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概要編集

古代の朝鮮半島の南西部にあった国家。都は前期には漢山(位置は諸説あるが現在のソウル近郊)、中期には熊津、後期には泗沘(現在の忠清南道扶餘郡)などに置かれた。

呼び名は「ヒャクサイ」、「ペクチェ」が正しいらしいが、「クダラ」と呼ばれることもある。

新羅高句麗と共に朝鮮の三国時代を形成している。


南北朝時代中国の南朝諸国に通じ、伝わった文化が栄える。外交的にも、倭(日本)や高句麗とともに南朝との関係が深かった。

倭(日本)との関わりが他の二つの国よりも深い。

仏教、学問など多くの文化を日本に伝えており、日本書紀の記述や考古学資料などにも残されている。


白村江の戦いでは(当時の日本の名前)の支援を受けて戦ったが、・新羅連合軍に敗れ滅亡した。


歴史編集

おそらく、北方系の集団(扶余族)が韓人を征服して建てられた。これは、建国神話が高句麗と共有されていることから示唆される。

当初は馬韓という小国のひとつだったが、これらを征服した。豪族を貴族に編入するなどして、中央集権的な体制を整え、国史の編纂を行った。4世紀には高句麗王を殺すなど、勢力が著しく拡大した。

しかし、広開土王と長寿王が登場すると守勢に転じた。新羅と同盟するなど対抗したが、王を殺されたうえ、領土も奪われたため、服従を余儀なくされた。

この状況を建て直すため、少数派による寡頭政治を廃するなど改革した。こうして国力を蓄えた百済は、武寧王のもとで一定の安定を築いた。

さらに、聖王が中興を図り、新羅と結んで、奪われていた漢江流域を奪還した。だが、新羅がその漢江流域を攻撃したため反撃したが、聖王は敗死した。

その後新羅を攻め、高句麗とも手を結んだが、最後は唐・新羅連合軍に攻められ滅亡した。残存勢力が倭と結び、数年あまり抵抗したが、白村江の戦いで敗れた。

生き残った百済の人々は離散し、各地に移り住んだ(後述)。


滅亡後編集

百済滅亡後、生き残った人々は朝鮮各地と倭(日本)、中国に散ったと言われる。


朝鮮では統一新羅の政策により、旧百済地域には百済人の貴族が地方官として派遣され、彼らの功もあり百済文化は水面下で継承されていった(高句麗も同様である)。

のちに、新羅末期の後三国時代、甄萱によって後百済が興され936年まで存続したが実際に繋がりがあったかどうかは不明である(現状は無いものと見られている)。


一方、倭(日本)に渡った百済人たちは朝廷により百済王氏(王族)あるいは百済臣氏(家臣など)といった「百済姓」を与えられ、一定の敬意をもって遇せられ、日本の貴族・豪族として存続した。

高い技術を持っていた百済人たちは、倭(日本)にさまざまな貢献をした。特に、唐の攻撃に備えて倭が築いた朝鮮式山城への技術提供が有名である。

こうした百済系の人々は現在の大阪難波枚方市に定住して本拠を持った。現在でも枚方市には百済王家の始祖から歴代王を祀る百済王神社がある(かつては百済寺もあったが、これは後の戦乱により廃され現在は跡地公園となっている)。

のち百済氏の一部の人々(あるいは百済氏が倭にて興る以前に百済から渡来していた人々)は奈良(大和国)に定住した事から自らをもはや倭の者として「和(やまと)氏」を名乗った。

他にも、近江国滋賀県)蒲生郡に百済人が多く移り住んだとされる。ここには百済残党を率いて、復興を目指した鬼室福信の息子、集斯が住んだとされ、彼を祀る神社(鬼室神社)や墓が残されている。


光仁天皇の后(没後、皇太后・太皇太后を追贈された)にして桓武天皇の生母である新笠妃は和氏の出自である。夫の即位に際して新笠妃の実家は「高野氏」を名乗ることとなった。

一方、百済王氏系においても嵯峨天皇に対して寵妃・慶命を出し、第六嵯峨源氏となる源定を輩出した。第六嵯峨源氏からは藤原家(藤原道長の妻のひとりである源高明女こと源明子)へと至っており、そこから白河天皇の中宮である藤原賢子が出て堀河天皇の生母となっている。


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