概要
日本を代表する高級ホテルであり、ホテルオークラ、ニューオータニとともに「御三家」(ホテル御三家)と呼ばれることもある。
隣接する鹿鳴館と密接な関連を持ったホテルとして、渋沢栄一と大倉喜八郎が「有限責任東京ホテル会社(現在の株式会社帝国ホテル)」を設立し、建設した。
現在は三井不動産を筆頭株主とし、1970年竣工の新本館と、1983年竣工のインペリアルタワー(現帝国ホテルタワー)で営業している。
また、長野県の上高地にある「上高地帝国ホテル」、大阪市北区の「帝国ホテル大阪」は、帝国ホテル直営のホテルである。2026年には京都にも進出を予定している。
帝国ホテルの形として一般的によく知られるのは、タイトル絵にも描かれている、所謂「ライト館」と呼ばれるもの。
当初の帝国ホテルは渡辺譲設計の木骨煉瓦造3階建であったが、1914年頃、当時の総支配人だった林愛作と旧知の仲だったアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトと新館設計の相談を重ね、1916年に契約し1919年に着工する。
この建物は10のブロックをエキスパンションジョイントで繋ぎ合わせる構造になっており、これにより建物全体に柔軟性を持たせ、一部に倒壊があっても全体には累を及ぼさない仕組みになっていた。
また大規模ホテルとしては世界で初めて全館にスチーム暖房を採用するなど、耐震と防火に配慮した設計だった。
ライトは石材などの素材に徹底した管理体制を敷き、この建設に臨んでいた。
しかし、彼のこうした完璧主義は大幅な予算オーバーを引き起こし、当初は150万円だった総工費は、1922年時点では6倍の900万円にまで膨れ上がってしまった。
更にこの1922年には、初代帝国ホテルの建物が火災で全焼してしまい、新館の早期完成は経営上の急務となっていた。
何としても早急に新館を完成させて営業を再開させたい経営陣と、それでも一切の妥協を許さず設計の変更を繰り返すライトとの仲違いは決定的となり、
支配人の林は引責辞任、ライトも完成を見る事無く無念のうちに日本を離れることとなった。
その後、建設はライトの後を継いだ遠藤新の指揮のもと、1923年7月に完成。
しかし、満を持して完成したこの新館は、その直後から災禍に見舞われる。
この年の9月1日に落成記念のパーティーが開かれる予定になっていたが、その準備の最中に未曽有の巨大地震――関東大震災が発生。
周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われたりする中、帝国ホテルはというと、小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せていた。
ライトは地震発生から二週間後このことを遠藤からの手紙で知り、狂喜したという。
こうして、ライト設計の帝国ホテル新館「ライト館」は、思わぬ形で人々の目を引く事となったのである。
1945年3月の東京大空襲では総床面積の4割が焼失する大きな被害を受けたが、終戦とともにGHQに接収され、そこで大規模な修復工事が行われ、復旧する。
こうして幾多の災禍に耐えてきた「ライト館」だったが、1964年に解体が発表される。
震災にも空襲にも耐えてきたホテルだけに、これには存続を訴える大規模な反対運動が起こったものの、占領以後から日本を訪れる外国人が再び増え始め、ライバルも増えつつある中で帝国ホテルもそれにこたえるように新館を立て続けに建設していた。
何より決定的だったのは、都心の一等地を占有するように立つ巨大な建造物であるこのホテルの客室数が270室しか無いという事。高度経済成長期の只中にあり、オリンピックを経て更に巨大な都市として世界にうって出ようとする東京の中心にあって、これはあまりに致命的だった。
1967年に閉鎖され、翌年春頃までに取り壊された。跡地に建設された近代的外観の新本館は、1970年の大阪万博に合わせて竣工した。
かつてのライト館は、玄関部分のみが愛知県犬山市の博物館明治村に移築再建されており、今日でも在りし日の面影を偲ぶことができる。
また、栃木県日光市の東武ワールドスクウェアでは縮尺25分の1のミニチュアでライト館全景を再現している。
ホテルオークラ東京の建て替えが話題になった中で、新本館と帝国ホテルタワーも築年数が経過しつつあり今後の行方が注目されていたが、2021年に建て替えを発表。
帝国ホテル東京が属する内幸町一丁目一帯の再開発となり、現在のホテルの南側に建設される高層ビルに新ブランドのラグジュアリーホテルを開業、帝国ホテルタワーは2024年度から取り壊され跡地にオフィスや住宅などが入居する新タワー館を2030年度に開業、そして本館の建て替えが2031年度から2036年度にかけて行われる。
全館休業ではなく段階的に建て替えるため、累計で約12年に及ぶ長期の建て替え計画となる。