概要
大韓民国の軍人・政治家。同国第11・12代大統領(任期:1980年~1988年)。
朝鮮戦争時に陸軍士官学校に第11期生として入学。同期には後任となる盧泰愚などがおり、卒業後は彼らと共に軍内秘密組織「ハナ会」を結成する。
卒業後はアメリカに留学して特殊戦訓練と落下傘降下訓練を受けた後、帰国後に第1空挺特戦団の創立メンバーとなる。その後は陸軍本部勤務を経て、ソウル大学のROTC(予備役将校訓練大学)講師在任中に朴正煕などによる5・16軍事クーデターが発生。
この際に陸軍士官学校生徒を率いて朴正煕を支持した功績で、国家再建最高会議議長秘書官に任命される。
その後は朴正煕の政界進出の誘いを「まだ立候補に必要な資金などの地盤もないし、何よりも軍には閣下に忠実な人間が必要です」として断り、以後朴正煕に目をかけられ立身出世の道を辿ることとなる。
その後は首都警備司令部第30大隊長や陸軍参謀総長上級副官を経て、ベトナム戦争に白馬師団こと第9歩兵師団第29連隊長として参加。部隊は多くの戦果を上げる一方、その振る舞い(飲み水が乏しい中でキャンプで一人暑いシャワーを浴びる、後方で晩餐会に出席する、挙句の果てに闇市で購入した武器を鹵獲した戦利品と偽って報告するなど)で指揮下の人員の士気は大いに下がった上、そのせいで直属上官に帰国後の勲章授与を反対された。
このベトナム戦争の悪評は帰国後も尾を引き、准将昇格試験を受けるも多くの上官に反対されたために大佐に留まり、団長を務めていた第1空挺特戦団が旅団に格上げされた際には、旅団長が准将と定められていたので「旅団長『代理』」となる羽目になった。
それでもなんとか1973年に准将に昇進して正式に旅団長となると、大統領警護室、第1歩兵師団長を経て1979年に少将に昇進、合わせて同年に軍防諜部隊のトップである国軍保安司令官に就任する。同年10月に発生した朴正煕暗殺事件では戒厳司令部合同捜査本部長として捜査に当たる傍ら、他の情報機関を一手に掌握して権勢を拡大し、一気に政権の実力者として浮上する。
これを快く思わない陸軍参謀総長の鄭昇和大将と軋轢を深め、12月にハナ会メンバーと共に粛軍クーデターを起こして鄭総長を逮捕。軍の実権を掌握し、「新軍部」と称されるグループの中核となった。
1980年には中将に昇進して保安司令官職のまま中央情報部長を兼任するなどますます権勢を強め、5月に非常戒厳令の全国拡大を主導して事実上のクーデターを決行。これに反発する大衆によって起きた光州事件を武力弾圧すると、国家保衛非常事態対策委員会常任委員長に就任する。そして8月に大将に昇進すると、既にお飾り状態だった崔圭夏大統領に新軍部を通じて圧力をかけて辞任させ、退役すると大統領選挙に立候補して当選し、同年9月に第11代大統領となった。
就任後はそれまでの第四共和国憲法を改正し、権威主義体制を維持しつつ民主的側面も導入した第五共和国憲法を成立させ、翌1981年に第12代大統領に就任する。
在任中は三清教育隊や緑化事業など民主化運動弾圧が行われる一方、経済的には韓国経済を安定成長させ他(軍歴末期より講師を招いて積極的に経済学を学んだという)、ソウルオリンピック招致やスポーツプロ化など娯楽に力を入れた。もっともこれらの政策は民主化運動弾圧から国民の目を逸らすためのガス抜きの側面があったことは否めず、特に後者の娯楽重視策は「3S政策」とも言われる愚民化政策と揶揄された。
- もっとも、このような自由化措置が長期的に見れば国民の政治的視点の覚醒を促し、むしろ民主化運動を早めたともいわれる。
それでも政権後期には強まる民主化運動の波に抗しきれず、1987年以降には改憲・反政府運動も活発化。一旦は憲法改正を拒否するも民主化運動が激化する中(6月民主抗争)、同年7月、先月末に後継者として選んだ盧泰愚が発表した憲法改正などの民主化宣言を受け入れることを決定し、1988年2月24日まで務める。
退任後は院政を敷こうとするも世論の批判を浴びて私財の国庫献納と隠棲を発表。それでも追及の手は緩むことはなく1995年12月に拘束されて裁判にかけられ、不正蓄財や粛軍クーデター・光州事件などの責任を理由に翌年に死刑判決を受ける。しかし1997年に金大中の計らいで減刑の後に特赦が行われ、釈放された。
その後も不正蓄財などで検察の取り調べを受けたり裁判にかけられたりしながらも、大統領退任後に病に苦しんだ盧泰愚と違って80歳を超えてもなお健康な姿を披露していたが、2021年に多発性骨髄腫を患って以降急激に病状が悪化し、同年11月23日に90歳で死去。約1か月前の同年10月26日には後任の盧泰愚が死去したばかりだった。
盧泰愚が国葬を営まれたのに対し、民主化運動弾圧に対し最後まで反省の意を示さなかった影響が強く、結局国葬や国立墓地への埋葬も見送られることとなった。
余談
俳優の朴容植は全斗煥に容姿が酷似していたために第5共和国時代は一切の俳優としての仕事を禁じられ、副業のごま油屋をしながら生活せざるを得なかった。大統領に盧泰愚が就任してからドラマ『第3共和国』『第4共和国』で全斗煥を演じる等、仕事が増えるようになった。流石の全斗煥も1991年に朴に直接会って謝罪している。ちなみにこのエピソードは日本テレビの『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』でも紹介されている。
- なお、全斗煥自身が朴の出演禁止を決めたわけではなく、朴の出演停止を決めたのは第5共和国当時の韓国放送公社(KBS、韓国の公共放送局)理事長である李元洪で、その経緯について全斗煥は知らなかったとされている。李は全斗煥に対する忠誠を示すべく過剰な忖度を行い、朴の出演停止もその行動の一つだった。ちなみに全斗煥は朴の演技について「自分よりもカッコいい」と高く評価したとか。