この言葉は昭和時代初頭の近代市民文化を指す。
昭和モダンの時代
華やかな大正時代の最後に待っていたのは大正十二年(1923年)の関東大震災であった。東京は壊滅的な被害を受けたが、その復興事業は区画整理と道路の整備、高層ビルの建設と東京の近代化を推し進めたそして昭和五年( 1930年 )に天皇臨席の帝都復興完成式典が挙行された。この頃に生まれたのが東京を指す「大東京」という呼び方であるといい、東京は周辺五郡を合併し、それぞれが郊外住宅地を形成して現在存在する私鉄各社路線が揃って新宿、池袋、渋谷の新興ターミナルを発展させた。( 有馬学『帝国の昭和』148-172 )
一方で、関東大震災の被災者が大阪市などの都市へと転移したこともあり、大阪市では人口が急増。西成郡・東成郡を合併する第二次市域拡張政策を実行し、人口・面積・工業出荷額等あらゆる面において大阪が日本一の大都市となった。この時代を「大大阪時代」と呼ぶ。メインストリートである御堂筋の拡幅や、地下鉄も開業し、戦時の統制経済時代に入るまで栄華を極める。
映画とスポーツ
実際にその時代の諸相を見てみよう。北岡伸一『政党から軍部へ』(pp.121-139)によれば、大正十三年(1924年)から常設映画館が急増したという。チャップリンの『黄金狂時代』が人気を博したが当時はまだ弁士が活躍する無声映画であった。映像と音声が同期するトーキー映画が登場したのは昭和六年(1931年)の米国映画『モロッコ』が初めてである。スポーツの発展も著しい。大正十三年(1924年)のパリオリンピックには、日本人選手19人が参加した。次の昭和三年(1928年)アムステルダムオリンピックでは、三段跳びの織田幹雄、200m平泳ぎの鶴田義行が日本人初の金メダルを獲得する。北岡によれば、一般的に人気が高かったのはアマチュア野球である。全国中等学校野球優勝大会(現在の夏の高校野球選手権)は既に確立した歴史を重ねていたが、大正十三年には完成したばかりの甲子園球場で開催されてさらに関心が高まった。昭和二年(1927年)からは、始まったばかりのラジオ放送で、この中等学校野球の実況中継が行われている。またこの年、都市対抗野球が明治神宮外苑野球場(現在の神宮球場)で始まり、こちらも高い人気を誇った。
マルクス主義と庶民文化
大宅が分析するように、思想的には時代はマルクス主義へと転回しつつあった。伊藤之雄『政党政治と天皇』(pp.362-375)が述べるように武者小路実篤や有島武郎らの白樺派、芥川龍之介や菊池寛らの新思潮派が主導した大正デモクラシーの潮流は行き詰まりを迎える。芥川が自殺したのが昭和二年(1927年)であり、白樺派の雑誌『白樺』も大震災に際して終刊した。小林多喜二はマルクス主義思想の立場から『蟹工船』を著し、水夫虐待とそれに反発する争議を描いた。小林や徳川直らのプロレタリア文学は当時激しさを増した資本家・地主と労働者・小作人の対立の中で、労働争議などを素材として立憲君主制を否定しプロレタリアート(労働者・農民)独裁を目指す作品を世に問うた。北岡によれば、政治の世界でも無産政党が進出した。共産党系の運動は繰り返し弾圧と転向が繰り返されほぼ壊滅したが、社会民衆党、日本大衆党などの無産政党が国政選挙に候補者を立て、数名の当選者を出していた(『政党から軍部へ』89-101)。意外に少ない感があるが、例えば伊藤は当時のプロレタリア文学は高学歴のエリート層文化であって庶民への影響は限られていたと分析する。伊藤によれば、日本映画や講談、落語などに現れた当時の庶民文化はむしろ親孝行や主人への忠義、立身出世と勤労の美徳といった通俗道徳の世界であったという。その代表例は野間清治の雑誌『キング』であった。安価で、国家的道徳的信念や感動的な物語を主軸に置き、小説、美談や逸話、実用知識などの記事で構成されており、昭和二年(1927年)には140万部を記録する。その他7種類の雑誌を発行する野間の講談社は関東震災前には日本一の発行部数の出版社となり、今日に至っている。また野間の仕掛けた一連の明治天皇とその時代を絶賛する『キング』の諸記事は、相対的に昭和天皇の評価を下げて、軍部の天皇への信頼低下、軍部の台頭と暴走への一因となっていった(『政党政治と天皇』362-371)。同じく満州事変の勃発により、無産政党の方向も大きく変わる。社会民衆党は満州事変を支持し、赤松克麿らは「満蒙は日本の生命線なり」「参謀本部・陸軍省の方策には無条件に賛成する」と主張し国家社会主義の立場を取るようになっていった(『政党から軍部へ』89-101)。こうして昭和モダンは次第に満州事変から太平洋戦争に至る戦争の時代の中に消えていく。
昭和モダンの服飾
銀座や心斎橋には百貨店が進出し、地方へ流行を発信する拠点となった。これら都市にはモボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)という洋装の男女が集うようになる(増田美子『日本衣服史』)。モボはおかま帽子のオールバック、縞や格子柄の洋服にラッパズボンのステッキ姿。モガはショートスカートにハイヒール、ショートカット(断髪)であった。特に長髪が常識の女子では断髪はかなり勇気がいることで、女学生の退校処分の原因にすらなったらしい。より簡易な洋装として、アッパッパも流行した。一枚の布を直線裁ちし、半袖付きワンピースとしてボタンやホックで止めるデザインの洋服である。洋装の知識が乏しかった当時の女性にも縫製可能であり、震災で着物を失った人々の間から下町のおかみさんを中心に流行が始まった。安価で涼しいことから、昭和四年(1929年)の40年ぶりという猛暑を機に翌年にかけて大流行した(ここまで『日本衣服史』)。だがそれでも当時の女性はまだまだ和装が多かったようである。昭和三年に三越正面で行われた調査では、女性の洋装は16%、和服が84%であったという。同じ調査の男性では洋装61%の和服39%とのこと(北岡伸一『政党から軍部へ』127)。
これに対して、増田によれば子供や学生には広く洋装が普及していた。男子学生は詰襟と長ズボンの洋装学生服、女子学生も大正末以降に全国的に水兵服にセーラースカーフ、ブリーフスカートのいわゆるセーラー服が広まった。同じく子供服も家庭生活の合理化を掲げた生活改善運動、震災の経験で活動的な服装が求められた事などから、大正末にはほぼ洋服となった。男児にはジャケットと半ズボン、女児のワンピースやツービース、また男女を問わずセーター、オーバーコート、ベスト、シャツなどがあった(『日本衣服史』)
昭和四年に世界恐慌が始まり、不況と資源不足に悩む日本は昭和六年(1931年)に満州事変、昭和十二年(1937年)から日中戦争に突き進んだ。この年、毛製品と綿製品にスフと呼ばれる粗悪な人造絹糸繊維を混用する規則が制定された。スフは肌触りと強度に劣り、熱にも水にも弱いという繊維で仕立てにも型崩れを防ぐ工夫が要求された。スフの混用対象と混用率はさらに拡大され、昭和十三年七月には各デパートでのファッションショーも堅実な衣装を普及させる為にという理由で開催禁止になる。昭和十五年に男性全てがいつでも軍人として動員可能となることを狙ってカーキ色の国民服が制定され、衣料が配給制となるにしたがって全男性に広まる。女性の服装も本土空襲の激化や本土決戦が迫るにつれて、ほとんどが避難に適したもんぺとなった。このように衣服は終戦に至るまで戦時体制下に移っていく(『日本衣服史』)。