ホテルニュージャパン
ほてるにゅーじゃぱん
1960年3月、藤山愛一郎の「藤山コンツェルン」により東京都千代田区永田町にて開業。また、その隣接地にナイトクラブ・ニューラテンクォーターがあった。
元々高級賃貸住宅として作るつもりだったのだが、1964年の東京オリンピック開催に伴う需要を当て込み、大半をホテルへと使い道を変えた上、複数のレストランを備え、さらにはショッピングモールも構え、なおかつ高級賃貸住宅も残すという、ある意味何でもありな施設として開業した。
全ての宿泊部屋(や住居部分)から景色が見える、と言う特徴があったが、故に建物の構造はかなり複雑なものになってしまった。そしてそれが後述の大惨事になってしまう…
設備が充実していた一方で、経営そのものは、実は開業当初から怪しいものがあった。そのうえ藤山愛一郎の政治活動や藤山コンツェルンの事業不振(主力の砂糖事業の不振に加え山口県萩市に設立した竹製紙工場の会社が約15年で経営破綻)もあり、もはや藤山コンツェルンでは維持出来なくなった、どころか藤山コンツェルンそのものが瓦解していた。
その結果1979年、横井英樹率いる東洋郵船に売却された。
横井はケチで知られ、ホテルニュージャパンに極端な合理化を行い、経費節減のため消火設備を整備せず、内装も耐火素材にしないなど、数々の違法運営を行った(消防署からの査察を受ける際でも、「やる真似事して、引き伸ばしておけ」と命令した話はよく知られる)。ただその合理化の一方で派手なシャンデリアを備えたりフランス製のアンティーク家具を置く、と言った、金のかけ方を間違えていたとしか言いようのない事までしでかしていた。
1982年2月8日、イギリス人客の寝たばこが原因で火災が発生し、33人が死亡した。
複雑な構造故に逃げ場所がわからず、犠牲になった人が少なからずいた。さらには東京消防庁から消火およぶ防火設備の不備が指摘されながらも先述の様に「そこまで予算が回らない」と先送りした事も被害を大きくした。
この事でオーナーであった横井は日本中から非難される事になる。さらには火災発生後の記者会見での発言がさらに彼を追い詰めてしまった。
(↓2分30秒よりホテルニュージャパン火災解説)
(↓5分13秒から記者会見)
火災2日後に東京都から消防法違反と業務上過失致死による営業禁止処分を受け廃業した。
廃業後、横井は焼け跡を放置し、敷地を担保に巨額の融資を引き出し「焼け太り」と言われた一方で、業務上過失致死傷罪での禁固刑に服した(その後出所し、横井は1998年に死去している)。永田町の一角のニュージャパン跡は80年代から90年代にかけてその建物は焼けただれた姿のまま長く鎮座し、不気味さをも漂わせていた。
1995年、横井の債権者の千代田生命が敷地を自己競落し、1996年にようやく焼け跡の建物が解体された。
2000年、千代田生命が経営破綻し、プルデンシャル・ファイナンシャルに買収されたため、旧ホテルニュージャパンの敷地もプルデンシャル・ファイナンシャル・グループの所有となる。
2002年12月16日、跡地にオフィスと外国人向け高額賃貸住宅からなるプルデンシャルタワーが完成した。
- 吉本興業が、所属タレントが東京で仕事をする際の宿泊施設にここを指定していた事があった。ところが桂三枝(現・六代桂文枝)が部屋の空調などで不満を漏らし、「追加料金は自腹を切るので別のホテルに泊まらせて下さい」と泣きついた事から、他のタレントも三枝に追随、結果吉本はここを宿泊施設の指定から事実上外した。火災が発生したのは、三枝が吉本に泣きついてからしばらく経ってからの事だったという。
- ビートたけしによると、「北海道で仕事終えてからの帰りにニュージャパンに泊まろうと思ったけどお金がなかったから友達ンちに行って金借りてきたんだ。でもあいつンち新宿でニュージャパンまでちょっと遠かったから近場のホテルに泊まっちゃったらあの惨事だったからねえ。危なかったな」との事。
- ここの火災のまさに翌日、羽田空港に着陸しようとしていた日本航空のダグラスDC-8-61が羽田空港沖の東京湾に不時着水する事故が発生してしまう。その結果、東京消防庁(とマスコミ)は両方の対応に追われる事になる。
- 前述のとおり、東京有数のナイトクラブ・ニューラテンクォーターは隣接地にあり、1982年のニュージャパン火災以後も営業は行われていたが、1989年に閉店した。また、このクラブは1963年に力道山が刺され、その後死亡した場所でもある。