、二日での決断となると仮に説得があったにしてもあっさり同意したと思われる。
更に7月1日にはジープと列車で木浦まで向かった後、海軍警備艇に乗船して再び逃亡。翌日の昼前に釜山に到着した。
そのくせ、アメリカ合衆国が後ろ盾になった途端、その意向を笠に着るかの様な姿勢に出始める様になる。
朝鮮への帰国後、長らくアメリカに逃亡していて人望などあるはずも無かった自らの政治基盤を盤石にする為だけに政治の対抗勢力の中心人物達を次々と暗殺。暗殺された人間達の中でも、宋鎮禹、張徳秀、呂運亨の三人は、朝鮮の未来について憂い、国の為に真摯な思いで政治活動していた偉人として、日本やアメリカ側からも評価されている程であったとされている。
その後も反抗勢力の鎮圧を名目に過剰なまでの虐殺活動を軍に命令する等、暴虐の限りを尽くしていき、あまりの惨状からその光景を報道したイギリスのBBCを始め、世界中から非難を受ける事態となる。
更には、自らを支援していたアメリカ側との「南北統一選挙」の約定をも無視。北朝鮮との併合によって自らの権力維持が危機に陥る事を恐れてか、南朝鮮側だけによる選挙を行い、それによって大韓民国の初代大統領の地位を手に入れた。
その後も麗水・順天事件において大多数の虐殺を行う等、問題的な政策を行い続け、あまりにもの苛烈さから南朝鮮を脱出した大勢のボートピープル達が日本に押し寄せる事態にまで発展。北朝鮮の前身となる朝鮮民主人民共和国との朝鮮戦争が勃発した際は、米韓軍事同盟を結んだアメリカ側からも難色を示されて最低限の武器提供しか行われなかった。
おまけに海軍勢力が整っていた結果、朝鮮の南北統一よりも日本への軍事侵攻を重要視する様になり、それを想定した軍事演習を繰り返す様にまでなる。
自国を統治していた日本が第二次世界大戦にて敗戦し、戦勝国である連合国の主導国家となる
1951年にサンフランシスコ平和条約が結ばれた際は、何と第二次世界大戦中にはまだ大韓民国となっていない自国が日本に併合されていた(戦時中においても、国民は「志願制」で日本軍として参加しアメリカ等と戦っていた為、実質的に敵国だった)にもかかわらず、連合国側に対し「自国も連合国(戦勝国)側として条約に参加させて欲しい」という図々しい要求を行う。
これは、「韓国が日本からの弾圧を受け反乱を起こして自由を勝ち取ったのだという事(全くの事実無根で、韓国は統治していた日本がアメリカに敗戦した結果、なし崩し的に独立を果たしたに過ぎない)」を世界中に強調する事で、敗戦国となった日本から賠償の巻き上げだけでなく、対馬と九州を割譲させて韓国領土にしてしまおうという狙いがあったからなのだが、連合国側からはアメリカの後ろ盾を得たのを良い事に増長している事を見抜かれてしまい、却下。アメリカ側からは完全に愛想を尽かされ、韓国領にいた米軍は撤退してしまう事態となった。
しかし、それでもすっかり強気になっていたのか、1953年に国際連合主導による休戦提案が出始めたら、北進統一論を唱えて朝鮮半島の統一に拘り続け、とことん休戦に反対し続け、国連側をほとほと困らせる事になる。
同年の6月18日には、何の予告もなしに北朝鮮の捕虜2万5000人を韓国内に釈放し、6月8日に締結された両軍の捕虜送還協定を反故にした(無論、アメリカは何も聞かされておらず、この様な行動に出たのは、解放した捕虜達を意図的に韓国内で暴れさせる事で、強引に戦争を継続させようとしたという説もある)。
更に中国からの徴兵までも要求し、早期休戦を望む国連軍やアメリカ軍と激しく対立。休戦が決まったにもかかわらず韓国による半島統一を掲げて戦争をごねまくり、国際世論の非難が高まってもお構い無しだった。
しかしどんなにごねてもそんな横暴な我儘が通る筈もなく、1953年7月27日に仕方なく休戦に同意する事となった。
1954年10月14日、国民に対する反日教育に熱中。韓国人に「本帝国主義の侵略性」やら「韓国への悪意」やら刷り込むよう命じ、これによって日韓の間に深刻なまでの軋轢をもたらした。
そして11月27日に生涯大統領を目論み、憲法改正を自由党の屁理屈によって強行した。
しかし1960年に発生したデモを切っ掛けに生涯大統領というわけにはいかなくなって辞退。
実際は殆どの国民を敵に回しての失脚である為、5月29日に妻と共にハワイに亡命した。
1965年7月19日、逃げた先のハワイの養老施設で一生を終えた。(90歳)
独立運動に勤しみ、三十年間のロビー活動の甲斐あってアメリカとの協力関係を結び、韓国を作り上げた。
しかし北朝鮮との戦争が始まって早々首都から逃げ、散々敵扱いしていた日本に逃げようと画策し、反日教育や竹島侵略などで日本との絶望的な軋轢をもたらし、三代連続で大統領となって独裁者としてやりたい放題して国民の怒りを買った挙句、遂には国からも逃げ出したまま息を引き取った。
自国を庇護していたも同然(慰安婦問題や徴用工問題は事実無根に等しく、むしろインフラ設備やハングル語普及による教育の充実化)の日本が敗戦した途端に裏切るだけでなくアメリカの後ろ盾を利用して戦勝国に納まろうとしたり、アメリカからの恩も恩と思わず半島統一を謳ったり、法を変えて大統領になり続けたり、失態を国民の目からそらす為に反日を煽ったり、歴史を都合の良い様に捏造したり、自分の意に反する者は親日と称して徹底的に罰したり、保身に徹して逃げたりと、後の代がやった事は大体やってきたまさに韓国の原点にして頂点。
彼の功績がなければ「漢江の奇跡」や「日韓通貨スワップ」などといった後の代の活躍が起きる事はなく、アメリカの同盟国になる事さえままならなかった。
良くも悪くも彼を超える韓国大統領は存在する事はない。
反日の理由
李承晩は海外での活動が多く、韓国併合による日本統治時の朝鮮半島を碌に見ていなかった。
その為、「「自国は日本に弾圧され続けた(「全く無かった」とまでは言えないかもしれないが)」という「思い込み」により、反日思想家としての片鱗を見せていく事になった」と思われやすい。
確かに彼は日本に対する一方的な因縁を植え付けて韓国が反日ありきの国となった原因そのものではあるものの、旅行目的で日本に立ち寄った事もある人物が「自国は日本に弾圧され続けた」思い込むとは考えづらい。
では何故反日的行為を行ってきたかと言うと、その方が都合が良かったからのではないかと思われる。
実は李承晩には元々利己的な面があり、愛国心なんてものがさらさらない印象を受けるエピソードがいくつか存在する。
その内の二つが上記にもある朝鮮戦争時の逃亡とハワイへの亡命だが、実は大統領就任前にも大韓帝国の皇帝らを裏切っている。
とはいえ1904年当時の彼はその皇帝の退位要求をしていた事で捕まり約5年も自分を拷問されてきた身であった為、忠誠心がないどころか寧ろ恨みで一杯だったのだろう。
その後は彼にとっての第二の故郷となったアメリカに居続けて博士号を取得し、後のアメリカ大統領に気に入られた事で「将来の朝鮮独立の救世主」と紹介され、独立のカギとなるアメリカとの太い繋がりが形成された。
そして没落していたとはいえ元は両班だった家の生まれであり、尚且つ学生時代から独立運動を行っている李承晩は反日こそが独立のカギとなる事を既に知っており、それが臨時政府での活動とアメリカでの30年ものロビー活動、そして大韓民国の建国やその後の時代にも続く政策と教育に繋がっていると考えられる(朝鮮の活動家達の中には両班だった人がおり、両班などの制度は日本によって廃止された)。
発言
- 「われわれ朝鮮は、国際社会で泣いている子どもと同じだ。われわれが望むのは、正義と公正だけだ。泣く子は、時や場所をわきまえない。朝鮮は、諸大国が集まりさえすれば、時も場所もわきまえることなく泣き立てるだろう」
1944年9月、米国の官僚への発言。
「アメリカは余り信じるな。ソ連の奴らには騙されるな。日本は必ず再起する。注意せよ!」
李承晩ラインを引いた年の発言(当時の韓国で流行語になった)。アメリカの後ろ盾があったからこそ南朝鮮は韓国として独立できたにも拘らずこれである。
- 「停戦反対、北進統一」「休戦は国家的死刑」
国連から休戦提案が出始めた時の発言。世界各国をほとほと困らせた。
創作では
建国戦争(原題:건국전쟁)
李承晩を再評価する異例作。2024年2月13日時点で累計観客数が32万人を記録し、ドキュメンタリー映画としては異例のヒット。
関連
- 徐載弼 - 朝鮮の革命家。李承晩と対立。アメリカにて独立運動を展開。
- ジョン・フォスター・ダレス - FBI長官。李承晩と蒋介石を「クリスチャンの紳士」と呼ぶなど、内面への理解が足りていなかった。