高麗王朝
こうらいおうちょう
新羅の内紛激化により後高句麗・新羅・後百済の3国に分裂していた朝鮮半島であったが(後三国時代)、後高句麗に仕えていた王建が主君の弓裔を放伐し、918年に高麗を建国した。王建は新羅を併合、後百済を滅ぼして936年に朝鮮半島を統一した。
久々に統一された政権であったが、宋や女真など異境の大国に圧迫される日々が続いた。文官統治に陰りが見えた1170年(明宗元年)に武官の鄭仲夫が反乱を起こして武臣政権が成立。100年の統治を行うが、1231年からモンゴル帝国に侵攻を受け、以前から内紛で打撃を受けていた朝鮮半島は混乱の巷と化した。この武臣政権の物語は韓流ドラマにもなっている。
1270年には文官勢力が勢いを取り戻し、1287年から高麗はモンゴル(元朝)の支配下に置かれることとなり、属国化への道を辿った。
ただし、皇太子をモンゴル宮廷に仕官させた後に皇女を后として与えられるなど、滅ぼされた王朝に比べると優遇はされており、世界帝国を相手にした交易で文化・国力は回復の兆しを見せた…が、元への忠誠を示すために日本へ攻め込んだ元寇の失敗や、中国で起きた紅巾の乱、倭寇、そして宗主国モンゴルの弱体化など不運が続いて高麗の国運は停滞。
高麗の文化を語るに欠かせないのが仏教の存在である。『訓要十條』と言う初代国王の出した掟には仏教への敬意が説かれており、僧侶や学者を保護したため学問だけでなく仏教美術や寺院建築など文化や技術は進歩した。これらの文化は李氏朝鮮の強硬な政策で壊滅し、仏教僧侶が虐殺されたりしたため、仏教美術は日本など国外へ大半が流出してしまった。
また、青磁器や仏画など贅沢品が好まれた時代でもあり、これらは貴重な収入源や他国への土産物として重宝され、我が国にも130点が渡来している。なお、この時代に仏僧による私選歴史書が編纂され、その中に檀君で有名な朝鮮神話も完成した。
元の支配で高麗は遊牧民の文化の影響を受け、大きく変化した。牧場が増え、家畜の肉を食べる習慣も根付き、モンゴルから渡来したパスパ文字がハングル誕生のヒントになったとも言われている。
- アラビア:首都である開城に何度かアッバース朝の使者が訪問したり、イスラム商人が出入りしていた記録がある。Koreaの由来は高麗をハングルで発音するとコリョになるのを、アラビア人がコリアと言ったことだという説が有力。
- モンゴル:使者を殺されたことを怒ったオゴタイ・ハーンによる侵攻を1231年に受けて以来、1273年(三別抄の滅亡)に至るまで戦う間柄になった。しかし、本土では1259年4月に王子を入朝させるなど親モンゴル路線を採用。その主導者だった忠烈王は父の元宗王までの反モンゴル路線を一転、自らが進んで日本侵攻(※1)を提言するほどの蜜月時代(※2)を築き、それは恭愍王による断交が行われるまでの長期に及んだ。
(※1)この史実と、海底から見つかった船は丈夫なものだったことで、日本侵攻に使われた船を手抜きしたという俗説は誤りと言われている。
(※2)自らが幼少期を過ごしたモンゴルの服装や髪形を導入した。
- 日本:混乱期に刀伊の入寇があり、緊迫した関係になったこともあるが貿易は行っていた。蒙古襲来の時に軍事組織・三別抄が反モンゴルの旗印を掲げたが、鎌倉幕府と朝廷は後難を恐れてか無視してしまう。クビライの娘婿になっていた忠烈王主導の日本遠征(※1)が行われ、先鋒の高麗軍が対馬で起こした殺戮や略奪などで大打撃を受けた日本の北条時宗は高麗を敵(※2)と見做して反撃・逆侵攻を試みるが果たせずに死去。その後も小競り合いをするが李氏朝鮮による滅亡まで日朝の私貿易は行われていた。
(※1)殺戮・略奪の被害をこうむった武士や漁民が報復と捕虜奪還のために海賊化したものが倭寇の始まりであると言う説が存在する。なお、多くの少年少女が捕縛されて元や高麗の王侯貴族に献じられると言うエロゲのような事態が起きたとも言う。