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昭和モダン

しょうわもだん

昭和モダンとは昭和時代の初めの近代市民文化のこと。
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この言葉は昭和時代初頭の、1930年代に花開いた和洋折衷の近代市民文化を指す。

概要

モダンは「現代の」や「新しい」という意味を持つ英語の単語であり、大正ロマンの時代からこの時代にかけて流行した言葉である。

昭和モダンの時代

華やかな大正時代の最後に待っていたのは大正十二年( 1923年 )の関東大震災であり、これにより東京および関東地方は壊滅的な被害を受けたが、その復興事業は区画整理および道路の整備、建て替えによる高層ビル建設などが起こり、東京の近代化を推し進めた。

大東京

そして昭和五年( 1930年 )に天皇臨席の帝都復興完成式典が挙行された。この頃に生まれたのが東京を指す「大東京」という呼び方であるといい、東京は周辺五郡を合併し、それぞれが郊外住宅地を形成して現在存在する私鉄各社路線が揃って新宿池袋渋谷の新興ターミナルを発展させ( 有馬学『帝国の昭和』148-172 )、また大正期に比べて新聞の社会的地位が向上し、優れた大学生がそれまで「羽織ゴロ」と呼ばれ軽蔑されていた記者採用受験に殺到するようになったという。

大宅壮一の分析

ジャーナリストであり評論家でもある大宅壮一は『モダン層とモダン相』( 昭和五年 )にて、「この時代のモダンとは不安動揺、懐疑等で表現される資本主義末期であり、映画ジャズダンススポーツを通じて輸入された没落した中産階級・有識無産階級のモダニズムである」とした。

マルクス主義と庶民文化

大宅が分析するように、思想的には時代はカール・マルクスが提唱した科学的社会主義、いわゆるマルクス主義へと転回しつつあった。

政治世界

北岡伸一『政党から軍部へ』によれば、政治の世界でも無産政党が進出した。共産党系の運動は繰り返し弾圧および構成員の転向が繰り返されほぼ壊滅したが、社会民衆党、日本大衆党といった無産政党が国政選挙に候補者を立て、数名の当選者を出す事態となり( 北岡 pp89-101 )、これは現代の感覚からすると意外に少ない感があるが、例えば伊藤は当時のプロレタリア文学は高学歴エリート層文化であって庶民への影響は限られていたと分析している。

庶民の動向

一方、庶民文化の代表とされる雑誌『キング』の諸記事は、明治天皇その時代絶賛し、相対的に昭和天皇の評価を下げ、軍部の天皇への信頼低下、軍部の台頭と暴走への一因( 伊藤之雄『政党政治と天皇』362-371 )となったともされる。

満州事変

満州事変の勃発により、無産政党の方向も大きく変更し、例えば社会民衆党は満州事変の対応で分かれ、その中でも右翼的傾向のあった赤松克麿らは離党するもののの、結果としては陸軍統制派に迎合する結果となり、「は日本の生命線なり」「参謀本部・陸軍省の方策には無条件に賛成する」と主張し国家社会主義の立場を取るようになってしまい( 『政党から軍部へ』89-101 )、政治面での昭和モダンはは次第に満州事変から太平洋戦争に至る戦争の時代の中に消えていく。

時代の諸相

実際にその時代の諸相を映画、スポーツ、服装などを記述する。

映画

北岡によれば、大正十三年( 1924年 )から常設映画館が急増したといい、例えばチャップリンの『黄金狂時代』が人気を博したとされる( 北岡 pp.121-139 )が、当時はまだ活動弁士が活躍する無声映画が主であり、映像と音声が同期するトーキー映画が登場したのは昭和六年( 1931年 )の米国映画『モロッコ』が初めてである。

スポーツ

大正十三年( 1924年 )の第八回パリオリンピックには、日本人選手19人が参加し初のメダル獲得、次の昭和三年( 1928年 )アムステルダムオリンピックでは、三段跳び織田幹雄、200m平泳ぎ鶴田義行が日本人初の金メダルを獲得した。

国内スポーツ

北岡によれば、一般的に人気が高かったのはアマチュア野球であり、全国中等学校野球優勝大会( 現在の夏の高校野球選手権 )は既に確立した歴史を重ねていたが、大正十三年には完成したばかりの甲子園球場で開催されてさらに関心が高まった。昭和二年( 1927年 )からは、始まったばかりのラジオによる放送により中等学校野球の実況中継が行われ、またこの年、都市対抗野球が明治神宮外苑野球場( 現在の神宮球場 )で始まり、こちらも高い人気を誇った。

文学

文学に関しては政治とのつながりが深くなっており、社会主義と結びついたプロレタリア文学の勃興などが

それまでの文学界

伊藤之雄『政党政治と天皇』( pp.362-375 )が述べるように文学界では武者小路実篤有島武郎らの白樺派、芥川龍之介菊池寛らの新思潮派が主導した大正デモクラシーの潮流は行き詰まりを迎え、芥川が自殺したのが昭和二年( 1927年 )であり、白樺派の雑誌『白樺』も関東大震災に際して終刊した。

プロレタリア文学

小林多喜二はマルクス主義思想の立場から『蟹工船』を著し、水夫虐待とそれに反発する争議を描き、小林や『太陽のない街』を描いた徳川直らのプロレタリア文学は当時激しさを増した資本家・地主と労働者・小作人の対立の中で、労働争議などを素材として立憲君主制を否定しプロレタリアート( 労働者農民 )による独裁を目指す作品を世に問うた。

庶民の文化

一方、日本映画講談落語などに現れた当時の庶民文化はむしろ親孝行や主人への忠義、立身出世と勤労の美徳といった通俗道徳の世界であったといわれ、その代表例は大日本雄辯會講談社雑誌『キング』があげられ、内容等は安価かつ国家的道徳的信念や感動的な物語を主軸に置き、小説、美談や逸話、実用知識などの記事で構成されており、昭和二年( 1927年 )には140万部を記録するほどとなり、その他7種類の雑誌を発行し戦後の『キング』廃刊後名称を改めた講談社は関東震災前には日本一の発行部数の出版社となり、今日に至っている。

昭和モダンの服飾

関東大震災からの復興が進む銀座には百貨店再建あるいは進出、地方へ流行を発信する拠点となった。そんな銀座にモボ( 「モダンボーイ」の省略形 )、モガ( 「モダンガール」の省略形 )という洋装の男女が集うようになった( 増田美子『日本衣服史』 )。

モボとモガの衣装

モボは山高帽をかぶり頭髪オールバックにして服装は格子洋服に裾が広がったラッパズボンで手にはステッキ、モガはショートスカートにハイヒールショートカット( 断髪 )であり、より簡易な洋装としてアッパッパも流行した。

女性の断髪に関して

当時の日本では女子は長髪が常識であり、断髪はかなり勇気がいることとされ女学生退校処分の原因にすらなったとされる。

アッパッパ

一枚の布を直線裁ちし、半袖付きワンピースとしてボタンホックで止めるデザインの簡易的な洋服であり、洋装や洋裁の知識が乏しかった当時の女性にも縫製可能であり、震災により着るものを失った人々の間から下町のおかみさんを中心に流行が始まったとされ、安価で涼しいことから、昭和四年( 1929年 )の40年ぶりという猛暑を機に翌年にかけて大流行した( ここまで『日本衣服史』 )。

一般人の服装

だがそれでも当時の女性はまだまだ和装が多かったといわれ、昭和三年に三越正面で行われた調査では、女性の洋装は16%、和服が84%であり、男性では洋装61%の和服39%というデータが存在している( 北岡伸一『政党から軍部へ』127)が、これに対して、増田によれば子供や学生には広く洋装が普及しており、男子学生は詰襟長ズボンの洋装学生服、女子学生も大正末以降に全国的に水兵服にセーラースカーフ、ブリーフスカートのいわゆるセーラー服が広まっっており、同じく子供服も家庭生活の合理化を掲げた「生活改善運動」もあり、震災の経験で活動的な服装が求められた事などから、大正末にはほぼ洋服となり、男児にはジャケット半ズボン女児のワンピースやツービース、また男女を問わずセーターオーバーコートベストシャツなどがあった( 『日本衣服史』 )とされ、先に示したデータが示す結果は「年配女性の洋装の正装に近い衣装が少なかった」という可能性も存在する。

その後の衣装

昭和四年に世界恐慌が始まり、不況資源の欠乏に悩む日本は昭和六年( 1931年 )に満州事変、昭和十二年( 1937年 )には日中戦争に突き進み、この年、毛製品と綿製品にパルプから合成可能なレーヨン、当時はスフ( ステープル・ファイバーの省略形 )と呼ばれる人造絹糸繊維を混用する規則が制定されたものの、この時代のスフは肌触りと強度に劣り、にもにも弱いという大変厄介な繊維であり、仕立てにも型崩れを防ぐ工夫が要求されるものであったが、戦争の激化による原料不足によりスフの混用対象と混用率はさらに拡大、昭和十三年七月には各デパートでのファッションショーも堅実な衣装を普及させる為にという理由で開催禁止になる自体となり、さらには昭和十五年( 1940年 )には男性全てがいつでも軍人として動員可能となることを狙いカーキ色の軍服に似た国民服が制定され、衣料が配給制となるにしたがって全男性に広まっていき、さらに女性の服装も空襲の激化や本土決戦が迫るにつれて、ほとんどが避難に適したもんぺとなった。このように衣服は終戦に至るまで戦時体制下に移っていったとされる( 『日本衣服史』 )。

関連タグ

大正浪漫 昭和 昭和初期
昭和レトロ 戦中 戦後

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