概要
この項目に関しては双方に関して解説を行う。
高麗における両班
高麗においては、唐および宋の統治機構を参考にしつつ、文臣( 文班 )と武臣( 武班 )の2つの班からなる官僚制度を用いた。
ただこの制度に関しては採用の違いや思想面での違いにより対立が発生、高麗滅亡のきっかけの一つともなったとされる。
文班
基本的に科挙により採用される。ただし、上位階級の直系の子供は自動的に採用される。
儀式の際東側に列したため東班とも呼ばれることがある。
武班
世襲あるいは兵士からの選抜により採用される。儀式の際西側に列したため西班とも呼ばれることがある。
朝鮮王朝の階級
ここで説明する両班は、朝鮮王朝( 李朝 )の貴族・士族階級。
李朝の官僚制度は高麗とは異なり、両班は官僚試験である科挙( 文科と武科 )を受けることの出来る身分を指していた。
この階級にはほかにいくつかの特権、例えば実質上の兵役である軍布や一部の労役や税の免除、下の階級に道などを譲らせる権利などが存在した。
また両班の息子は( 母親が被差別階級ではない限りは )自動的に両班になるが、数代に渡り官吏を出せないとその地位を失うことになっていた( ただし実際にはそのようなことはなかったとされる )。また、儒教と結びついていたため、労働や商売に手を出したり、政争により身分を失う場合も存在した。
人数
李朝初期の両班はもともと人口の3%程度だった( それでも他国の貴族に比べて人数が多かった )とみられている。
ところが、朝鮮出兵や清の侵略等で敵を切ったものにこの階級への上昇を認め、さらに疲弊した李朝は穀物や金を朝廷に供出した庶民にも両班の名乗りを許すようになったためその人数は増加した。
また時代が下ると両班の身分や偽の身分証の売り買い( 国などの組織が認める場合と階級の戸籍に書き加えてもらう場合がある )が横行するようになったとされ、地域によっては人口の過半数が両班( 自称を含む )となっていたとされる。
生活
もともと両班は「働かない身分」を誇示しており、一族から官僚を輩出できない場合( 一族のうちだれかが官位があるならばそこに扶養してもらう )基本的に土地を所有し地主として生計を立てていたが、そのような土地も限られており没落したり自称するものが増えた李朝後期には、両班のほとんどが大した特権を持たない庶民同様の暮らしをしていた、あるいは一般階級からの強奪により生活していたと思われる。
朝鮮王朝における身分制度
特に必要はないが、一応身分制度を記述する。
特権階級として国王とその一族、そして両班、一般階級として技術を持つ中人、基本的に農民である常民、差別階級である賤民( なお賤民にもいくつかの分類が存在 )が存在するとされる。
現代における状況
現代、大多数の韓国人は両班の家系を自称している。逆に北朝鮮においてはこの階級は打破されるべき存在であるため、ほとんどが否定すると思われている。