本項目は李氏朝鮮時代の人物について記述する。
生涯
李舜臣(ハングル:이순신)、字は汝諧(ヨヘ、여해)は、1545年(明暦:嘉靖24年)、父・李貞の子として、漢陽の乾川洞に生まれた。
22歳から武科の試験(科挙)を受け始め、合格したのは1576年(この時32歳だった)。
その後各地を転戦していく事となったが、1591年、幼馴染みであった柳成龍の推薦により全羅左道水軍節度使に抜擢されたことで、その後の彼の運命は変化していった。
1592年、豊臣秀吉による所謂朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が始まると、李氏朝鮮の将軍として策を講じるも当時の李氏朝鮮の上層部の腐敗は甚だしく、後方支援が望めない状況の中、最大限の被害を与える現実的な手段として海上ゲリラに徹し日本軍側を苦戦させる活躍を見せた。しかし上層部は手柄を立てる事に嫉妬し、独断専行に近い行動をとっていたため更迭され(当時の宮廷は政争に明け暮れており一々上層部の指示を待てなかった面もある)死罪を宣告されたが、なんとか助命され一兵卒まで落とされてしまう事態も起きたが、また返り咲き日本軍を苦しめた。しかしこの頃には日本側も対策を練っており初期程の戦果を挙げられなくなってしまう。
そして、最期については定かではないが、韓国や日本の一部資料によれば、追撃中に流れ弾に当たり戦死したこととなっている。
この辺りは目下議論の的となっている。
人物評
とにかく韓国での人気は非常に高い事で有名である。一方、日本においては、知られているには知られているが、マイナー路線というのが正直なところである。
その事を裏付けるように、彼を題材とした映画『鳴粱』(2014年)が韓国国内において爆発的ヒット作となっている。
この映画での李舜臣は腐敗や嫉妬が蠢く朝鮮にいながら優れたリーダーシップを発揮し、僅か13隻の船で日本の133隻もの大軍を打ち破った英雄として描かれている。その姿はリーダーシップの優れた政治家が乏しい今日の韓国において、憎き日本を叩き潰した内容と合わせて多くの韓国人を熱狂させた。
資料は少ないながら当時の朝鮮半島で数少ないまともな戦術眼を持ち、上に足を引っ張られながらも日本との絶望的な戦いをやり遂げ、最終的にはあっけなく死亡と中々に波乱万丈な人生から創作のし甲斐があるのも原因だろうが、いかんせん資料が少なく人気の高い韓国でも講談や小説との混同が激しい。
関連タグ
亀甲船(彼が使用したとされる伝説的な軍船)