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韓国史

かんこくし

この記事では、韓国およびそれ以前の朝鮮半島(韓半島)の歴史を扱う。かつては「朝鮮」の歴史と呼んだが、現地で朝鮮を地域名として用いているのは北朝鮮だけである。日本でも朝鮮半島という慣用表現を除いては、教科書などでも変更が進んでいる。
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古朝鮮編集

現代の韓国にあたる地域には有史以前から石器文化を持つ人々が住んでおり、次第に稲作文化も根付いた。紀元前2世紀初頭頃に中国からの移住者によって衛氏朝鮮が成立。これが朝鮮半島で実在が確認できる最初の王朝であるが、どの程度の領域に支配を及ぼしたかはっきりしない。紀元前108年にこれを滅ぼした前漢の支配下となった。


朝鮮神話では、紀元前2333年10月にとの間に誕生した半神・檀君によって古朝鮮が建国され、紀元前194年に衛氏朝鮮によって王倹城が陥落して滅亡したとされている。韓国の歴史教科書はこの古朝鮮を韓半島で最初の国として位置付けている。


四国時代〜三国時代編集

一方、半島南部には馬韓、辰韓、弁韓、という三つの民族が居住し、合わせて三韓と呼んだ。紀元前1世紀から1世紀にかけて、三韓を元に新羅百済・伽倻・高句麗が建国されて四国時代が始まったが、562年9月に伽倻が滅亡して三国時代になった。660年7月に・新羅連合軍によって百済、668年11月に高句麗が滅亡し、新羅は一応の半島統一を達成する。



南北国時代〜後三国時代編集

698年12月に大祚栄を始祖とする渤海が建国されて南北国時代が始まったが、新羅は政権勢力間の争いで民心が悪化した為、弓裔を中心とする後高句麗と甄萱を中心とする後百済が建国されて後三国時代が始まった。


高麗編集

918年、新羅の北部に自立した弓裔の部下であった王建は、暴政により人心を失った弓裔を追い出して高麗を建国。高麗は高句麗の後継政権を意識した名である。926年1月に渤海を滅亡させ、935年11月に新羅を下し、936年6月に後百済が滅亡して高麗は三国統一を達成する。


高麗は、文班と武班の両班といわれる貴族階級による政治であった。これは後続の朝鮮王朝にも継承される。新羅時代から国家的な保護を受けていた仏教が栄え、儒教も独自の発展を遂げた。13世紀にモンゴル帝国の侵攻を受けて首都開城を占領され、以降高麗はモンゴルに服属する。


朝鮮王朝編集

中国大陸での明朝の建国に伴い、高麗王朝の元への忠誠を続けようとする親元派と、明に協力しようとする親明派の抗争の中で台頭した李成桂(イ・ソンゲ)が1392年、高麗を簒奪して朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建国した。


26代を数えた歴代王の中でも、1418年から1450年まで在位した第4代国王の世宗は、儒教による統治を確立し、文化・学術の隆盛に貢献したことから後世世宗大王と称えられる。特に訓民正音(ハングル)を創製したことが第一の業績とされる。この後、燕山君の愚民化政策によるハングル禁止などもあったが、庶民にもハングル使用が徐々に普及していく。


王朝は1592年から1598年にかけて日本の豊臣秀吉からの2度の侵攻を受け、一時亡国の危機に陥る(壬辰倭乱・丁酉倭乱)。明朝の支援を借りつつ、李舜臣(イ・スンシン)の指揮下で日本勢力を駆逐し、国土を回復した。第16代国王の仁祖は、宗主国の明朝を助け後金(女真人による王朝)に対抗する政策を採ったが、と国号を改めた女真人の侵攻を受け、服属を余儀なくされた。


文化面では概して仏教よりも儒教を重視する政策が取られた。朱子学が伝わり、内面的な道徳性を重んじた李滉(李退渓)と実用的な合理性を重視した李珥(李栗谷)の二大潮流に分かれて論争発展した。また活字印刷により書籍が広く普及した。


大韓帝国編集

1895年4月、日本と清朝が朝鮮の支配権を巡って対立した日清戦争が日本の勝利に終わり、日本は清朝に「朝鮮は独立国家である」と認めさせ、1897年10月に大韓帝国を国号とした。日本とロシアは、冊封体制から離脱した朝鮮を争って自国の影響下に置こうとした。


日本統治時代編集

1904〜1905年の日露戦争後は、ロシアの影響力が排除され日本の保護国となり、1910年8月に韓国併合ニ関スル条約が締結され、韓国は朝鮮総督府の統治に服した。日本は朝鮮半島に多額の資金と人材を投入し、北部は豊富な地下資源や水資源を生かした工業地帯、南部は日本内地にを供給する穀倉地帯とした。農業・工業とも近代化がなされ、全土に近代教育が普及し、京城ソウル)にはモダン文化の花が咲いたが、農村では大地主への土地集積が進み、米の大増産にもかかわらず内地への移出により貧しい農民は満足に米が食べられなくなるなどの問題が発生した。1937年の日中戦争の勃発後は強行的な日本化政策(皇民化政策)が敷かれ、1939年には朝鮮人の姓名を日本式の氏名に変えさせた(創氏改名)。


戦後編集

1945年9月に太平洋戦争が集結し、日本がポツダム宣言を受託した事で朝鮮半島は日本の統治から離脱したが、同年2月のヤルタ協定連合国首脳は戦後の朝鮮をアメリカ合衆国(アメリカ)・イギリス・中華民国・ソビエト連邦(ソ連)の4か国による信託統治下に置く事を決定していた。しかし冷戦によるアメリカとソ連の対立が深まり、38度線を境に朝鮮半島は2つに分断される。こうして韓国北朝鮮が分立し南北に分断。朝鮮戦争後も緊張対立が続いている。以後の歴史のうち北朝鮮については北朝鮮の記事を参照。


第一共和国編集

1948年8月15日、大韓民国がそれまで朝鮮半島の38度線以南を占領していた在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(USAMGIK)の統治を引き継いで成立した。この時期はアメリカの支持を背景に李承晩(イ・スンマン)大統領が独裁的に振る舞った。


1950年6月、韓国と北朝鮮の間で朝鮮戦争が勃発する。1953年7月の休戦までの間に国土は荒廃し、日本統治時代に築かれたインフラ釜山周辺を除いて破壊され、経済はアジアの最貧国にまで後退した。


1952年1月、李大統領は、日本の領海を韓国側に組み込んだと一方的に宣言した。その際に韓国の民兵組織が竹島を占拠し、現在に至る領土問題がもたらされた。


李承晩による権力の私物化により、第一共和国では腐敗が蔓延し、暴力団が横行した。1960年4月19日に行われた学生によるデモを契機に政変が発生し、李はハワイに亡命して憲法改正を実施した(四月革命)。


第二共和国編集

四月革命後、1960年7月29日に新しい議会選挙が実施され、韓国は第二共和制に移行する。第二共和制が歴代の韓国の政権と違うのは、議院内閣制で国務総理(首相)に権力があった点である。この時の大統領は尹潽善であるが、張勉(チャン・ミョン)が国務総理を務め実質的な権力を握っていた。独裁打倒の余勢を駆って朝鮮の統一を求める学生運動が台頭し、政治的に不安定な状況が続いた。


第三共和国編集

1961年5月に朴正煕(パク・チョンヒ)のクーデターにより、国家再建最高会議による軍政が敷かれる。これがそのまま朴が大統領を務める形の民政に移行することで成立したのが第三共和国である。


1965年6月に日本と日韓基本条約を締結して外交関係を樹立し、この際に日本が支払った賠償金(名目は経済援助金)を原資に経済発展に邁進してアジア有数の工業国となった(漢江の奇跡)。ベトナム戦争では韓国軍を派遣してアメリカから経済援助を引き出した。


第四共和国編集

1971年の大統領選挙で朴正煕大統領は3選を果たしたものの、野党・新民党の大統領候補として出馬した金大中候補に95万票余りの差にまで攻め寄られた。これに危機感を覚えた朴大統領はソウル市一円に衛戍令を発令、12月には全土に国家非常事態を宣言し反政府勢力への締め付けを強める。


1972年10月、朴大統領は非常戒厳令下で国民投票を実施し、憲法改正を断行する。大統領の多選禁止規定を撤廃し、大統領の直接選挙を撤廃して間接選挙制に改めるなど、朴の終身独裁を可能としたものだった。


1979年10月26日に朴大統領の古い友人であった金載圭(キム・ジェギュ)中央情報部部長によって、酒宴の席において朴正煕大統領が暗殺される。その後崔圭夏(チェ・ギュハ)が暫定的に大統領に就任するが、その政治的基盤の脆弱さから朴政権下で子飼いの実力者として保安司令官の座にあった、全斗煥(チョン・ドゥファン)率いる新軍部(ハナフェ)と呼ばれるグループの台頭を許した。軍部の掌握を目的とした12・12粛軍クーデターと、それに反対するデモに参加した民衆が虐殺された光州事件が発生するが、「北朝鮮の扇動による暴動」とされた。


第五共和国編集

1980年9月に全斗煥が大統領に就任し、同時に憲法改正が実施されて第五共和国へ移行する。朴大統領の路線を継承し経済優先の政策が進められ、国民の関心をスポーツや娯楽に逸らそうとオリンピック招致・野球サッカーなどのプロスポーツリーグの設立などがなされた(3S政策)。


しかし、国民の民主化への期待はかつてないほど高まり、光州事件における虐殺的鎮圧の実相も明らかにされ、1987年6月には「6・10デモ」という全国規模の大規模なデモも発生、大統領直接選挙制改憲実現などの一連の民主化措置を約束する「6・29宣言」を全斗煥政権から引き出した。


第六共和国編集

1987年12月に大統領直接選挙が実現し、韓国は第六共和国に移行する。


1988年2月に金大中陣営と金泳三陣営の分裂に助けられる形で大統領に就任したのは、軍人出身で新軍部のメンバーであった盧泰愚(ノ・テウ)であった。しかし民主化を求める声に抗しきれず、院政を目論んだ全斗煥の政界追放などを行わざるを得なくなり、1987年10月の第六共和国憲法制定を経て、ソウルオリンピック国際連合加盟を果たした。


1993年2月に金泳三(キム・ヨンサム)大統領が就任し、韓国は文民政権に移行した。朴正煕政権以来32年間続いていた軍事政権はようやく消滅したが、金泳三は在任中にアジア通貨危機を引き起こしたので評価は低い。この当時日本から単独金融支援を引き出そうとするも、拒絶されて通貨危機に巻き込まれた。拒絶されたのは金泳三自身の反日発言が原因だとも言われている。


1998年2月に軍事政権に長らく抑圧を受けてきた金大中(キム・デジュン)が大統領に就任し、韓国史上初めて進歩主義の大統領が誕生する。金大中は北朝鮮や日本に対して融和姿勢をとり、南北会談や日韓サッカーワールドカップを実現させた(太陽政策)。

また、日本の大衆文化を開放した事で、韓国の若者が日本に抱く嫌悪感を薄れさせるのに大いに尽力し、韓国軍の自国民虐殺である済州島四・三事件に対して「済州四・三真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」を打ち出したり、ベトナム戦争での残虐行為に対し謝罪する意思を明らかにしたり、北朝鮮との南北首脳会談を実現させる(6.15南北共同宣言)など、外交・人権の面で大きな前進を実現しノーベル平和賞を受賞した。しかし内政においては経済危機下で国際通貨基金の介入を招き、新自由主義改革により貧富の格差が大きく拡大した。


2003年2月に進歩主義から金政権の後継として擁立された盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権では、金政権の北朝鮮への融和姿勢を引き継ぐと共に「左派新自由主義」路線を継承した。しかし北朝鮮への経済援助は核実験の実施により裏切られ、行き詰まった盧政権は保守化した。一方で日本に対しては文民政権の正当性を確立するために、対日強硬政策へと舵を大きく切り直した。最終的には不正資金疑惑やイラク派兵の実施から支持者も離反し、選挙では保守派の李明博(イ・ミョンバク)に惨敗した。


2008年2月に発足した李明博政権でも、盧政権に引き続き新自由主義経済改革路線を走った。ちなみにこの時に経済政策のアドバイザーを務めたのが竹中平蔵である。その為韓国は後述のような激しい競争社会と化した。アメリカとの自由貿易協定に代表されるグローバル資本主義推進・財閥企業偏重政策の為、韓国の地場産業は衰退の一途をたどった。貧困失業は拡大を続け、広がる社会不安を取り繕う為に政府は国民に海外出稼ぎを奨励し、用日姿勢を強める事となった。その為日本においては韓流の急激な浸透・嫌韓感情の拡大を同時に招く事になる。


2013年2月に朴正煕の娘である朴槿恵(パク・クネ)が大統領に就任した。しかしながら汚職の事実などが明らかとなって2016年12月に罷免され、2017年3月に逮捕された。ここからしばらく大統領は空席の期間が生じる。


2017年5月にようやく実施された選挙によって文在寅が大統領となる。文在寅は前政権の腐敗を弾劾して政権についた関係上、前政権が日本と締結した従軍慰安婦問題に関する合意に疑義を呈している一方、それが日本との交流を阻害する事があってはならないと公言するなど、玉虫色の対応を取っている。しかし結果的には国交正常化後の歴代政権において最も対日関係を悪化させた大統領であり、日本では否定的意見が目立った。


2022年5月に尹錫悦が対立候補の李在明との僅差によって勝利し、大統領に就任する。

彼の名前の読み方についてであるが、歴代大統領の中でも最も難読の名前であり、少なくとも大統領就任直後においては報道機関によって揺れがあり、ソギョル、ソンヨル、ソクヨル、ソンニョルなど、現在は各報道機関にて読み方にバラツキがある。この記事ではピクシブ百科事典の記事名であるるソンニョル読みを採用する。

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