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昭和レトロ

しょうわれとろ

昭和の時代に対するノスタルジーを表した作品に付けられるタグ。
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概要

レトロ(Retro)とはretrospective(回顧)の略語。懐古趣味のこと。昭和レトロとは昭和の時代に対するノスタルジーや憧れの総称である。ただし、三省堂web大辞林三版やWIKIPEDIAにもそう言った名称の項目は無く(2018年4月18日時点)、確立した定義が存在するわけではない。しかしgoogle検索では900万件以上のヒットが出てきており、使用者それぞれのイメージによって広く用いられている用語というべきであろう。テレビ番組『開運!なんでも鑑定団』、ネットオークションなどで顕在化したコレクター、特撮・アニメファン層もこのムーブメントを支えているといえる。

昭和とつく以上、戦前・戦中も含めた昭和全般に対する懐古趣味全般を指すが、現在のブームの主流は、40代から60代の人々が少年・少女時代を過ごした昭和30~40年代(1955~1974年)をさす場合が多い。昭和末期(バブル期)以降、人間関係が希薄化し、コンピューターが生活の隅々まで入り込んだ現代社会へのアンチテーゼとして、家族や町内とのコミュニケーションが濃密だった時代への再評価が高まった。昭和20年代の戦後復興からようやく焼け跡と廃墟が整理されて街並みが復興した時期が昭和レトロの原風景になる。それは戦前の昭和モダン時代の復興であるが、そのままの再建ではない。長く続いた進駐軍支配と民主化を経て、大きく米国文化を中心とした欧米文化が広く流入し、かなり洋風によった和洋折衷的な世界として成立している。それから高度成長期の凄まじい経済成長と都市化、近代化を経て、次第に原風景は変貌していく。昭和50年代にいたって、高度成長は終わって既に日本は「世界第二の経済大国」等と呼ばれるまでになり、昭和レトロの原風景は失われて爛熟したバブル期の文化へと移っていく。

世界観

よく取り上げられる世界観としては『となりのトトロ』『ちびまる子ちゃん』スタジオジブリ制作のハウス食品の短編CM、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の少年時代編など。子供たちはおやつに駄菓子を楽しみ、男子ならブリキ超合金のロボットやプラモデル、女子なら布製のお人形等、さらには紙製のメンコベーゴマなどの電子媒体を用いない玩具で遊んでいた。新興住宅地は郊外に広がり、開発中の空き地は子供たちの格好の遊び場となった。そのような空き地に土管などに象徴される『ドラえもん』などの藤子・F・不二夫作品、『サザエさん』などの昭和の家族を描いた作品も、原作が発表された時期の関係で、昭和レトロ愛好家のシンパシーを得ている。ゲームの世界でいえば『ぼくのなつやすみ』シリーズ、『冒険少年クラブ画報』などがこのジャンルの作品として有名だが、『MOTHER』シリーズや『ポケットモンスター』シリーズもクリエーターたちが過ごした昭和の原風景がベースとなっている。

また、この時代のSFや科学記事に描かれた「未来社会」のポップなイメージも、このジャンルの一部ととらえることが可能である。こちらはレトロフューチャーも参照の事。

時代の背景

「コンピューターに守られた バビルの塔に住んでいる 正義の少年 バビル二世」

昭和レトロといっても、着物に馬車で暮らしていた時代ではない。次節で述べるように戦災復興を通じて洋服が急速に広まり、電車やバス等の交通網もほぼ今日に準じる、昭和レトロの社会における平成の現代との最大の違いは何だろうか。それは恐らく、コンピュータ技術が未発達であったことであろう。昭和48年に放映された『バビル二世』のアニメOPに歌われるようなこの時代のコンピューターは、まだまだ一般家庭に普及しているようなものではなく、一般的イメージでは大きな部屋に巨大な電子機器が並んでいるいわゆるスーパーコンピュータ的なものである。最初期のパソコンに当たるTK-80NECから発売されたのは昭和51年で、それでも売れた台数は6万台に過ぎず全家庭への普及には程遠かった。もちろんスマートフォンタブレットもないので、日々の出来事を知るには紙で発行された新聞ラジオ・そしてテレビが最重要であった。また、何かを調べるにもインターネットはなく、図書館の蔵書や役所に備えられた紙の公文書が頼りである。仕事の世界もオフィスに広くコンピュータが普及するのは昭和50年代前半の事であった(情報処理学会「オフコンOS 誕生と発展の歴史」)。それ以前の職場は電話による連絡と大量の紙書類のやり取りで進んでいた。

また都市化も急速に進展した。昭和30年から昭和40年にかけて、この10年で20~24歳となった東北九州の青年男性の五割前後、女性の四割前後が大都市部に流出している(荒川章二『豊かさへの渇望』pp.25-29)。荒川によれば、産業別にも昭和20年代半ばから昭和40年代初めにかけて、毎年70万人から90万人が農業から他産業に流出し、雇用者が就業者の多数派となった。また、昭和30年代後半には東京23区の総人口は減少に転じ、一方で東京・埼玉・神奈川・千葉三県全体では年平均30万人以上の転入増が保たれた。すなわち、多摩地区を中心に、郊外へと人口が拡散していったのである(『豊かさへの渇望』pp.25-29)。このような人口移動のせいで、昭和レトロの時代、都会に住んでいる子供たちは祖父母に会いに行くとなると田舎の農村部へ帰省するというケースが非常に多くなる。

また荒川によれば、昭和30年代後半の東京では高度成長と大規模な首都改造が同時進行した。その中心が東京オリンピック開催への準備事業である。直接の競技場建設や大会運営の経費は295億円であるが、間接経費として9579億円の国費と都費が投入された。その4割を占めるのが東海道新幹線の建設である。その他には地下鉄の建設、また総延長112kmに及ぶ高速道路や環状7号線道路等の道路建設が含まれる。大規模な公共投資は不動産業と土建業を潤し、東京の景観を激変させるとともにさらに東京への人口集中をもたらした。開催の結果は金メダル16個という日本選手の活躍の半面で、都の莫大な財政赤字、衛生や教育などの住環境の不備、大気汚染、交通騒音、そして呼吸器疾患などの公害という悪影響も残していった(『豊かさへの渇望』pp.107-112)。荒川によれば、昭和40年の都政世論調査で44%が住宅に困っていると回答し、その多くを劣悪な四畳半一室が占めるという木賃宿が1968年の都調査で住宅総数30%となり、学生や単身者ばかりか子持ち世帯もひしめいた。かくして郊外へとニュータウン建設が進められ、昭和40年代半ばまでには全国に189万人分のニュータウンが建設された(『豊かさへの渇望』pp.113-115)。こうして山林や農地を切り開いた空き地の多く残る住宅地で子供たちが遊び、少し歩けば田園風景が残るという昭和レトロの風景が成立する。

生活では大衆消費時代のはじまりと呼ぶ事が出来る。テレビの普及は他国に増して急速で、昭和38年には米国に次ぐ世界第二位となった(荒川章二『豊かさへの渇望』pp.117-120)。『通信白書』をみると昭和32年には普及率10%に満たなかった白黒テレビは、昭和39年には普及率90%を突破する(昭和62年版『通信白書』)。一方カラーテレビの普及率は昭和44年でも13.9%にすぎず(朝日新聞be編集部『サザエさんをさがして』pp.3)、普及率が90%に達するのは昭和50年である(同『通信白書』)。この時代のテレビと言えば白黒テレビだったのである。また、テレビの視聴時間も長い。荒川によれば、昭和40年の平日テレビ視聴時間は大企業サラリーマンで2時間半、家庭婦人が3時間50分、10歳以上の平均で2時間50分に達した。企業にとってテレビは強力な広告媒体となり、またテレビがお茶の間に置かれることで、家族に均等な日常的娯楽を提供し家族団欒(だんらん)の中心ともなった。そしてテレビに登場した流行と風俗は、電波に乗って瞬く間に全国に広がり、文化の画一化を推進した。家電を中心にした耐久消費財が大量に家庭に流入して生活程度を画一化するとともに、生活程度に対する意識調査で「中の中」と答える人々が増加した。しかしそれは欧米でいう中流階級とは異なる「人並み」としての「中意識」であった(『豊かさへの渇望』pp.141-143)。この時代にテレビがおかれたお茶の間といえば、ちゃぶ台である。『サザエさんをさがして』によれば、ちゃぶ台は実は封建時代からの伝統ではなく、明治20年代に使われ始め、大正から昭和にかけて急速に普及した。そして昭和40年代の半ば以降には食卓はちゃぶ台からテーブルへと変わっていった(『サザエさんをさがして』pp.18-21)。

思想的には、太平洋戦争を挑んで敗れたことから、平和主義の傾向が強く、特に広島長崎への原爆投下による大被害の記憶も新しいことから核兵器への反対が広がっていた。昭和29年に行われた原水爆禁止署名運動は全国に広がり、昭和30年8月に開催された原水爆禁止世界大会では署名数3200万人となり、当時の15歳以上層人口の過半数に達した(荒川章二『豊かさへの渇望』pp.59-66)。

昭和レトロの服飾

太平洋戦争の焼け跡から復興した昭和レトロの時代は、急速な洋装の普及でも戦前から断絶している。戦後の衣料不足は深刻であり、昭和26年にいたるまで衣料切符制度が施行されて衣料品の統制が続いた。その中で、着物をほどいて洋服に仕立て直した更生服が盛んにつくられた(増田美子『日本衣服史』pp。359-365)。増田によれば、洋裁学校が急増し昭和23年には全国で生徒数が20万人を超えたという。新しい洋服の流行はスタイルブックや服装雑誌などの雑誌類が主導していた。そして昭和31年にはミシンの普及率が都市部では75%となり、家庭で洋裁が広く行われるようになった。昭和28年からディオールが来日してチューリップライン、Hライン、Aラインなどを発表し、ディオールと契約した日本のデパートによって日本の流行はパリの流行と連動するようになる。また、昭和33年にピエール・カルダンが来日して立体裁断が伝わり、それまでの型紙裁断を一新する(増田美子『日本衣服史』pp。359-365)。

増田によれば、この時代に既製服化も急速に進展した。戦前には高級服はオーダーメイドが常識であり、既製服は「つるし」と呼ばれて安物イメージがつきまとった。しかし昭和35年にプレ・タ・ポルテ(高級既製服)が登場し、各デパートはパリの有名デザイナーと契約して高級な既製服の販売に取り組む。こうして昭和32年には30%程度であった既製服化率は、昭和51年には既製服64.1%、注文服19.5%、イージーオーダー16.4%となった(増田美子『日本衣服史』pp。368-369)。

主な流行を増田に依拠してまとめると、昭和33年ごろからロックンロールブームに伴って若者層でジーンズジーパン)が普及する。元はアメリカの労働者における作業服であったのだが、ロック歌手がファッションとして取り入れることで日本にも音楽とともに普及する。またジーンズは、ヒッピー等のベトナム戦争の長期化への抵抗の象徴でもあった。また昭和39年~40年に若者層でアイビー・ルックが流行する。アイビーとはアメリカ東部名門大学のアメリカンフットボールリーグのことであり、これら大学の学生や卒業生が来ていたスーツファッションを元にVANブランドが製品化したものであった。昭和42年にモデル女優ツイッギーが来日し、彼女の穿いたミニスカートが大流行した。同じく昭和42年ごろには女性にも男性のワイシャツと同様にシャツが普及し、昭和44年ごろには女性にもズボンが普及する。昭和45年ごろに、それまでは下着であったニットシャツに文様や色を付けたTシャツが表着となる。つまり、男女を問わずTシャツにジーパンというのが若者の定番となってくる(増田美子『日本衣服史』pp。368-373)。


関連イラスト

コドモノセカイ
昭和のハンドスピナー


昭和の女子高生。
残暑見舞い



関連タグ

レトロ
昭和 昭和モダン 昭和ノスタルジー バブル期 平成
50年代 60年代 70年代

サザエさん ちびまる子ちゃん ドラえもん
こちら葛飾区亀有公園前派出所 となりのトトロ
ぼくのなつやすみ 冒険少年クラブ画報

駄菓子 ラムネ
超合金 メンコ ベーゴマ

白黒テレビ ちゃぶ台

ロックンロール ヒッピー

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