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李成桂

りせいけいもしくはいそんげ

高麗王朝を打倒して李氏朝鮮(朝鮮王朝)を建国した初代の王。韓国語では「イ=ソンゲ」と読む。
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概要編集


1335年10月27日、高麗王朝に仕える軍人李子春とその妻崔氏の長男として聖誕。1361年に紅巾軍10万を撃退して首都を奪還する、咸興平野で元朝軍(モンゴル帝国)を撃破するなど、武名を高めた。李成桂の転戦は続き、1377年には倭寇の殲滅、1380年には高麗の元帥2名を戦死させていた倭寇軍と対決して勝利を収めた。


それによって李成桂に新興の官僚や豪族の信望が集まり、その勢力を削るために高麗国王は1388年に遼東遠征を命じたが、李成桂は鴨緑江の中洲にある威化島で軍を返してクーデターを起こした。これが威化島回軍である。権力を奪われた高麗国王や王に忠誠を誓う者達の反撃も退け、1392年には高麗王室から禅譲された。


しかし、出来立ての王権は脆弱であり大明から権知高麗国事(高麗国王代理)として認められた上でのものだった。事実、翌年には洪武帝に国号を選んで貰い、李氏朝鮮の王として封ぜられている。1394年には開城から漢陽(ソウル)に遷都した。この年、クビライの娘を后にした忠烈王以来、モンゴルと深い関係を持っていた高麗の王族を家臣達の要請もあって粛清して滅亡に追い込んでいる。


明の後ろ盾で政権を樹立し、モンゴル勢や倭寇を駆逐して新王朝を建国してからも、李成桂の激務は続いた。1398年には八男に後継者の座を譲ろうとしたために五男の李芳遠(のちの3代太宗)が第一次王子の乱を起こし、李成桂は次男の定宗に譲位した。1400年には四男が第二次王子の乱を起こして鎮圧され、兄から位を譲られた芳遠が即位して太宗になるなど、李成桂の晩年は不幸な争いが続いた。政治から離れた李成桂は仏門に帰依して念仏三昧で暮らし、1408年に74歳で崩御した。太祖康献大王の称号を奉られ、後に大韓帝国で太祖高皇帝の称号を受けた。


逸話編集

  • 出自に不明な点が多く、朝鮮族説・女真族説・モンゴル軍閥・漢人説など諸説がある。母は中国の山東半島の出身だったと言われる。

  • 武芸の達人で特に弓の腕前に優れており、競技・賊退治・狩猟などでその腕前をいかんなく発揮した。愛用した武器は「御角弓」とスモモで作った矢で、それは現在北朝鮮が保管している。また、「伝御刀」と言う剣も所持していたが、それは竜王の子孫とされた高麗国王を倒した際に刃こぼれしたという伝説がある。

  • 高麗王朝への厳罰や晩年の血生臭い闘争で有名な李成桂だが、どちらかと言えば心優しい性格だったことを示すエピソードも多い。降った高麗の王族も当初は内地に住まわせる寛大な処遇を考えており、高麗に忠誠を誓っていた崔瑩と言う武将(流罪の後に処刑)を不本意ながらも処罰している。また、身分の低い母から生まれた腹違いの兄弟にも差別せず、平等に扱うなど情の厚い性格をしていたという。

  • 一方で他の息子や娘婿を殺した五男・李芳遠との仲は険悪で、形式上は和解したが報復すべく弓矢と鉄槌を用意して芳遠を討ち取ろうとしていたが、最終的には失敗して諦めたと記録されている。

李成桂が登場する作品編集


ドラマ編集


  • 『開国』1983年。韓国
  • 『龍の涙』1996~1998年。韓国
  • 『辛旽 高麗中興の功臣』2005~2006年。韓国
  • 『大風水』2012~2013年。韓国
  • 『鄭道伝』2014年。韓国

ゲーム編集

  • コーエーテクモの歴史ゲーム。『蒼き狼と白き牝鹿Ⅳ』で初登場。顔グラフィックは、割と逞しい肖像画とは異なって韓国の民族衣装を着た美少年で描かれる。政治・戦闘力共に優れており、王朝の創始者らしい逸材。

後に『信長の野望』『三國志ツクール』でも他の武将と共に顔グラが配信された。


関連タグ編集

朝鮮王朝 李氏朝鮮 大韓民国 大韓帝国

武将 王様 皇帝 弓術 韓流ドラマ

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