フルネーム:チャールズ・スペンサー・チャップリン(Charles Spencer Chaplin)。
俳優としては「チャールズ・チャップリン」の他に「チャーリー・チャップリン(Charlie Chaplin)」名義を用いる。
「喜劇王」とも呼ばれ、バスター・キートン、ハロルド・ロイドと並び「世界三大喜劇王」と称される。
概要
幼い頃に苦労しながらも劇団に参加して演技の経験を積み、1914年に映画デビューする。
「山高帽・ちょびひげ・窮屈な上着・だぶだぶのズボン・ステッキ・ぶかぶかの靴(ドタ靴)」という「浮浪者チャーリー」のキャラクターが大ウケし、以降コメディアンとしての揺るぎない地位を確立。映画監督としても数々の名作を発表した。
人物
俳優としては、コミカルな動きで笑いを呼ぶパントマイムが得意。監督としては、貧困層や病人などの弱者の悲哀と社会に対する風刺が盛り込まれているものが多く、悲劇と喜劇が表裏一体となった作風が持ち味である。
共産党のシンパだったが「大物すぎて敵に回すのは得策ではない」という判断から、第二次世界大戦後のハリウッドに吹き荒れた赤狩りの聴聞会への召喚は免れている。しかしながら『ライムライト』(1952)のプレミアのためイギリスに渡った際に再入国を拒否され、追放処分となった。
再びアメリカの地を踏んだのはそれから20年後、1972年のアカデミー賞名誉賞の授与となる。1975年にナイトに叙され「サー」の称号を得た。
身長は低かったものの素顔はメイクを施した姿からは想像できないほどのイケメン。華やかな女性遍歴で知られているが、「ハリウッドの標準としては慎ましやかなものだった」ともいう。結婚相手の3人が十代であったことから「小児科医」というあだ名もあったが、25歳以上の女性とも交際しており、ロリコン説は憶測にすぎない。最初の3人の妻との結婚生活は長く続かず、相手の母親から多額の慰謝料をふっかけられるなどの波乱続きだった。最後の妻となったウーナ・オニールとの関係は円満なものとなり、3男5女の計8人の子をなしたのち、1977年の自身の死まで連れ添うこととなった。
主な作品
- 『黄金狂時代(The Gold Rush)』
- 『街の灯(City Lights)』
- 『モダン・タイムス(Modern Times)』
- 『独裁者(The Great Dictator)』
- 『殺人狂時代(Monsieur Verdoux)』
- 『ライムライト(Limelight)』
- 『犬の生活(A Dog's Life)』
- 『キッド(The Kid)』
彼の活動期は、まさに映画がサイレントからトーキーへと移り変わる過渡期であり、彼の作品も、両方の形式が混在している。「言葉がわからなくても楽しい作品を」と考えていたチャップリンは、なかなかトーキーに移行しなかったが、『モダン・タイムス』の歌唱シーンで試験的に音声を取り入れ、『独裁者』から完全にトーキーに切り替わった。
親日家
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の著書を読んだことから日本に興味を持つ。
運転手として雇い、後には秘書とした高野虎市の勤務ぶりに感心した事から、その影響もあり大の親日家として有名であり、彼の使用人は全員日本人で構成され、映画で使用していたステッキなどの小道具も日本製という筋金入りであったのは非常に有名な話である。大正時代の頃から日本では、「変凹君」「アルコール先生」という愛称でとても親しまれていた。これは当時の日本人にはチャップリンの名が発音しにくかったため、配給会社があだ名での紹介をしたためで、酔いどれ役も多かったことからそのように呼ばれていた。
その生涯で四度来日しており、歌舞伎や人形浄瑠璃、浮世絵鑑賞など伝統文化を楽しみ、東京の天ぷら屋「花長」の天ぷら、京都の割烹「浜作」の鶉の鍬焼き、帝国ホテルの和風ステーキに舌鼓を打った。中でも海老の天ぷらを特に気に入り、一度に30尾食べたと記録に残っている。そのため最初の来日時、日本郵船が同社所有の貨客船「氷川丸」の料理人を「花長」へ送って天ぷらの技術を学ばせ、「我が社の船をご利用いただければ、アメリカに着くまで毎日「花長」の天ぷらをお楽しみいただけます!」とアピールしたことで、チャップリンは氷川丸での帰国を決めたという。
また三度目の訪日時には長良川の鵜飼いも見物し、その光景を芸術的だと絶賛した。このように日本文化に親しむうちに歌舞伎の『忠臣蔵』が始まる前に周囲に内容を解説できるほどになったらしい。
戦後四度目に訪れた折には高度経済成長で変わり果ててしまった東京に落胆し、鵜飼いも「今の鵜飼いは派手で雑然としていて、昔の暗闇の中に数えるばかりの鵜飼いの灯が等間隔でぽつんぽつんと浮かんでいた芸術性が消えてしまった」という内容の事を述べて残念がったという。しかし日本に失望したわけではなく、同じ旅で京都を訪れた時には古き良き日本がまだ残っていることを確認でき、安心したそうな。
何度も来日したチャップリンだが、そのせいで危うく五・一五事件のターゲットになりかけたこともある。
当時青年将校からは、映画は「退廃的な文化」として嫌われており、その旗手たるチャップリンも憎悪の対象だったのである。作風が社会主義的だったのも一因で、実際芥川龍之介などはチャップリンを社会主義者と認識している。
まさに事件当日に犬養毅首相と会談を行う予定であったが、これが17日に変更されたことで難を逃れた。
秘書の高野もこれを危惧しており、そのアドバイスで日本滞在中に皇居に対して一礼するパフォーマンスを行った事もあるという。
なお、現在下呂温泉にチャップリンの銅像があるが、チャップリンと下呂温泉は何の関わりもない
余談
チャップリンは「独裁者」や「殺人狂時代」におけるイメージから平和反戦主義者と見る向きもあるが、反面第一次世界大戦時にはアメリカ政府が戦費調達の為に発行した国債のCMフィルムを制作している。
このCMはお馴染みの浮浪者チャーリーに扮したチャップリンが「国債」と書かれたハンマーでドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を殴り倒すという内容だった。
また国債を国民に買わせる為に政府主導で行われた街頭アジテーションにも参加し、素顔のチャールズ・チャップリンとして車上から国債を買うよう強く主張している。
また「独裁者」も政府からの要望でラストシーンを変えており、それが正にあの演説のシーンだった。つまりあの演説はチャップリンの本心ではなくアメリカの対ナチ宣伝だったのだ。
実はチャップリン自身は第一次世界大戦以前に斜陽化したイギリス映画界に見切りを付け、金の為にアメリカに移っているのでヒトラーの危険性をそれほど認識していなかった。それどころか彼は映画ではナチの暴虐を少し大袈裟に描いたと考えていた節があり、後にヒトラーのユダヤ人虐殺を知ってからは、もしそれを知っていたら制作しなかっただろうと述べたという。
関連タグ
ロバート・ダウニー・Jr.…伝記映画「チャーリー」でチャップリンを演じアカデミー賞にノミネートされた。
バリコオル…(恐らく)チャップリンをモチーフとしているポケモン。
茶風林…声優の一人で、由来もズバリ『チャップリン』である。
黒柳徹子…生前のチャップリンに直接対面した事がある。